<年頭所感>
「愛についての思索を深めよう」


 明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。今年は四月十二日で本学創立百二十周年を迎えるという節目の意義深い年でもあります。本学の健全な更なる発展と活性化を目指し、より一層の努力を積み重ねていきたいと思います。

愛や結婚は人生の最も重要なテーマ

 今月十日、松田聖子さんと神田正輝さんの離婚会見が行われ、大きな話題を呼んでいます。自由奔放な聖子さんの生き方がメディアで派手に取り上げられ、さまざまな話題を呼んできた人気カップルの結婚生活は、十一年半にしてついに破局を迎えてしまいました。

 ところで、ここでテーマにしたいのは、一般論としての愛や結婚についてです。この問題は、人間の幸不幸に直結するものであり、誰しも避けることが難しい極めて普遍的な人生の課題とも言えるものですから、本来もっとも重要なテーマではないでしょうか。

 エーリッヒ・フロムに『愛するということ』という大変有名な著作がありますが、この第一章で彼は次のように述べています。「人びとが愛を軽く見ているというわけではない。それどころか、誰もが愛に飢えている。……ところが、愛について学ばなければならないことがあるのだと考えている人はほとんどいない」、と。そこで今回は、誰しもが飢えている「愛」について考えてみたいと思います。

過去に提起された愛の代表的諸概念

 さて、一口に「愛」と言っても、この言葉は極めて多義的であり、人それぞれにこの言葉に込める意味や思いも異なっていると言えるでしょう。そこで、まず過去に提起された代表的な愛の諸概念を見てみることにします。

 その昔、ギリシアに愛を表象する重要な二つの言葉が登場します。それが「エロス」と「フィリア」です。エロスを初めて哲学的なテーマとしたのはプラトンです。彼はエロスの性的・身体的な要素を捨象し、イデアに向かって上昇し続け自己実現を目指す精神的な欲求を示すものとしました。一方、フィリアはアリストテレスに積極的に取り上げられ、優れた資質を持った者同士が理性に基づいて共通の理想を抱くような友情的愛とされます。

 こうしてギリシア時代、二つの「愛」があったわけですが、その共通する特徴は、自己実現的、自己充実的な愛だったということです。これらは、向上的愛であり、優れた者同士を励ます愛でしたが、自己の下位者とか仇敵とか資質に恵まれない者まで包み込むような愛ではなかったのです。

 ここに、それまで存在しなかった新しい愛の観念が登場します。それがキリスト教によって唱えられた、「敵を愛し迫害する者のために祈れ」という人類愛、敵愛としての「アガペー」です。それは自己を充実させるというより、自己を無にし報酬を求めない没我的・犠牲的愛また他者志向的愛であり、それは第一に人間に対する神の愛ですが、神を信ずることによって初めて人間にも持つことが可能になる愛とされました。

 以上の愛は、西欧の人びとの精神生活を強く規定してきました。これ以後の愛は、それらの変奏と考えてもいいかもしれません。近代になると、神を抜きにしたヒューマニズムとしての愛が主張され、いわば「愛の世俗化」とも言うべき状況が生まれてきます。ニーチェがキリスト教の説いた敵愛を弱者のルサンチマンとして断罪し、フロイトが母子間の愛などをも含むすべての愛を性愛と結びつけたことで、世俗化は一つの完成を見たと言っていいかもしれません。他方では、信仰による裏付けの意義を改めて強調したプロテスタント的愛も現代に至るまで影響力を持っています。

 他方、東洋では西洋とは異なる愛の観念が説かれていました。古代インドでは、自己愛は渇愛、愛執として、これを苦悩の源泉として否定し、むしろそれからの超克として解脱が説かれました。そして、解脱者が苦悩する衆生への愛として「慈悲」という愛の観念が生まれたのです。それは、人間だけではなく、生きとし生けるものすべてへ向けられるものでした。

 一方、古代中国では、愛に相当するさまざまな観念が登場しますが、中でも有名なのは儒教によって説かれた「仁」でしょう。これは、親子兄弟の血縁関係における親愛の情を基本としてそれを広く社会に及ぼすことを目指すものだと言えます。唐の時代になると、「仁慈」という言葉が造語され、両者の同一化がはかられます。

 聖徳太子の十七条の憲法の中核的な思想である「和」はこの概念に大きな影響を受けていますが、日本の伝統的な愛の観念は、愛を「♀♀愛かな♀♀しみ」と訓じていたように、仏教の「悲」の思想により深く影響を受けたようです。また、それは他者に対するやさしさや思いやりという共感的愛を基調とするものでした。

