ビッグOB
スペシャルインタビュー

第一製薬株式会社

取締役社長

  鈴木 正氏 (S28・法卒)


 今回インタビューしたOBは、第一製薬株式会社の鈴木正社長。鈴木先輩は入社6年で課長になり、13年で部長、20年(43歳)で取締役、そして54歳で社長に就任。その記録づくめの昇進は当時、マスコミで話題になったという。また、製薬業界の最終ポストといわれる日本製薬団体連合会の会長に今年5月、就任した。その実力派社長の鈴木先輩に、学生時代の思い出とあわせて、日本経済の課題と展望、そして東大生へのメッセージを語ってもらった。

構想実現能力を身につけよ
第一製薬株式会社 取締役社長 鈴木 正 氏

錚々たる教授陣に教わった

 ――先輩の学生時代の思い出について教えて下さい。

 私は昭和28年法学部卒業です。28年ということは、いわゆる旧制の最後なんです。私の世代が、旧制高等学校の3年を出て旧制の大学を出た最後の世代です。
 朝鮮動乱が終わって、朝鮮動乱の特需が落ち込んできたものですから、28、9年というのは戦後いくつかあった不況の中でも、最初の大きな不況期でした。また、いわゆる就職難の時代だったんですね。
 学生時代の思い出といいますと、旧制高校を卒業して東京に出てきたのは25年ですが、そのころから食糧事情も若干良くなってきました。「外食券食堂」というのがありまして、すべて配給制で食券を持っていくとご飯が食べられたんです。一方では、闇市場で、お金さえ出せば、ある程度何でも食べられるという時代になった頃です。私は旧制高校は八高ですけど、名古屋時代の3年間に比べれば、ちょうど、世の中が良くなり始めた時期でしたね。
 当時、私が住んでいたのは真砂町です。春日町から本郷の坂の左側が真砂町ですよね。たまたま本郷のあの一帯は空襲から逃れ残っていました。そこでおじが外科病院をやっていまして、そこに居候しながら通ったものですから、わりあい下宿の条件は良かったんです。学校にも近いし。したがって、授業が終わってから友達が必然的に僕のところにたむろするということですね(笑)。当時としては、まあまあ環境的には恵まれていたと思うんです。
 今の法学部の教授の名前はあまり知りませんが、私が教わった先生方は、今もうほとんど亡くなられましたけど、民法は吾妻栄さんとか、刑法は団藤重光さんとか、国際法は横田喜三郎、行政法は田中二郎、憲法は宮沢俊義さんとか、本当に錚々たるメンバーでね、そういう先生方に、直接教えていただいたということは大変ありがたいことだと思っています。
 それから、25番教室の地下の学食には世話になりました。栄養不足のため、卵を買って、ライスカレーの上にポンと置いて食べるんですけど、卵は一個10円でしたね。昭和25年頃、卵一個10円だったのが、今でもそんなに変わらないということは、卵というのは物価の優等生だなあと、そんなことを時々思い出します。
 私が眼鏡をかけるようになったきっかけはですね、法学部の試験は当時25番教室か31番でやったんですが、プリントではなくて、黒板に問題を全部書くんですよ。問題を読めなければ解答を書けるわけがないでしょう。それで字が見えなくて往生してしまいまして、困ってめがねを作ったというのが、きっかけなんです(笑)。
 今は試験は多分プリントだと思うんですけど、あの頃は先生が全部黒板に出題を書いて、それを見て解答を所定の原稿用紙に書いて提出するという形式でした。

社長の一本釣りにあって入社

 ――法学部ではどういうことを勉強されたのですか?

