声の広場 MY VOICE

薬害エイズ


ひどい事件
だと思う


文T二年    K・N君
 ――薬害エイズ事件についてどう思いますか?
 答 ひどいですね。
 ――この事件が起きた原因は何だと思いますか?
 答 厚生省の判断が間違っていたからだと思います。
 ――事件を起こした人たちは、今後どうするべきだと思いますか?
 答 二度と起こさないようにするべきです。


恨みの思いが
残ると大変


文V      Y・S君
 ――薬害エイズ事件について、どう思いますか?
 答 人間の命の尊厳性とか、情緒の世界がないところからきた事件だと思います。
 ――事件を起こした人たちは、今後どうするべきだと思いますか?
 答 社会的な認知を得ることができるように、後に反省の内容を残してほしいですね。
 ――薬害エイズの被害者たちに対して、どう思いますか?
 答 難しいですね。まあ、会社の責任と国の責任の所在を明らかにするのも大切だけど、被害者自身が、心に恨みの思いとかが残ると大変だと思います。
 ――確かに、そうですね。
 答 ええ。許すことはできないまでも、ただ恨むという世界から転換されるように祈りたいです。


真相はっきり
話してほしい


理U一年   R・Iさん
 ――薬害エイズ事件は、どう思いますか?
 答 ひどい話だな、と思う。
 ――どういう点がですか?
 答 人の命に関わることなのに、人間ってそこまで悪いことできるのかな、と不思議に思う。物を盗むっていう程度なら、出来心とか、多少は理解はできるけど…。
 ――事件を起こした人たちは、今後どうするべきだと思いますか?
 答 素直に話して、認めてほしい。真相をはっきり話してほしい。


責任を持つ人
が出てほしい


理U二年    M・N君
 ――薬害エイズ事件は、どう思いますか?
 答 被害にあった人たちは、とんでもない目にあったと思いますね。
 ――東大の出身者も多く、関与していますね。
 答 確かに、医学部の関係者が出た事件ということで、自分とも無関係ではないな、と思わされます。
 ――事件は、なぜ起きたのだと思いますか?
 答 厚生省と医者と製薬会社のそれぞれが、責任を曖昧にしていたから起こった事件だと思います。
 ――事件の張本人たちは、今後どうするべきだと思いますか?
 答 たぶん、一人ひとりが責任を追及されても、責任の所在に関する自覚が薄いと思う。責任転嫁し合っていますね。何というか、事件は自分の責任だとはっきり言う人が出てきてほしいです。


早目に対策を
講じる姿勢を


理T二年    Y・K君
 ――薬害エイズについて、どう思いますか?
 答 大事件になってしまったな、という感じです。
 ――事件は何が問題で起きたと思いますか?
 答 本人たちは、利害関係に縛られて、あまり罪の意識をもたずにやったんだと思います。
 ――今後、事件を起こした人たちは、どうするべきだと思いますか?
 答 事件の真相解明を早くしてほしい。
 ――このような事件は、再発しないようにどうすべきだと思いますか?
 答 今回、O157の時、カイワレが原因じゃないかって勇気をもって発表しましたよね。あれみたいに、多少、誰かから反発を受けることを覚悟しても、早目に対策を講じるような姿勢ができれば、ああいう事件は未然に防げると思います。
 ――被害者の人たちに一言ありますか?
 答 難しいですね。可哀そうだと思いますが、僕には、声のかけようもありません。

花だより(361)

東京大学名誉教授 湯浅 明

スイバ

 スイバはタデ科の多年生草本で、山野にふつうの植物である。高さ80pくらいになり、茎にはたての稜線があり、紅紫色をおびる。茎葉ともに酸味があり、雌雄異株である。葉は長だ円形で、根葉は長い柄があり、茎葉は下部のものは短い柄があり、上部のものは葉の基部は茎を抱く。春から初夏にかけて、茎の先が分岐して花軸を出し、穂状に小花を密生する。花は淡緑色、あるいは緑紫色である。がく6個、花弁がない。雄花は雄しべ6片、雌花は3個の花柱がある。

 和名スイバは酸い葉の意味。転化してスカンポともいう。古名をスシというが、酸羊蹄(酸いギシギシ)という意味である。漢字名は酸模、蓚という。学名はRumex acetosa L.で、Rumexはラテン語の古名で、rumexは一種の槍で、スイバの葉形をそれに例えたものという。acetosaは「すっぱい」。スイバの染色体数は雄株は2n=14=13+X、雌株は2n=15=13+XX(Xは性染色体)である。

