掲示板に見入る学生たち
東京大学名誉教授 湯浅 明
米の籾を苗代にまく直前に、花が咲くというので、種漬花(タネツケバナ)という。田の間に生えるカラシの意味で、田芥(タガラシ)ともいう。学名はCardamine flexuosa Witheringといい、Cardamineは食用に使われるタガラシの一種のギリシア名kardamonから来た名。flexuosaは「波状の」で、葉のへりが波状縁をもつためである。
タネツケバナと同属(Cardamine)の日本産植物にはミズタガラシ、オオバタネツケバナ、ミネガラシ(ミヤマタネツケバナ)、ジャニンジン、エゾノジャニンジン、マルバコンロンソウなどがある。ハナタネツケバナ(Cardamine pratensis)の染色体数は2n=30、32、64である。
ジャニンジンは山地に生える越年生草本で、高さ40pくらいになり、茎には稜がある。葉は互生して奇数羽状複葉。春から夏にかけて葉掖2〜3個ずつの白色の十字形小花をつける。がく、花弁4、雄しべ6で、うち4本は長い。雌しべ1。果実は長さ2pくらいで、細長く、上向きである。ジャニンジンは蛇胡★蔔と書き、蛇の食う胡★蔔(ニンジン、セリ科)の意味。
ミズタガラシは本州中部以西、四国、九州の水田や湿地に生える多年生草本で、高さ60pくらい。ほふく枝を出し、葉は偶数羽状複葉。ほふく枝の葉は円形で互生。茎の先に大形の白色の十字形花をたてに並んでつける。全形はタネツケバナに似ている。水田芥と書き、水中に生える田芥(タガラシ)の意味。学名はCardamine lyrata Bungeといい、lyrataは「たてごと状の」で、葉の形による。
銀河系の知的生 命は人類だけか
ETは本当に存在するのでしょうか。この興味深い問題は、とりわけアメリカでは盛んに議論されてきました。そして、ETの存在を確信する科学者たちは、早くから電波による地球外文明との交信(CETI)を試みてきました。
その活動が世界的に拡がりを見せていた一九七五年、一つの衝撃的な論文が発表されました。銀河系には人類以外に知的生命はいないことを主張した論文『銀河系における地球外生物不在の一解釈』です。トリニティ大学のマイケル・ハート教授が発表したこの論文の波紋は非常に大きく、「ファクトA」という国際的論争にまで発展しました。
この論文の論理はとても明快です。その最大の論点は、“ET(あるいはその探査機など)がこの地球上にやって来ていない”という事実(=「ファクトA」)が、銀河系におけるETの不在を自明的に立証しているということです。
何億年も先輩の ETはどこに?
生命の存在がごくありふれたものであるとするなら、銀河系には、地球上に生命が誕生するずっと前に、すでに発生し進化した生命が数多く存在することになります。銀河系の年齢は約百億年で、地球の年齢は約五十億年ですから、何億年も“先輩”のETが存在していても不思議はありません。
この地球上に人類が登場してからわずか数十〜数百万年です。また、二十世紀に入ってからわずか百年間で、科学技術は目覚ましい進歩を遂げました。ライト兄弟が飛行機で空を飛んでからまだ百年にもならないうちに、人類は宇宙へ飛び出すようになったのです。何万年、あるいは何億年も人類に先立つようなETがたくさん存在するとすれば、人類がいずれ成し遂げると思われることを、彼らがはるか昔にやっているでしょう。つまり、宇宙に向けて探査機を送り出し、恒星間旅行を実現し、宇宙植民を行っていると当然考えられるのです。
とすれば、すでに彼らと遭遇しているはずだし、それ以前に地球や太陽系が植民地化されていてもおかしくありません。ところが、地球や太陽系にETがやってきた明白な証拠がないのです。これは、少なくともこの銀河系には、人類以外の知的生命が存在しないということを明白に示す事実とも解釈できます。
生命の発生は 極めて奇跡的
この解釈に対し、「植民地化を進めているETは、まだ太陽系付近にまで到達していないだけだ」、あるいは、「何らかの思想的あるいは社会学的理由から、宇宙の探査や征服に関心を持っていないのだ」、さらには、「ETはすでに来訪しているが、われわれの大部分がそれに気づいてないだけだ」というような解釈も成り立つでしょう。また、ETがいないと断じてしまえば、夢やロマンがないではないか、という考えもあります。それに対し、ハート教授は、生命の発生が、この広大な銀河系でたった一回起こるか起こらないかというようなきわめてまれな出来事だといいます。私たちの存在それ自体が極めて神秘的であり、奇跡的なのです。
