第86回公開講座

「現代幸福論」テーマに開講

汐見教育学部助教授らが語る

 「現代幸福論」をテーマとした第八十六回本学公開講座が九月二十八日、大講堂(安田講堂)で開講した。第一日目は、「幸福」を中心に、本学医学部の天野直二講師と、教育学研究科の汐見稔幸助教授が講義を行った。この公開講座は「開かれた大学」を目指し、昭和二十八年から開催されてきたもので、会場には多くの人が講義を聴きに訪れた。

講義の様子
 当日は、定刻の一時半から、本学の吉川弘之総長が開講の挨拶を行った。「幸福とか不幸というものは、主観的なもので、分析することが困難である」、「実は“幸福”は自分でつくっていくものでは」と今回のテーマについて語り、また「開かれた大学の任務として、(この公開講座を)より充実したものにしていきたい」と挨拶をした。

 この日は、まず医学部天野直二講師が、「ボケをいかに予防するか−痴呆の最近の研究から−」と題して、次に教育学研究科の汐見稔幸助教授が、「自分を好きになるということ−こどもの現代幸福論−」と題して語った。

 天野講師は、ボケについての理解を正しく進めることに主眼をおき、その要因から予防について言及した。

 痴呆研究の最前線と今の医療にギャップがある。この現状でとても大切なのは、心理的要因、対人関係の要因、家庭や社会的な要因、さらに健康を維持する身体的な要因がある。そこにボケ予防の最初の糸口があるはず、と言う。身体的には、高血圧や糖尿病、低血圧の適正な管理、さらに適度な運動と食事などの身体管理は血管障害を予防する上で重要なことである、と述べた。

 続いて、汐見助教授は、「いじめ」の問題をとりあげながら、「これまでも“何故いじめをするのか”という研究はされてきたが、それだけでは解決にならないと思う」。「“いじめられた時、自分の惨めさを打ち明けられない”、この問題を解く必要がある」と言う。それを考えていく上で、十一歳の子供を対象にした、「自己評価」の調査結果を示し、「自分に対するプライドが低い」、「自分を積極的に表現することが弱い」「自尊感が弱い」と述べた。

 つまり、「人の評価を気にすることなく、ありのままの自分というものを深いところで肯定する」気持ちが足らない。「不登校」のカウンセリングをしている人に聞いても、「若いお母さんの子供虐待」についての相談にのっている人に聞いても、相談してくる人に共通しているのは、「自己肯定感が低い」ということである。幸福とは、ありのままの自分を肯定する力ではないか、と言う。

 時間などの関係上、会場での質疑応答はなかったが、参加していた人たちは、熱心に講師の語る言葉に耳を傾けていた。

<視点>

薬害エイズを考える(中)

「不作為」の萌芽が“私”の中に

 あまりに不条理な「薬害エイズ」事件。その原因は一体どこにあったのだろうか。問題は非常に大きく多岐にわたるため、原因を探るには多角的な視角が必要とされる。しかし、この事件の中で、一番の焦点となっているのは、“事件当事者が、多くの生命の危険性を知りながら、自分の立場や利益を優先させ、適切な危機回避措置を取らなかった”という『不作為』の責任である。そして、この視点から「薬害エイズ」事件を見つめることは、実はこの事件が私自身の問題であることを自覚することでもある。

問われる様々 な「不作為」

 事件当事者の「不作為」問題。それは一人に限られる問題ではなく、複数の角度から問われている。

 その重大な例として、厚生省生物課長を務めた郡司篤晃・松村明仁両氏の「不作為」責任が挙げられる。

 郡司氏は、HIV混入の恐れのある輸入非加熱製剤を回収したという日本トラベノール社からの報告を、当時のエイズ研究班などに伝えなかった。また、同氏は、安全な加熱製剤の輸入促進や安全度の高いとされる国内クリオ製剤への転換など、非加熱製剤の危険回避のための対応策をいったんは検討、ところが、最終的な意思決定機関ではないエイズ研究班の意見にしたがい、緊急策を何も講じなかった。一方、松村氏は、加熱製剤が承認された八五年七月以降も、HIV混入の恐れがあった非加熱製剤の回収命令を出さなかった。この期間に出荷された非加熱製剤によってHIVに感染、死亡した男性の症例が報告されている。