 スイバの異名はスイジ、アカジ、スイゴンボ、スイトウグサ、スイバス、スカナなどがある。塩漬けにしたり、熱湯に重曹を入れて、茎をかるくゆで、冷水に入れておいてから、すみそ和えなどにする。スイバの酸っぱいのは、約1%の蓚酸や蓚酸カリュームを含むからである。根にはクリソファン酸という色素類似のものを含み、漢方では根の汁を皮膚病に用いる。

 スイバ属(Rumex)の日本産のものには、ヒメスイバ、タカネスイバ、ギシギシ、ノダイオウ、マダイオウ、アレチギシギシ、カラダイオウ、マルバギシギシ(ジンヨウスイバ)などがある。

 ノダイオウは山野の湿地に生える多年生草本で、高さ1m以上になり、葉は根生し、長だ円形で、大きい。長い柄があり、茎とともに中脈が紅色をおびるものが多い。夏に茎の先に花穂を出し、穂状に小花をつけ、淡紅緑色である。小花はがく6片、花弁なく、雄しべ6、花柱3である。ノダイオウの染色体数は2n=60、80である。

 スイバに似た同属(Rumex)の植物にヒメスイバ、タカネスイバがある。ヒメスイバはヨーロッパ原産で、明治時代の初めに日本に渡来し、今では帰化している多年生の雌雄異種植物である。学名はRumex Acetosella L.で、Acetosellaは「スイバに似て小形」。タカネスイバは中部地方以北に生えるスイバに似た多年生雌雄異種植物で、高嶺酸葉と書く。学名はRumex montanus Desf.で、montanusは「山地生の」である。

        (東京大学名誉教授)

東アジア共同体の胎動(25)

漢帝国(前漢)(2)

三、文・景の治

 高祖劉邦亡き後、妻の呂后が実権を握って血の粛正がなされるのであるが、それは宮廷内のことであって、「天下は晏然としていた。刑罰は用いられること稀であり、罪人も滅多に出なかった。民は農事にこれ務め、衣食も十分に満ち足りていた」(司馬遷)という。

 ちなみに高祖の天下統一前後の様子は、次のように語られている。「内乱の時代には民衆は仕事もできなくて、ひどい飢饉が続き、米の値上がりもひどくて餓死する者が半数以上、人の肉を食うほどであった。天下が統一されてからも、民衆には少しの蓄えもない。いきおい天子とても立派な馬など揃えることはできず、大臣将軍達でも牛車に乗る始末であった」(『漢書』食貨志)。

 また、高祖が各地を転戦して北方の小都市曲逆を過ぎた時、「立派な町だ。天下を歴戦したが、大都市は洛陽とここだけだ」と感嘆した話も残っている。この漢帝国初期の悲惨さと七十年後の武帝時代の繁栄ぶりを比較してみると、思い半ばにすぎるものがある。武帝の時には都の銭は数百億、半ば野積みにされて腐敗し、庶民も馬を乗り回して、はらんだ雌馬などに乗る者は無慈悲者として排斥されたというのである。

 後の武帝の大事業はこうした経済的充実の上に展開されたものであるが、それを可能ならしめたのは、第五代文帝(高祖の第四子)と第六代景帝(文帝の子)による四十年間にわたる「文・景の治」である。

名君・文帝の仁政

 文帝は質素倹約に徹し、自らの反省に務め、よくよく仁政を施した人物であった。即位二年目に日食が重なった時も、「天は万民を生み、その万民が安らかに生活できるようにと人君をおいた。もし、人君が不徳であり、かつ不公正な政治を行うならば、天災を下して人君を戒告すると聞いている。

 ところが今、重ねて日食があったのはまさに天の戒告であろう。朕は謹んでその戒告を受け取り、身の不徳を改めようと思う」と言って、百官に政治上の過誤や民生に対して思慮の足りない点を指摘させ、また、賢良方正の士で強く諌言できる者を推挙させたという。