東大生が苦手なのは他者志向的な愛

 こうして、きわめて大ざっぱですが、愛の諸概念について見てきました。一口に「愛」といっても、実に多くの内容を持っていることがうかがえます。さまざまな類型化が試みられていますが、「自己実現的な愛」と「他者志向的な愛」の二つのタイプに分類することが一般に行われています。これに従えば、この一見矛盾する愛をいかに止揚できるかに、人生の重要なポイントがあるといっても過言ではないかもしれません。

 そして、東大生は一般に、前者の自己実現的な愛に多くの関心を持っているように思われます。それ自体が悪いとは言えませんが、最近の一部官僚による事件を見ても分かるように、それは往々にして単なる自己中心的な愛へと転化する可能性を秘めていることを否定できません。しかし、これをプラトン的に解釈すれば、教養学部初代学部長であった矢内原忠雄先生が説いたような「真理を愛する精神」「学問への愛」へと昇華されうる、本来善なる欲求とも言えます。

 さて、私たち東大生にとってより課題となるのは、キリスト教が説いたような他者志向的な友愛や隣人愛ではないでしょうか。これは、受験競争の中で育み難い性質のものだからです。相手を蹴落としてでも自分が、という弱肉強食的な発想からは対極にあります。さらに他者志向的な愛の看過できない側面として、異性に対する愛があります。これは、友愛や隣人愛が人類愛へとより広がりを増す潜在的な可能性を持つのに対して、むしろ一対一を志向するという点で、質的に異なるとも言えます。

 こうした他者志向的な愛、とりわけ異性への愛において考えたいのは、その感情が湧くのは「対象」に拠るのかどうか、すなわち愛の湧く原因が一方的に対象にあるのか、ということです。もしそうなら、その感情は自分の意志とは関係がありません。対象によって引き起こされた「自然」な感情だというわけです。そこでは、自分が努力して愛するとか、決意して愛し続けるというような「人為」が大きな意味を持ち得なくなります。

 しかし、本当にそうでしょうか。だとすれば、愛が冷めてしまった夫婦は、その体裁だけを保って他に代わりの刺激を求めるか、あるいは結婚を解消するしかないでしょう。離婚を良しとしない社会的な規範が取り払われたら、離婚の自由も謳歌されるようになるのでしょうか。あるいはまた、他に好きな「対象」が現れたら、不倫することもやむを得ないということになるのでしょうか。

愛することの深化・成長の努力が何より大切

 冒頭で紹介したフロムの著作の原題は、直訳すると「愛することのアート(技術)」です。この本で述べていることの一番の核心は、このタイトルに現れています。つまり、愛するということは誘発された自然な感情ではなく、一つの技術なのだということです。ここでいう技術とは、男女交際のマニュアル的なものを言うのではありません。愛すること自体が知識や習練を必要とする一つの技術だと言うのです。

 しかし、冒頭の言葉にもあるように、愛について学ぶことがあると思っている人はほとんどいません。その理由としてフロムは次の三つを挙げています。すなわち、@愛の問題を「愛する問題」としてではなく「愛される問題」として捉えている、つまりどうすれば愛される人間になれるかだけに主な関心を持っているということ、A愛の問題とは「対象の問題」であって「能力の問題」ではない、すなわち愛することは簡単だが愛するにふさわしい人を見つけることが難しいのだと考えていること、B恋に「落ちる」という最初の体験と、愛の中に「とどまっている」という持続的な状態を混同していることです。先ほどの問題提起は、特にこのうちのAにあたるものです。

 愛するということが一つの技術であるとするなら、何もせずに技術を習得することはできません。フロムは、あらゆる技術習得のために必要とされる要素として、理論に精通することと、その習練に励むことを挙げています。つまり、理論理屈だけではなく、実践の不可欠性を指摘するのです。さらに、技術を習得すること自体が自分にとって究極の関心事にならなければならない、ということを強調しています。

 西洋の父あるいは教師とも呼ばれる偉大な教父アウグスティヌスに、「私は愛するということを愛する」という言葉がありますが、このように、愛するということ自体に価値をおき、その深化・成長のために努力することが何よりも大切なことであるかもしれません。そのための第一歩として、愛についての思索を深めていきたいものです。

(おわり)

(F・Y)


東大新報 1997.1.15号