 もう一つ、「不作為」を厳しく問われているのが製薬会社である。

 非加熱製剤へのHIV混入が明らかとなり、自主的な出荷の規制が呼びかけられた後も、抗体検査をしていない危険な非加熱製剤を売り続けた。加熱製剤が国内で承認された後、ミドリ十字社などの製薬会社はなおも危険な非加熱製剤を出荷し続けていたのである。

「不作為」の 二つの原因論

 では、こういった「不作為」を引き起こした根本的な原因は一体何であろうか。その原因について、さまざまな論が主張されているが、それを大きくまとめると以下の二点に絞られる。

 一つは、産官学の癒着構造にその原因があったとする「構造薬害」の視点である。この視点は、薬害の背後にあった金銭や地位にからんだ癒着の構造を暴き、それを解体するところに問題解決の目的地を見る。国としての責任を認めようとしなかった厚生省をして、ついに謝罪させるに至らしめたのは、こうした観点から「不作為」を追及した一つの形だったと言える。

 もう一つは、「不作為」の原因が、事件当事者の異常な人格にあったとする視点である。八三年当時の厚生省エイズ研究班長であった安部英氏は、マスコミにとって格好の攻撃の対象となった。マスコミはこぞって安部氏のプライバシーに土足で立ち入るがごとくに、「彼はそもそも問題を起こすような欠陥のある人格だったのだ」と分析、批判した。

 こうして、マスコミなどは、「不作為」の原因として、「癒着構造」や「精神異常」を挙げている。確かにこれらは、社会学的、心理学的に妥当な論であると言える。

私の中の「不 作為」問題

 しかし、癒着の構造を解体すれば、あるいは事件当事者を精神異常者扱いして社会から追放すれば、事件の本質的な問題解決がなされるのだろうか。そして、被害者の無念が本当に晴れるのだろうか。この点についてもう少し深く考えてみる必要があるように思われる。なぜなら、今回の事件で厳しく問われている「不作為」という態度は、“私”と無関係なものと言い切れないからである。

 「不作為」とは、端的に言えば、私欲を優先して「見て見ぬふり」をしたということである。この「事なかれ主義」ともいうべき態度は、“私”の日常生活で常に見受けられるものではないだろうか。

 たとえば、電車に乗った時、われ先に席をとって座る。目の前に腰の曲がったおばあさんがやってきたが、悪いと思いながらも“私”は目をふせ寝たふりをする…。

 路傍に寝転んでいる浮浪者が目に入る。もしかしたら、この人たちは今日餓死するかもしれない。そして、百円のパン一つでも、飢えをしのげるかもしれない。しかし、“私”は汚いものでも見るかのように、目をそらし、さっと通り過ぎる…。

 少し振り返ってみれば、何気ない日常生活の一こま一こまに、心にはひっかかるものがありながらも、「見て見ぬふり」をして過ごしてしまっている場面は非常に多い。これは、まさに私の中の「不作為」ではないだろうか。もちろん、ことは「薬害エイズ」のように大きくはない。しかし、ここには重大な「不作為」へと発展する萌芽を認めざるをえない。他でもない“私”の中に、「不作為」の根本的要因が潜んでいると言える。

「不作為」は 私自身の問題

 世界を見れば、一日に六万人の人が餓死している。“私”が、何気なく食べる一食の食事。これを食べずに、もしも彼らの食事代に当てられたなら、一体何人の人を、何日間、救えることだろうか。そんなことは「知っている」。しかし、“私”は、今日も食べたいものを食べ、着たいものを着、やりたいことをやる…。多くの人の命の危険を知りながら、何もしない。これは、「不作為」そのものではないだろうか。

 ある人はこう言うかもしれない。「何かしたい気持ちはある。しかし、今の社会構造の中にあっては個人は無力であり、どうしようもないのだ」と。では結局、社会の構造が悪いのだろうか。善良なる“私”は、社会システムの被害者なのだろうか。

