三国志漫話

第4話 人物編4 孔明の失敗

孤立無援の関羽
荊州喪失が決定的敗因

孔明の失敗が原因で蜀が滅亡

 蜀の大黒柱は言うまでもなく孔明である。しかしその孔明の失敗が原因となって、蜀が滅亡したのである。
 孔明は戦略の鬼材である。しかし、なぜ祁山で6度も敗れ、最後は自らの命までも失ってしまったのであろうか? 果たして、孔明に勝ち目はあったのだろうか?
 まず孔明の勝ちパターンをみてみよう。三顧の礼の際、孔明がみずから策を定めた。第一、荊州と益州を取り、本拠地を作る。第二、孫権と連合し、曹操とにらみ合う。第三、荊州から攻め出ると同時に、益州の北より別働隊をだし、魏の主力を牽制する。という策略である。実際では、第一、二歩は見事に成功したが、第三歩においては大きく間違った行動を取ってしまった。

自らの「勝利方程式」から外れた

 失敗の最大の原因は関羽の戦死と荊州の喪失である。荊州という地は攻め出るのが容易だが、守りにくい地である。それなのに、孔明は益州に入る時には荊州に主力をほとんど置かなかった。関羽のもとに使える駒はほとんどなかった。そのため麋芳、傅士仁を使うしかなかった。いくら関羽が知将とは言え、進言できる人は誰もいなかった。益州を攻め取るのは先決かもしれないが、それが成功したにもかかわらず、荊州に支援を出さなかった。
 荊州をめぐって孔明の第一の失敗は、人の使い方を間違ったことである。当時の荊州は攻め出るよりは、守るのが先決で、守るには孫権と同盟するのが無難である。関羽のような、傲慢で人の言葉に耳を貸さない将軍は適任ではないのである。法正や馬良など全局を把握できる人に任せるべきであった(その下に勇将をつける)。
 第二の失敗は関羽に攻撃命令を出したことである。曹操が攻めてくると、荊州が守りにくい地であることを知り、関羽に迎え撃ちするように命令した。孔明の「勝利方程式」では、孫権と同盟し、益州から北に別働隊を出した上、初めて荊州から討ち出ることが成り立つが、当時はその条件が一つも無かった。
 そのうえ、第三の失敗は関羽に援軍や人材を出さなかったことである。結局誰でもしているように、最初は関羽の戦闘経験に頼って勝っていたが、別働隊がでないため、関羽軍は魏の主力(徐晃軍)に苦杯を喫した。同時に守りに人材が足りないゆえ、麋芳、傅士仁は呉に荊州を明け渡してしまった。挟み撃ちされた関羽は逃げ場が無く、麦城で戦死する羽目になってしまったのである。
 荊州の失敗では、孔明は「勝利方程式」から根本的に外れていて、ある意味で天下統一の夢はそこから消えたとも言える。それを見ると、厖統の戦死は誠に取り替えしのない損失であったと言える(次回厖統の章で詳しく述べる)。

益州は守り易く攻め出にくい地

 孔明の失敗で荊州から出る道はなくなり、孔明は益州から北伐の道を選んだ。益州は荊州とまったく逆の地理環境である。山に囲まれているため、非常に守りやすい一方、攻め出るにも至難の技である。かつてその道から勝利を収めたのは、項羽を下した劉邦しかいなかった。劉邦はなぜその道を選んだのか? 彼は項羽に益州の地を与えられ、他に道が無かっただけである。項羽はそこから出る難しさを知っていたため、わざと彼を漢中(当時益州の都)の王として立てたのである。天下を伺おうとしていた劉邦は、当時絶望的な気持ちで漢中に入ったのである。孔明がその難しさを知りながらもその道を選んだのは、賢明な選択ではなかった。