 私たちの頃は、政治科と法律科というのがありました。法律科というのは、法律系の学科中心で、弁護士や裁判官を目指す人たちが集まっていました。政治科の方は、法律で必修科目は憲法、民法、刑法、商法。それから三分の一くらい経済の問題が入ってくるんですね。政治科というのは「役人養成科」といいますか、今、経済学部から役人になる人もいますけど、当時は東大法学部政治科というのが公務員の登竜門だったんです。
 私も何となくそういう道を志向していたんですけど、ちょうど旧制高校の先輩で私淑していた財界人の方がいまして、その方の紹介でこの会社の当時の社長の一本釣りにあった様な形で入社しました。会社も当時はまだ小さかったし、私もその頃、実はこの会社の名前を知らなかったぐらいです。先輩に会っていろいろ話を聞けば、「君らが役人になって順調にいけば局長ぐらいいくだろう。運が良ければ次官だな。もっと大会社に入ることもできるだろうけど、『鶏口となるも牛後となる勿れ』という言葉があるでしょう」と、先輩に諄々と説かれたんです。製薬企業は戦後の勃興期で、事務系はあまりスタッフがいなくて、当時の社長が「これから製薬企業もね、作るだけじゃなくて、マネージメントが必要なんだ」ということで、文系のスタッフの強化に熱心で、たまたま、ここの会社に入ったというのが入社のきっかけでした。
 学生時代の思い出話ということとは話が変わってしまうんですが、先輩に説かれて既成のものに乗っかってエスカレーター式に上がっていくのも方法だけど、これからという企業に入って思う存分手腕を発揮することもいいことだと思います。そういう中で若い頃から、わりあい私も自由に仕事をやらせてもらえました。その間自分の提案もずいぶんよく聞いてくれました。おかげでいろんなことを経験させてもらいました。会社の合併吸収もやりましたし、リストラもやりました。今でも平均、年10回くらい、多い年では12、3回、海外に出ています。だから他の会社の役員になった人たちに比べれば、舞台は狭いかもしれませんが、たくさんの経験をさせてもらって、今にしてみれば良かったなあと思っています。

意外と弱い日本の基礎研究機関

 ――これから国際化の時代を迎えるにあたって、日本経済の課題と展望についてお話ししていただきたいのですが…。

 今、日本は大変な不況下にあります。戦後の高度成長を支えてきた、政治行政の枠組み、産業と政治の関係、産業構造、あらゆるものが今やもうミートしなくなっています。抜本的に仕組みを変えていかなければならないという時期にきているんだと思うんです。
 それを促す原因はいろいろありますけど、たとえば急進する少子高齢化社会の進展、それから容赦なく襲ってくるグローバルスタンダード化への動き、それから日本にはまだまだ非常に仕組みや制度として独特のものがたくさん残っています。金融関係がビッグバンなどで騒いでいるのもその代表的な事例です。こういうのも日本の経済がここまでくれば、いやでもグローバルスタンダード化していかなければならないわけです。その過程で、当然いろんなきしみが出ます。大蔵通産を主導とする行政のあり方もそろそろ変えていかないといけません。特に産業行政も重厚長大で来ましたけど、これから、日本が生きていく道は、もっと知識収容型の産業をのばしていくことだと思います。
 経済発展の原動力となるのはイノベーションであり、技術革新だと思うんです。各産業を通じて言えることは、日本は応用研究はするけれど基礎研究機関というのが意外に弱いんですね。薬についても同じことが言えるんですけど、幸い薬はまだガンやエイズをはじめとして、現代医学で未開発の領域はたくさん残っているでしょう。だから、挑戦領域が残っているという点では他の産業より恵まれていると思います。
 日本の製薬企業も漸く新薬開発力がつき、欧米にどんどん進出する時期にきているんです、他の産業より遅れていますけどね。なぜ遅れているかというと、他の産業であれば、1千億なりかけてドカンと設備投資して、値段がリーズナブルで高品質のものが出来れば、どこの市場でもある程度受け入れられます。しかし薬の場合は、もともと一製品単位の売上が小さい、一単位がせいぜい300億円とか400億円という大きさのものですから、一品で事業を構成するのは難しくて4品5品そろわないと一個の製薬企業としての経済規模にならないということです。もちろん特許がなければ駄目です。薬の開発は他の産業と違って非常に時間がかかるでしょう。だから、これは日本の製薬業界のこれからの課題ですね。つまり、遅蒔きながら国際展開を進めて欧米のメジャー企業に互して、どこまで対抗できるかという問題です。21世紀の日本経済は、知識集約型産業がもっと活躍しないと、重厚長大だけではもたないと思うし、これから産業政策をある程度ソフト、あるいは知識集約型産業をもっと育てるような策にもってかなければならないと、思います。
 その点でアメリカと比較すると、著しい差ですね。アメリカは非常に巨大な基礎研究費用を投入しているんです。例えば、ナショナル・ヘルス・インスティチュートという国立の機関がありますが、日本のいろんな省庁別にある研究機関を併せてもせいぜい2、300億円ぐらいでしょうか、それがアメリカでNHI一つとっても、それだけでゆうに3000億ぐらいの予算を持っているんです。日本には向きませんけどね、軍需関係の研究などは国が基礎研究投資するでしょう。その成果をいろんな機械メーカーが利用するんですけどね。もっと基礎研究投資を国が増やすべきだと思います。