 この発想からすれば、今回の事件当事者も、ある意味では社会システムの被害者と言わざるを得なくなるだろう。しかし、社会システムの構成員は、他ならぬ“私”であることを忘れてはならない。社会システムは、“私”とまったく無関係に存在する無機質なものではなく、“私”たち一人一人で有機的に構成されるものではないだろうか。そこにおいては、やはり私たち一人一人の「不作為」も、重要な責任性を帯びてくるだろう。私の中の「不作為」が有機的に束ねられて、社会的、国家的な「不作為」となるのだから。

 このように、私たちは、日常生活の一こま一こまで、「見て見ぬふり」をしながら過ごしてしまっていることに気づく。そして、よく考えてみれば、それらは時や立場を変えれば、今回の「薬害エイズ」に見られる「不作為」の問題にも通じ得るものであるということを否定できないだろう。私たちは、今回の「不作為」問題を、第三者的に批判、攻撃の対象とするだけではなく、“私”の問題として胸深くとらえ直す必要があるのではないだろうか。

(つづく)
(S・S、F・Y)

  

早大から1勝あげる

決定打欠き、勝ち点は献上

 九月二十一日より、神宮球場にて東京六大学野球リーグ戦、東大対早大の試合が行われた。

 初戦、完封負けを喫した東大は、二回戦では効率のよい攻めで早大に競り勝ち、本リーグ戦二十試合ぶりとなる白星を挙げた。しかし三回戦、遠藤、氏家両投手がよく投げたが、東大打線は安打を放ちながらも早大三沢の前に決定打を欠き惜敗。早大に勝ち点を献上した。

◇一回戦(九月二十一日)

東大
 000000000 0
 20010000× 3
早大
 勝 三沢 敗 氏家

 早大は一回、二死三塁から中村寿のゴロを遊撃手が後逸する間に走者還って一点を先取。二盗後、西牧が中前適時打を放ちさらに一点を追加した。四回には、二死二塁から三塁手の一塁悪送球の間に走者還り、無安打で得点。リードを広げた。

 東大の先発氏家は、二回以降早大打線を散発の3安打に抑えるなど力投したが、東大打線は早大三沢の前にわずか4安打。3併殺と攻めのまずさもあり、二塁を踏むことができなかった。

◇二回戦(九月二十三日)

早大
 000101000 2
 01020000× 3
東大
 勝 氏家 敗 村上

 一−一で迎えた四回裏、東大は二死一、二塁から八番仲井の右越え三塁打で二者生還し、勝ち越した。

 六回に一点差に詰め寄られた東大は、七回からはエース氏家が登板。終盤、毎回得点圏に走者を置く苦しい展開が続き、最終回も二死無走者から連続四球、さらに二つの盗塁も許すなど緊迫したが、氏家が最後踏ん張ってゲームセット。

 東大は5安打で三点と効率のいい攻めで、昨年秋、法大に勝利して以来二十試合ぶりの白星を挙げた。

◇三回戦(九月二十四日)

東大
 000000000 0
 00010100× 2
早大
 勝 三沢 敗 遠藤

 四回、早大井上が東大の先発遠藤から左へ本塁打を放って先制。六回にも一死一、三塁から井上が左前に適時打して一点を追加した。

 東大は早大のエース三沢に対し、五番仲戸川の3安打を含む7本のヒットを放ち安打数では早大を上回ったが、緩急をうまく使い分ける三沢の投球にかわされて決定打を欠き、三塁を踏むことができなかった。

国家一種採用内定者発表

本学法学部生半数

大蔵官僚に対する批判?

