1975年の秋、東京六大学野球リーグ戦は明大対東大の試合で開幕した。明大は前シーズンの優勝校、対する東大は当時11シーズン連続最下位中であった。一回戦、東大は明大に1点を先制されながらも7、8回で逆転に成功し3−1で快勝。二回戦では序盤明大に3点をリードされたものの中盤に4点を返し、逆転勝ちを収めた。一回戦は西山投手、二回戦では中沢投手がいずれも8安打完投で勝利投手になっている。前シーズンの覇者をストレートで下しての勝ち点は、当時のファンやマスコミを驚かせた。 東大の対明大戦92連敗が始まったのは、実はこの直後のことである。敗れた92試合に引き分け3試合を含めた95試合について調べると、東大の一試合当たりの平均得点は1.5点、明大の平均得点は6.7点、平均得点差は5.2点となっている。東大の完封負けは35試合、10点差以上の大差がついた試合は18試合にのぼる。しかし、意外に接戦が多いのが東大対明大戦の特徴でもあるようだ。 80年春の二回戦では、東大水原(教大附駒場高・当時3年)、明大松本両投手が共に譲らず延長12回を投げ切り、0−0で引き分けた。明大を完封したのは70年以降ではこの試合が唯一であるが、水原はそれまで敗戦処理の経験があるのみで、リーグ戦の先発はこの試合が初めてであった。81年秋の二回戦では、リーグ戦で10勝をマークした東大の大山投手(学芸大附高・当時4年)が明大相手にやはり延長12回を投げ切り、2−2の引き分けとしている。この試合、大山が許した安打が4であるのに対し、東大打線が放った安打は14。東大は5四死球を得ながら実に14残塁の拙攻で勝利を逸している。 甲子園大会出場を経験している市川投手(国立高校)が4年生となった85年春にも接戦が繰り広げられた。このシーズン一回戦では市川が延長12回を投げて4−4の引き分け。二回戦は3−4で惜敗し、三回戦の市川の投球に期待がかけられたが、市川の完投及ばず惜しくも3−4で敗れた。敗れはしたものの、この二回戦、三回戦では東大の安打数が明大のそれを上回るなど、正に互角の闘いぶりを見せたシーズンであった。さらに88年秋には、序盤3−0とリードしながら追いつかれ、延長11回の末3−4で逆転負けを喫した試合もある。記憶に新しいところでは、97年春の一回戦、当時2年生の遠藤投手が明大のエース川上投手(後に中日ドラゴンズに入団)と互角の投げ合いを演じた。遠藤は明大打線を7回までわずか2安打に抑える好投を披露、試合は0−0のまま終盤を迎えたが、8回に三塁打で失った1点が決勝点となり惜敗している。 連敗記録を過去にさかのぼって調べてみても、92連敗に匹敵するほどのものはない。75年以前の10年間に限ってみると、東大の対明大戦の成績は8勝37敗で、東大は2シーズンにわたって勝ち点をあげている。当時、明大には東大に対する『苦手意識』さえあったようである。 23年間の対明大戦95試合を得点差別に整理してみると、引き分けが3試合、1点差ゲームが実に21試合、2点差の試合が7試合にものぼる。明大戦92連敗に終止符を打った今季の試合は東大野球部史に残るものとなるだろうが、これだけ敗戦が続いたこと自体が正に奇蹟のなせる業であったのかも知れない。この連敗は今回の勝利の価値を高め、優勝にも匹敵する喜びを感じせしめた試合の数々として、共に歴史に残されるに違いない。 |