三国志漫話

民を大切にした呉
魏の敗因は君主の悪政

一番長く残ったのは呉の国

 三国志を読むと、最も英雄が生まれるのは蜀の国であることがわかる。知力策略天下一の孔明、厖統。武力「万人敵」の関羽、張飛。それらの英雄の数は魏、呉を圧倒する。ところが、それは小説著者の個人的な感情も含めた結果である。歴史を考察すればわかるように、三国時代もっとも国力を持つ国は魏である。人口は蜀の約4.5倍、呉の2.5倍である。しかし三つの国の中で一番長く残るのは、英雄の多い蜀でも、人口・兵力の充実した魏でもなく、呉の国である。その秘密は一体どこにあるのだろうか?

蜀滅亡の原因は無謀な戦争

 蜀を滅ぼしたのは魏であるが、その原因を作った張本人は最も戦争に長けた孔明とその弟子姜維であった(次回、孔明の章で詳しく述べる)。蜀の国は山に囲まれ、人口密度が低い。裕福でない土地であるが、周りの山のおかげで守りやすい地である。その代わりに他の国に攻撃するにも多難である。それにしても孔明は5度(小説では6度)祁山より魏を攻め、その結果勝利を得ず国力を消耗し、みずから命を落としてしまった。そして姜維も同じ過ちを犯し、八度魏と戦い、皇帝の不信を買ってしまうと、蜀はもうぼろぼろであった。地理上では守りやすいが、兵も将もいなくなり、魏の大将★艾により一撃で滅びてしまった。蜀の滅亡の原因は無謀な戦争を挑んだところにあった。
 蜀が滅びて約2年、かの強い魏は司馬一族のクーデタによって滅びてしまった。魏の滅亡の直接の責任は皇室にあった。建国者曹丕はなかなか立派な君主であったが、わずか6年で死んでしまった。その後継者の曹叡が魏の滅亡を招いた張本人である。若くも10代で皇帝になり、もちろん政治も軍事もわからない。すべて、曹真と司馬懿に任せた。孔明が5度(小説では6度)魏と戦うと曹真は戦死し、司馬懿親子が懸命に孔明の攻撃を防いでいるとき、曹叡は都で贅沢に暮らし、遊び放題していた。そのために大臣や民の心が曹氏から離れ、みずからも健康を壊し、ついに35才で病死してしまうことになるのである。その後8才の曹芳が皇帝になったが、実権は曹真の息子曹爽と司馬懿が握っていた。そして司馬懿のクーデタによって曹爽が亡き者になると、魏はその時点で事実上に滅亡していた。その後の皇帝はいずれも傀儡で、司馬一族の権威に脅え、漢の二の舞になったのである。魏の滅亡の原因は民のためによい政治を行っていなかったためである。

欲張りと短気が孫策の命取り

 呉の国はなぜ長生きだったのか?
 まず呉の建国を見てみよう。2代前の孫堅は黄巾賊との戦いの功績で江南の長沙の長官になった。長沙は揚子江の東南で、攻められない地である。しかし孫堅は私欲で劉表との戦いで36才で死に、息子5人とむすめ1人が放浪の生活をしていた。その長男孫策は武力天下一品であった。父が隠していた玉爾(中国皇帝専用のハンコ)を袁術に差し出し、兵隊を手に入れた。そしてそのわずかな兵隊を用いて、父のもと領地の江東81州を修復した。そして彼は小覇王と呼ばれ、勇武天下無敵の項羽とたとえられた。それだけではなく、彼がその継続者に残した最大の遺産は人材である。特に周瑜、張昭の二人は呉の大黒柱である。しかし彼には命取りの欠点があった。欲張りそして短気である。江東平定後、彼は丞相であった曹操に手紙を出し、大司馬の職を求めた。その結果、大事な部下張弘を失い、自身も暗殺者の手によって26才の命を落とした。

ほとんど戦いをしなかった孫権

 孫策の後継者はその弟孫権であった。彼は孫策と全く性格が逆であった。何よりも部下と相談し、余計な欲はない。彼が兄より官職を引き続いてから、赤壁の戦いまで戦争はほとんどしなかった。
 赤壁の戦いは孫権にとって父兄の遺産を最大限に使った戦いであった。地理の面では揚子江の天険、人材面では周瑜、黄蓋らの活躍、そしてみずからの決断である劉備との同盟である。しかし孫権にとってこの同盟は本当は曹操を倒すための同盟ではなく、江南の主の地位を守るためである。曹丕が漢王朝を乗っ取った直後、彼は曹丕に書面を出し、「漢の臣である私は魏の臣となりたい」と。彼にとっては恥であるが、その後魏と呉の間に大きい戦争はほとんどなかった。孫権は長生きであったため、その政治才能は十分に発揮された。彼が皇帝でいた数十年間、江南の民は豊かに暮らし、反乱や暴動は全くなかった。魏と比べると、その政治の良さは天地の差である。

民を大切にした国が生き残る

 孫権の後継者にはなかなかよい政治家がいた。息子の孫休は三代目の皇帝で、彼が在位していたときは、蜀と魏はすでに滅びていた。しかし、彼がよい政治を行っていたため、民が豊かに暮らし、軍隊も強く訓練され、天下統一目前の晋にしてもなかなか手を出すことができなかった。国を保つために、一番の秘密は民を大切にすることである。それを一番わかるはずの劉備の蜀が一番最初に滅びたのは、残念なことであった。
 天下統一を果たした晋もそれをしていた。孫休が死んでから、孫権の孫である孫皓が悪政治を行っていた。その時、晋の大将軍杜預がこう進言した。「天下統一なら今しかない、もし孫皓が死んで、また孫休みたいな者が皇帝になれば、いつまでも呉を滅ぼすことができないぞ!」。それが的中し、晋はみごとに戦乱の三国時代を終焉させたのである。
 次回は「名軍師孔明」について。お楽しみに。


大学院人文社会系日本文学専攻

呉美ジョンさん(韓国)

将来は日本文学の評論家に

 呉さんが日本文学を学ぶようになったきっかけは、日本と韓国は近いが、日本文学を一つの学問として研究している所が少なかったので、一つの外国文学として学びたいと思ったからである。韓国には日本の大衆文化がたくさん入って来ているけれど、「実はそんなに理解されていない」と思うと語る。
 日本の文学では、安部公房や漱石をよく読むらしい。特に近代文学を研究している。太宰の本も大学時代よく熱中して読んだそうだ。
 東大の学部生は、韓国で考えていたよりも「ちょっと真面目じゃない」印象を受けた。しかし、大学院生一人一人は「かなりしっかりしている」と評価する。ところが、「自分から積極的に話しかけないと、向こうからは話しかけてくれない」ことが多く少し残念だという。
 最近は修士の論文を書く毎日で、かなり忙しい日々を送っている。
 「人と出会う機会は少ないけれど、心が通じ合える人間関係を築き上げれればと思う」と話す。
 将来、日本文学の評論家になるのが目標。「学校の中だけでなく、外でも活躍できれば」と思っている。
 物静かで日本的な感じのする韓国女性だった。

呉 美ジョン
 出身は韓国、慶尚北道の慶州。高麗大学で修士課程修了後、日本へ留学する。研究生を経て、現在修士課程2年生。