 大蔵省は十月二日、将来の幹部候補生である国家公務員T種(キャリア)の九七年度採用内定者を発表した。内定者のうち本学法学部の卒業予定者はほぼ半数にとどまり、私大や理系出身者を積極的に採用したのが目立った。大蔵官僚や同省の本学法学部偏重に対する批判に配慮し、目新しいイメージを打ち出そうという狙いがあるといわれる。

 同省キャリアの内定者数は今春より三人少ない十九人。私大の女子学生(慶大)を三十二年ぶりに採るほか、遺伝関係を専攻した本学の大学院生や、京大理学部の学生など異色の人材も内定した。

 一方、本学法学部の学生は十人に抑えられてしまい、大学紛争のあおりで本学からの採用が極端に少なかった七三年を除き、戦後最低となった。

 大蔵省秘書課では、「大学や専攻にこだわらず幅広い人材を集めた結果」と説明しているが、大蔵官僚への風当たりが強いうえ、金融検査・監査部門の分離が現実味を増すなかでの採用だったこともあって、“本学の学生が敬遠したのでは”との指摘もあるという。

 また、キャリア採用を今年より一割減らすことの閣議の決定に沿い、財務、国税、税関などを合わせた大蔵省全体のキャリア内定数も四十六人と今春より六人減少している。

合格者氏名を非公表?

本学など改善策を決定

 プライバシーへの配慮から、入試合格者の氏名や出身校の公表を取り止める大学が増えている。一部の大学ではすでに実施したが、文部省が今年五月に「自粛」を求める通知を出したことから一気に広がり、本学でも来春からの改善策を決めた。

 問題の発端になったのは、今年二月に日本弁護士連合会人権擁護委員会がまとめた報告書。「氏名公表は受験者のプライバシー侵害に当たる」として、自粛を求めた。

 これを受けて文部省は氏名などの公表をやめるよう通知し、各大学が対応を検討。国立では、東北大、熊本大なども相次いで来春からの改善策を決めた。まだ態度を明らかにしていない大学も、“改善する方向で検討中”のところが多い。私立はもともと公表していない大学が多いこともあり、来春入試では「非公表」が主流になりそう。文部省大学入試室は、「各大学が個人情報の保護に理解を示した結果が表れた」と評価する。

 公表の範囲をどこまでとするかは大学によって差があるが、一般的なのは“受験番号のみ”。他大学に先駆けて二年前に合格者の氏名公表をやめた、ある私立大の入試担当者も、“特に反対はなかった”という。各大学の入試担当者は“公表を取りやめることのデメリットはほとんどない”という。

 ただ、高校によっては浪人している卒業生の合否確認に手間がかかるという面もあるようで、ある高校からの「翌年以降の進路指導のためには合格先を週刊誌などで調べることが不可欠」と言う声も聞こえる。

 また地方の大学関係者からも、「週刊誌などに合格者の出身地が載ることで全国から学生が集まってきていることをPRできた」と、“宣伝効果”が薄まることを危惧する声もある。

 このように、一部でぼやきも聞かれるが、「非公表」の流れは定着しそうな雰囲気だ。

 多くの大学が非公表に踏み切ったことで、地方版などで合格者を掲載している新聞社も見直しを検討しているが、高校別のランキングなどを載せている週刊誌などでは、読者の要望が強いという理由で、掲載を続けるところもありそう。

キャンパス情報

原子核研究所・宇宙線研究所の一般公開
 原子核研究所では、宇宙線研究所及び物性研究所附属軌道放射物性研究施設の共催により、次の要領で研究施設の一般公開、市民講座等を開催する。
日時 10月13日(日) 10時〜17時
場所 田無市緑町3−2−1 電話〇四二四−六九−二二二二 ホームページアドレス http://www.ins.u-tokyo.ac.jp
公開研究施設 サイクロトロン、電子シンクロトロン、重イオン蓄積リング、短寿命核分離加速実験、電子蓄積リング等の加速器並びに各種原子核物理実験装置
市民講座 13時〜14時「寿命の短い原子核ビームを使った研究」 原子核研究所教授 片山一郎氏
 14時15分〜15時15分「水の望遠鏡で宇宙を探る」 宇宙線研究所教授 鈴木洋一郎氏