技術革新が経済発展の基本

 産学協同というと、今まで癒着関係と見られがちでしたけど、これはもっと大いに進めるべきです。もちろん会計はきれいにしてもらわないといけないですけどね。なにか、日本は特に国立大学は公務員のルールもあってメーカーとの癒着関係を妙に警戒する傾向があるのですが、あくまで会計は公明にするということを前提に産学協同はもっとやるべきです。具体的には、東大なら東大がむしろ民間から「こういう研究するけど参加しませんか」と、どんどん募って資金やスタッフを集めて、もっと基盤研究を進めるべきだと思うんです。正直に言って、文部省の予算の制約もあって大学の研究機関の建物や設備は非常に劣りますね。薬学についていえば、当社の研究所の方が数段上です。こういう点はもっと産学協同を進めることも、ひとつの解決策になるでしょう。
 アメリカなんかでは産学協同のテーマ担当の副学長がいて共同研究を募るということを盛んにやっています。こういうことはもっと大いにやるべきだと思います。
 経済社会の成熟につれて、第三次産業、サービス業のウエイトが次第に大きくなっていくということは日本もあると思いますが、やはりサービス業だけでは日本経済の将来を維持していくことはできません。日本でもまだまだサービス業が大きくなっていく可能性はありますが、なんといっても経済発展の基本は新規の需要を喚起する製品を作るということが出発点で、それなしにサービス業だけで伸びるはずがありません。豊かになればレジャー産業などはまだまだ伸びるかもしれませんけど。
 とりあえず、国の経済の発展の基本をなすものは技術革新にもとづいた新規の製品が出るということであると認識します。民間、個々の企業でもそうですが、国として基礎研究分野をもっと育成するという政策をとるべきだと思います。

小粒になっている最近の東大生

 ――最後に、次代を担う東大生へのメッセージをお願いします。

 新卒の東大生ぐらいしか接触がないからよくわからないけど、率直に言って、総じて小粒になっていると思います。これは偏差値教育の欠陥かもしれないけど、頭は確かにいいんでしょう。しかし、頭がいいのと実社会に出てからの働きとは比例しないんです。役人の世界のようにエスカレーター式に上がっていく特殊な世界は別として、必要なのは、自ら着想し、立案し、人を納得させ、交渉し、要するに構想を実現していく能力ですね。これからの後輩に望みたいことは、学問も大事だけど、それをベースにして自分で構想し、それを実現していくことのできる人になっていってほしいということです。
 それと、これからはいやでも国際化時代ですから、在学中にできれば語学の一つぐらいマスターしておいたら、どんな社会に入っても役に立つと思います。英語が主流でしょうけど、ドイツ語でも中国語でもいいでしょう。最近は、なにか「ひとつやってやろう」という気概がある人が少ないですね。スケールが小粒になっている感じがします。

 ――最近はゴミのポイ捨てやカンニング、万引きなどが横行していまして、自分さえ良ければ、という風潮が蔓延しているように思います。

 国民性の違いかもしれないけど、確かに公共心とかボランティア精神とかは、欧米とは差がありすぎますね。日本は自分さえ良ければという利己主義が最近露骨のような気がしてしょうがないですね。
 日本人が本来犠牲的精神がないとは思いませんが、現代の風潮そのものはあまり良くないように思います。これでは21世紀が心配です。ですから、君たちもやがて人の親になるわけですが、家庭教育で、親がもっと権威を示さないといけませんね。   (談)

プロフィール

 (すずき・ただし)
 昭和4(1929)年8月20日、愛知県生まれ。
昭和28年東京大学法学部卒。同年、第一製薬株式会社入社。昭和44年に企画室長就任。昭和46年社長室長、昭和48年取締役、昭和50年常務、昭和58年専務を経て、昭和60年6月取締役社長に就任。社団法人東京医薬品工業協会会長も務め、平成10年日本製薬団体連合会会長となる。

 【第一製薬株式会社】
 創業以来、研究開発重視の経営で、数多くの新薬を開発してきた製薬企業。「いのち、ふくらまそう。」が企業スローガン。新薬開発力をベースに、国際展開も着実に進んでいる。