わが子の担任の名前を知らない父親 初日の二コマ目を担当した亀口憲治教授の講義は興味深いものがあった。亀口教授は本学教育学部教授で臨床心理学、家族療法が専門。今回は「家族の病理と父親の子育て参加の課題」というテーマで語った。
米国ニューヨーク州立大学で家族療法の研究を深めた経験をもつ同教授は、はじめに「米国で1960年代後半から70年代半ばまでに起こった家族崩壊が、日本でも80年代後半から起こり始めた。特に子どもたちがおかしくなっていった」と述べた。そして、特に問題なのは、「父親」であると指摘。「日本の父親は家庭人としてはお粗末である。わが子の担任の名前すら知らない」と語気を強めた。
同教授によると、わが国の父親が家事・育児に割いている時間は、欧米諸国の約4分の1で、10分程度(1日平均)に過ぎない、ということである。また、福岡県内のPTA協議会の調査や他の全国規模の調査では、小中学生の父親の中で、子どもの担任の名前を知っている者は、50数%しかいないという。これらの数字が「多くの普通の父親が子育てを妻に任せっきりにしている状況」を、雄弁に物語っているのではないか、と強調した。
暴力や虐待は親から子へと連鎖
家庭が抱える問題として同教授が挙げたのは、まず「家庭内暴力」であった。
最近は中学校ならず小学校、しかも、しっかりした担任のクラスですら学級崩壊が起こり始めているという。原因をたどれば、保育園児が家庭内で「暴力」をふるい、手に負えないケースが増えているというから、小さい頃にきちんとしつけられていないことが根底にあると考えられる。
一方、父親による暴力、いわゆる児童虐待も深刻である。虐待する父親自身が、子どもの頃に虐待された体験を持つケースも多い。つまり、暴力や虐待が連鎖していくのである。自分が親から虐待され、いやな思いをしたから、親になった時、自分の子どもには絶対暴力は振るわない、と決意していても、やってしまうらしい。意識しても繰り返してしまうという。
このことに関して、動物生理学・人間行動学専門の香川大助教授・岩月謙司氏も同じような見解を持つ。「自分が子どものころ虐待されると、どうしても将来虐待する親になるんです。けれども、それの逆もまた真なりで、愛情をもらった子どもというのは、やっぱりだれから教わることもなく大人になったら愛情をあげる人になるんです」。虐待も連鎖するが、愛情も連鎖するというわけだ。
三世代の関係に注目する「家族療法」
では、悪なる連鎖を断ち切るにはどうすればよいか。亀口教授は「両親のパートナーシップの再確立」が必要だと説いた。つまり、夫婦関係に注目したのである。そして、特に「会話」の重要性を訴えた。また、図1「三世代の家族関係」(亀口教授の講義要項より)を見てもわかるように、「実は、たとえ同居していなくても祖父母との関係が背景として大きな影響を持っている」という。
亀口教授は、そのような問題を家族全体の協力によって解決する「家族療法」を研究してきた。そのポイントとしては、家族の中の誰が悪い、などと犯人探しをするのではなく、「解決の糸口を一緒に探す」ということが挙げられる。時には「祖父母三世代と同時面接」をしながらお互いに知恵を出し合い協力していく。講義でも臨床のようすがビデオ上映された。そこでは、亀口教授が作成した家族機能活性化プログラムに従って課題をこなし、問題解決へと向かっていく家族のようすが映し出されていた。
所沢高の問題を避けた浦野教授
第2回の一コマ目を担当したのは、本学教育学部長(1996年4月〜98年3月)を務めたこともある浦野東洋一教授であった。
浦野教授の専攻は教育行政学、教育法学。この日のテーマは「中等学校における自治・参加と開かれた学校づくり」であった。
同教授は、講義中、入学式ボイコット事件で有名になった所沢高校のことを「歴史的に特色を持った学校」という一言で片づけた。「こころの教育」でも紹介したが、所沢高校は共産党の勢力が強く、生徒会が完全に操られていた異常な学校である。そのことは当然知っていたのだろうが、なぜか同教授はその話題に触れることを避けた。
人権教育によって「反抗」覚えた高校生
参考資料として同教授が配った青少年のデータにおもしろいものがある。図2「日・米・中の高校生の規範意識(「本人の自由でよい」と回答した者の割合)」である。この図を見ると、「先生に反抗すること」「親に反抗すること」「学校をずる休みすること」の項目で、日本の割合が突出して高い。どうしてわが国の高校生はこうなってしまったのだろうか。そこで浦野教授に質問してみると、「どうしてもなにも、これが事実なんだよ。高校生は本当に荒れている。今は、ちょうど学生運動をやってた連中が親の世代だから、よけいひどいかもしれない」と答えた。
正しくは「戦後幅を利かしてきた左翼的人権教育は、目上の人に反抗することを教えてきたから」ということではないだろうか。浦野教授にはそう答えてほしかった。
(つづく)
《東大新報「こころの教育」取材班》
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