逆に司馬懿に心理を読まれた

 では、劉邦の勝利の仕方を見てみよう。彼がとったのはいわゆる奇兵作戦である。桟道を作るふりをしながら、少人数の機動隊が険しい山を登り、一気に長安を落とした。勝利の秘訣は敵の油断であった。桟道から大部隊を送るには兵糧の輸送が間に合わない。小人数の機動隊はまともに戦うと勝ち目が無い。勝利の唯一の方法は敵の不意を討つことであった。
 しかし孔明の時は、同じ手を使ったとしても、項羽の失敗の歴史があったため、司馬懿がその二の舞を演じるとは考えられない。だからと言って、まともに大軍を桟道から運ぶのでは勝ち目が無い(実際にはその通りになり、食糧輸送問題で何度か敗戦していた)。そして、その道から出るにはやはり奇兵しかない。
 魏延が献じたのは子午谷から奇兵を出し、長安を急襲するという策で、司馬懿が伏兵を置くかどうかはともかく、まだ勝算があったが、孔明はこの策を採用しなかった。結局、司馬懿は孔明が冒険しない男と見抜き、伏兵は置かなかった。いつも他人の心理を読んでいた孔明は、ここで逆に自分の心理を完璧に読まれていたのである。兵法がいうところの、「他人が予想出来なかったこと考えた人は勝利できる」である。孔明が司馬懿の心を読んでいたら、魏延の策を取っていたかもしれない。

北伐の前に人材の育成をすべき

 荊州の出道が無くなってから、蜀が天下を伺うチャンスが無くなったとも言えよう。孔明が本当にやらなければならないことは国力を強くし、国王の劉禅を教育し、多くの人材を発掘することである。結局何もせずに孔明は北伐に出た。孔明が死んだ後、蜀には良い君主がなく、国を守るための国力もなく、大事を任せる人材もおらず、いつ滅びてもおかしくない状態になってしまった。蜀が早く滅亡したことと、孔明の誤った政策を切り離して考えることはできないのである。
 次回からは、孔明と並べられる短命の名軍師「厖統」。乞うご期待。


「世界は幻なんかじゃない」

辻 仁成著

 物心ついた頃から「自由とは何か」考え続けてきた著者は、その自由の概念を世界に広めたアメリカを確認するために、ニューヨークに住むようになった。垂直にそびえる都市で暮らし、バッテリーパークから自由の女神を見るために観光船に乗り込む人たちを見ながら考える。しかし、そこにあるのは、自由の喜びよりも、現実の厳しさであった。
 そんな時、著者にアメリカ大陸を鉄道で横断するテレビ番組のナビゲーターをしないかという話が持ち込まれる。大西洋側のオーランドからロサンゼルスまで、途中の街を撮影しながらの旅行である。断わろうとした彼に、ベレンコ元空軍中尉がサンディエゴにいるという連絡が入った。1976年、ミグ戦闘機を操縦して函館に亡命してきた元ソ連空軍パイロットで、高校時代、教室の窓越しに彼はその機影を見ていた。それ以来、ベレンコのことが気に掛かり、小説に書いたりしている。アメリカを横断しながらこの国の自由を検証し、最後に自由に憧れてこの国に亡命し、21年を過ごしたベレンコに会えば、自由という幻影の霧が晴れるのではと、著者は仕事を引き受ける。
 エッセイ風の文章の間に、著者が撮った写真が効果的にはめ込まれている。彼が感銘したのは、子供の頃から貪欲に働いている人々の姿である。ニューオーリンズではブラスバンドの少年グループの演奏に、元ミュージシャンの彼は衝撃を受ける。貧困地区の少年たちは、エンターテイナーとして日本の若者をはるかに凌駕する完成度だった。未来に対する危機意識から必死に頑張っているからこそ、未来があると感じる。
 旅の終わりに会ったベレンコは、今や実業家として手広く仕事をしていた。彼がアメリカで発見したのは「選択の自由」と「感謝の心の自由」だという。そしてしきりにビジネスの話をする。著者はそんな彼に幻滅しながらも、このバイタリティーこそが自由の本質ではないかと納得していた。旅することは考えることだということが分かる。(T)
(角川書店、本体1400円)


イベント情報

現代日本の書 代表作家展

 1948年、わが国の書道界の速やかな再建を目指して毎日書道展が開催された。以来半世紀、古典派といわれる漢字、かな、篆刻に、近代詩文書、大字書、前衛書、刻字の現代書部門を加えた日本最大の総合書展として、書道界の発展をリードしてきた。今年、この書道展の50回記念として、パリの三越エトワール館で「現代日本の書 代表作家展」が開催され、現地の人々に好評を博した。本展は、その帰国記念として開催されるもので、現在第一線で活躍している作家のみならず、戦後活躍した著名書家9名の作品も加え、全170点を前後期に分けて展覧する。

会期 11月10日(火)〜20日(金) 10時〜19時
会場 日本橋三越本店7階ギャラリー
主催 毎日新聞社、毎日書道会