平成8年度東京大学国際シンポジウム「液胞型ATPase‥その15年と新展開」
 液胞型ATPase(V−ATPase)は、一九八一年にわが国おいて酵母の液胞に初めて発見されたH+−輸送性ATPaseであり、その後、動物・植物・真正細菌・古細菌に広く分布し、多様な生命現象に重要な役割を担っていることが判明した。近年とくに発展の著しいV−ATPase研究に携わる世界第一線の研究者を一堂に集め、最先端の情報交換を行うと共に今後の展望を討議することを目的として、シンポジウムを開催する。
日時 11月2日(土)〜5日(火)
場所 湘南国際村センター(神奈川県葉山町)
主催 V−ATPase15年シンポジウム組織委員会
共催 東京大学、国際生化学・分子生物学連合(IUBMB)
協賛 日本生化学学会、日本細胞生物学会
プログラム概要
 総括 二井将光(阪大・産研)「膜輸送の新展開‥ポンプATPaseの多彩な機能」
 特別講演 安楽康宏(東大・理・生物科学)「酵母におけるV−ATPaseの発見とVMA1プロトザイム」
詳細 http://www.bcasj.or.jp/jb/conference/V-ATPase/index.htmlをご覧下さい。
問合せ V−ATPase15年シンポジウム組織委員会委員長 中野明彦(大学院理学系研究科生物科学専攻)

第15回生研公開講座
日時 10月11日(金)〜12月13日(金)(毎週金曜日 午後6時から7時30分まで)
場所 東京大学生産技術研究所第一会議室
主催 東京大学生産技術研究所
協力 財団法人生産技術研究奨励会
プログラム
 10月11日「風水の正体」     藤森照信・教授
 10月18日「都市の北風と太陽」 加藤信介・助教授
 10月25日「都市と水環境」    虫明巧臣・教授
 11月1日「都市のモビリティ」 桑原雅夫・助教授
 11月8日「都市の補強」    大井謙一・助教授
 11月15日「都市の足元」    古関潤一・助教授
 11月22日「都市と意識」    曲渕英邦・助教授
 12月6日「都市の安全」    目黒公郎・助教授
 12月13日「都市と情報」     村井俊治・教授
受講資格 学歴・所属などの受講資格の制限は一切ない。学生、大学院生から一般の人まで、興味のある人は誰でも参加できる。
受講定員 200人(先着順)
参加方法 事前の申込みは必要なし。なお、定員オーバーでも受け付けますが、席がない場合もあります。
問合先 東京大学生産技術研究所(庶務掛) 電話〇三−三四〇二−六二三一(内線二〇〇五〜六)

コラム・淡青手帳

 無慈悲な強盗殺人を犯したある男の話。残忍な行為により、その男は死刑宣告を受けた。それでも反省の色をまったく見せない。“良心”のかけらもないようなその姿。「人からほめられたことがなかった」という彼にとって、自分の行為は反省すべきものとは感じられなかったのだろう▼その彼が獄中、中学校の先生にほめられ、非常にうれしい思いをしたことを思い出した。生涯唯一のほめられた体験だ。感謝の気持ちを伝えたくて、その先生に手紙を書いた彼は、返事で短歌を詠むことを勧められる。それ以後、自分の心の遍歴を短歌にして詠むようになった。これが、彼の中で眠っていた良心を目覚めさせてゆく。自分の罪の深さを初めて悟った彼は、その罪を悔い改めながら、わずか三十三歳で静かにこの世を去って行った。獄中で書いた六百四十首にのぼる短歌。それは、自選の歌集となって多くの人に感銘を与え続けている▼これは最近、新聞で読んだ実話だ。現実を見れば、地位や名誉、そしてお金などに振り回され、エゴを丸出しにし、人を傷つけても平気な顔している人がいる。良心のかけらもないような極悪人すらいる。それでも、人間は本来、何をしていいのか、何をしてはいけないのかを知っているにちがいない。ただ、自分の本当の心、“良心”を見失っているだけなのだ▼彼の歌集のカバーにはこう書かれている。「ひと言のほめ言葉が私の心を救い、私の人生をかえた」と。極悪犯罪人であった彼の心の奥底にも、確実に良心は息づいていた▼彼の死から三十年。時代が移り、環境の変化はあっても、人間の奥底にある良心に変わりはない。現代に生きる私たちが、自らの“良心”の声に気づき、耳を傾けてゆくなら、希望の二十一世紀を築いてゆけるだろう。

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