司法試験合格者発表

本学13年連続トップ

フレッシュな人材が増加

 法務省は十一月一日、平成八年度司法試験の最終合格者を発表した。合格総数は七百三十四人(昨年比四人減)。このうち本学出身者は、昨年より十五人増加し、百八十一人だった。これで本学出身者の人数は十三年連続のトップとなった。平均年齢は二十六・三五歳。今回から受験開始後三年以内の者を優遇する「合格枠制」を導入した結果、昨年度に比べて一・九三歳も若返り、二十年ぶりに二十六歳代になった。

 平成八年度の司法試験第二次試験の出願数は、昨年より三十四人少ない二万五千四百五十四人だった。このうち短答式試験で五千二百三十九人が合格し。論文式・口述試験を経ての最終合格率は、二・八八%と、昨年より〇・一三ポイント減少し、さらに「狭き門」になった。

 「合格枠制」とは、短答式、論文式、口述式の二次試験のうち、論文試験の合格者を決める際、「七分の五をこれまで通り成績順に定め、残りの七分の二は受験期間が三年以内の者から選抜する」というもの。

 この「合格枠制」の導入により、受験開始から三年以内の合格者は、三百九十七人(昨年百七十六人)と、大幅に増加。合格者全体に占める割合も五四・一%(昨年二三・八%)と、半数を超えた。また、最高齢者は、五十歳の男性だった。

 その他、平均受験期間は四・五二年(昨年六・〇六)に大幅に短縮。二十四歳以下の合格者数(三百二十二人)と、現役大学生の割合(三百十八人、四三・三%)、そして女性合格者数(百七十二人)が過去最高を示した。

 法務省は、受験期間短縮の目的が達成され、フレッシュな人材が得られた、と話しているという。

<連載>

神秘なる数学(1)

 かの有名なアインシュタインはこう言いました。「われわれの経験し得るもっとも美しいものは、神秘的なものである。それは真の芸術、真の科学の揺籃となる基本的感情である。そのことを知らない人、不思議な思いや驚異の念にとらわれないような人は、いわば死んだも同然であり、その眼はものを見る力を失っている、といわねばならない」。

 時々、「数学は理性の極にあるもの」と言われますが、実際はもっと神秘性に満ちています。この神秘性を探っていくと、今まで見えなかったものが見えてくるかもしれないので、数回にわたって、数学の神秘な世界を見ていきたいと思います。

数や形は抽象的概念

 数学というものは、科学の中でもっとも霊妙かつ抽象的な学問だと言われます。その対象となるのは、数とか形とか抽象的な関係とかいったような、この実世界に存在しないものです。たとえば、「数」というもの。これは目で見ることも、耳で聞くことも、また手に持つこともできません。リンゴ4個、人4人、馬4頭などならば目に見ることもできますが、「数」の4という数は実存しない抽象世界のもので、無味乾燥なものなのです。

 また「4」という数字は見ることはできますが、それは4という数を表わす文字にすぎず、4という数の概念そのものではないのです。

 幾何学的な形についても同じことがいえるでしょう。私たちは、三角形や円、球などを見ることはできません。三角形を描くことはできますが、それは“本当”の三角形ではなく、三角形の絵にすぎないのです。幅の無い直線、厚さゼロからなる幾何学上の三角形と言うものは、この地球上ではどこにも存在しないのです。

数学的本質は不変

 しかし、そうはいってもこれが全く存在しないわけではないのです。数や形は(現に今こうして考えているように)少なくとも人間の頭の中には存在しているのです。しかも、ただ“単に”頭の中だけではなく、他にも存在しているのです。なぜなら、数とか形とかが頭の中だけの単なる概念にすぎないものだとしたら、誰がこれをどう変えようとも勝手のはずですが、事実はそうではなく、私たちがいくら逆立ちしても数の性質を変えることは決してできないものだからです。例えば、1+3はどんなことがあっても4なのです。

 不完全性定理を発表し、数学界の神様的存在といわれるゲーデル(Kurt Godel,1906-78)は、数や線やその他の数学的本質は、このように絶対不変であるところからすると、自然界では決して見えなくても確かに客観的に“存在する”と考えました。「級とか概念とかいうものはわれわれの定義とか解釈などにはぜんぜん関係なく、実在のものと考えることができる――」とゲーデルは言っています。「これは実存の物体を仮定するのとまったく同じ正当な仮定であり、その存在を信じる理由も、物体を信じるのと同じくらいはあると私は考えている

無理数も実在の数

 ここで「電波」というものを考えてみましょう。これは目には見えません。しかし、私たちがテレビを見たり、ラジオを聞いたりすることによって、その存在を確認することができます。また、「紫外線」というのも目に見ることはできないけれど、しっかりと存在しています。

 また、数学の話に戻って、「無理数」というものを考えてみて下さい。例えば浮Qやπです。これらは有限な小数でその正確な量を表わすことができません。そういう意味で無理数というのですが、しかし、だからといって無理数がこの世に存在しないわけではないのです。きちんと有ることは有るのです。一辺が1の正方形を考えてみましょう。その対角線の大きさは、ピタゴラスの定理によって浮Qであることがわかります。その正方形が存在し、対角線が存在する限り、浮Qは存在するのです。また、πとは円の円周と直径の比のことだから、円が存在し、直径が存在する限り存在するはずです。浮Qでもπでも、それを表わすのに、小数がずらずらと、とめどもなく続いていくかもしれませんが、とにかく浮Qもπもれっきとして存在する数なのです。

 以上のように、一見して目には見えないようだけれども、見方、考え方を変えるだけで、それが存在していることを確認することができるものがあるのです(最後の例は観点が少し違いますが)。だから、「目に見えないものは存在しない」というのは、およそ「科学的な態度」とはいえないのではないでしょうか。(つづく)

(S・T)

コラム・淡青手帳

  最近卒業研究が忙しい。

生命系の研究室に通って、遺伝子の解析やタンパク質の機能解析を行っている。

その分野のトップを走る研究室である。

部屋には、高額な機械がところ狭しと並び、朝から夜遅くまで院生が研究にいそしんでいる

卒業研究を始めるまでは、机に向い、先生が板書するすでに体系化された知識を汲み取るという勉強しかしてこなかった。

それが学問というものの全てであるかのようであった。

しかし、科学の知識は長い歴史の中で、泥臭い試行錯誤を経ながら、ようやく結晶のように得られ、解明されてきたものだ。

卒業研究をやりながら、少しずつ体験としてわかり始めてきた

科学の発展は、西洋の合理主義がもたらした大きな成果である。

その成果は目を見張らせるものがあるが、正直に言うと、科学には限界があることも感じる。

科学は、人の寿命を伸ばしたが、「人生いかに生きるべきか」について教えることはできない。

科学は原子力を生み出したが、原爆に使うべきか、原子力発電に使うべきかは教えてはくれない。

“科学”は価値観を我々に提示することはできない

幸福な人生を送るためには、真に自分の良心を満足させ得る方向を示してくれる価値観が必要である。

それは、今まで“宗教”が担ってきた分野かもしれない。

今後我々に必要になってくるのは、真に現代の知性人を納得させ、一つの科学的な宗教真理とでもいうべきものではないだろうか。

今の卒業研究を通し、人類に貢献できることはほんのわずかであるが、

個人の利益だけの観点にとらわれることなく、これからも研究を続けていきたい。

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