ここで重要なことは、生命というものが、どこでも発生し得るありふれたものだということを科学は決して証明してはいないということです。面白いことに、ET否定論者も肯定論者も、生命発生の確率やETが存在する確率を、科学的な根拠に基づいた数字によって示します。ところが、そのどちらが真実なのか、科学的、客観的基準がないのです。したがって、ここでも私たちは短絡的な判断を避ける必要があるでしょう。
“真理探究”の 責任の再自覚を
さて、現在、私たちをさまざまな情報が取り巻いています。その判断の基準はあるのでしょうか。何を基準とすべきなのでしょうか。価値観が相対化している現代にあっては、基準の存在自体が疑われ、煙たがれるような状況があります。基準とは、すなわち“真理”です。真理への懐疑がみなぎっているのが、ニーチェ以降の現代思潮です。
だからこそ、古くて新しい私たち大学人の重要な使命、すなわち“真理の探究”がクローズアップされる必要があるのではないでしょうか。本学教養学部の初代学部長を務めた矢内原忠雄元総長は、この使命を私たち東大人に強く求めた人でした。
では、“真理”とはいかなるものであり、いかなる資格を備えたものなのでしょうか。私たちが一般に“真理”という場合、それは絶対的すなわち、普遍的、不変的であり、かつ客観的なものであるとイメージします。しかし、矢内原先生の定義はこれとはまったく発想が違います。すなわち“真理”とは、「人間を生かしめ、人間に生存の意味と目的を自覚させ、人間が人間らしく生きることができるように光を与えるようなもの」だというのです。これが、非常に主観的な定義になっていることに注意する必要があります。キルケゴールは、近世におけるこのような真理観の元祖とも言える人でした。「重要なことは、私にとって真なる真理を見出すこと、私がそれのために生き、そして死することを欲するイデーを見出すことなのだ」と彼は力説しました。
もちろん、真理というからには、人それぞれの独りよがりな思い込みであってはなりません。矢内原先生も、真理はある一つの解釈や見方で独断的に探究されるものではなく、いろいろな方面からいろいろな方法で研究されなければならない、と述べています。しかし、客観的真理は誰もが認めるものであっても、必ずしも、人がそのために生き、そのために死ぬことができるものではありません。客観的ということは、言い換えれば、「自分とは関係ない」ということでもあるからです。キルケゴールも矢内原先生も、単なる客観的真理にあきたらず、自らの生を支えるものとして信じうるような主体的真理を求めました。そして、それが普遍性を帯びた時に、“人類を生かしめる”真理となるのです。
“私”の使命を 知ることが重要
こういった真理観は、キリスト者以外にはなかなかピンとこないものかもしれません。しかし、彼らの問題意識は、私たちすべてにとって非常に重要なものと言えます。
大学生にもなると、物事に対して“客観的”になり、すべてをありふれたこととして受け入れるようになりがちです。しかし、私たちは、無意識的であれ、「自分はなぜ存在し、何のために生きるのか」というような問いを自らに課し、その答えを求めていることを否定できません。“私”は、この宇宙の中でごくありふれた、とるにたらない存在であるという客観的解答で満足できないからです。キルケゴールの表現によれば、「私の使命を理解すること、神が私に何をなすことを望んでおられるかを知ることが問題」なのです。そして、その答えこそが、他の誰でもない、“私にとっての真理”“主体的真理”です。それは、科学に関心のない人にとって、それが“客観的事実”であっても「どうでもいいこと」でありえるのとまったく対照的です。
普遍性を要求しうる主体的真理こそが、私たちが大学時代、探究すべき第一のものではないでしょうか。これが、現代の情報化社会においての判断基準となるものであり、さらには、二十一世紀を担うべき情報発信主体としての私たちが求めるべき第一のものとも言えるでしょう。
それは、自己中心主義、エゴイズムからはまったく自由なもののはずです。そうでなければ、前回見たように、いずれ科学的事実によって覆されることになるからです。その意味で、真理を追究する姿勢は自己中心であってはならず、逆に、自己中心の態度から真理をつかむことは不可能とも言えます。このような観点から自らの学問的態度を吟味、反省し、大学人としての使命と責任をまっとうしていきたいものです。
|ホームへ戻る|