 そして、淳干公という人物が刑獄につながれた時も、その娘が上書して身代わりになることを申し出たのに対して、「帝舜の治世においては罪人に対してその衣冠に色や模様をつけ、常人と衣冠を異にすることによって、その罪を恥ずかしめるだけであったが、人民は法を犯さなかったという。それは帝の徳があまねくわたり、政治が至上のものであったからである。

 しかるに今は、法に三つの体刑が備っているにもかかわらず、姦悪を行う者が後を絶たない。これは朕の徳が薄く、明教を世に布くことができないからである。詩経にも、和楽して徳高き君主は民の父母である、と記してある。今や人民に過ちがあれば、これを教え導く以前に刑を加え、行いを改めて善に移ろうとしても、体に刑罰の跡を残してその方途を塞いでいる。朕は自らの不徳を恥じると共に、人民に対して哀れみの情を禁じ得ない。刑罰によって人の身を傷つけるようなことをしていて、どこに民の父母たる実があろうか。よって今より後は、体刑を廃止することにしよう」と言って、淳干公を許し、以後無残な体刑は廃止されるに至るのである。

封禅の儀式 と年号創始

 文帝は賈誼(政治思想では儒教を用いて積極的な方策を立て、漢帝国の中央集権的国家体制の樹立のために韓非子以来の法家思想を取り入れて、荀子の思想を受け継ぎつつ董仲舒の思想を開くものであった。政治社会を離れた個人の生き方については道家の思想をよしとして、荘子の斉物思想に通ずる哲理の世界を展開した)や袁オウといった直言の士の意見によく耳を傾け、常に反省して仁政に務めており、封禅の儀式(天下太平をもたらした有徳の天子のみが行えるとされた。九度にわたる会盟を主宰した春秋第一の覇者、斉の桓公が強く願いながらも、宰相管仲に強く諌められてやむなく断念しており、秦の始皇帝が暴風雨に邪魔されながらも必死に挙行したことが思い起されるところである)を挙げることを勧められながらも、それを断った話は有名である。また、東アジア世界で最初に年号を創始したのも文帝であり、以後、東アジア世界では天子と年号はワンセットのものとして定着していくのである。

 さて、文帝の後を嗣いだ景帝も、父にならって人民に恩恵を施し、法制の改良に務めているが、晁錯(法家思想の代表者)を用いたことで一波乱を呼んでいる。晁錯は才能豊かで弁舌もさわやかであったが、賈誼や袁オウのように公憤を第一義とせず、私怨を通す欠点もあった。諸候の弱小化を図ったことから、ついに呉楚七国の乱を引き起こすことになるが、結果的にはこれで漢帝国の中央集権化が成され、一大英傑武帝の活躍舞台を整えることになるのである。

四、衛氏朝鮮

 秦から漢への変動期に、大量の移民が古朝鮮へ流れ込んでいる。紀元前一九五年には、燕王の武将であった衛満が数千人の兵を率いて箕子朝鮮に亡命し、準王の臣下となっている。それまで青銅器文化であった古朝鮮に、この時初めて鉄器文化が導入され、燕・斉からの逃亡者を集めて勢力を拡大していき、紀元前一九四年には準王を廃して衛満が王位についている。

 衛氏は三代八十年間王位にあり、漢の武帝に攻撃されて紀元前一〇七年に滅亡するまで、漢帝国の領域を脅かしている。一方、準王は漢江以南の地域で王になったという。

晋と辰韓と東北王朝

 また、『三国志』魏志韓伝においては、辰韓・弁韓の地に秦の始皇帝の時に亡命してきた人達が居つき、百済はその亡命者達を迎え入れて東界に住まわせた、これが辰韓になったのである、と記されている。そして、言葉を五つ六つ挙げて、いわゆる秦の時の言葉であるとし、「ただ燕・斉の名物のみにあらざるなり」としている。

 つまり、燕(北京あたり)・斉(山東半島あたり)だけではない亡命者の言葉であるということになり、ここで浮び上がってくるのが西安と燕・斉の間(洛陽の北・南)にあった晋の存在である。誇り高い周王朝の血脈を引く晋の移民が秦の始皇帝に仕えることをよしとせず、朝鮮半島の辰韓・弁韓(百済の東)に住むことになったというわけである。そして、その後の歴史において漢代から魏晋代に至り、漢の武帝が設置した楽浪郡が鉄を狙って辰韓八国を配下に治めようとして韓と交戦し、中国側の帯方郡太守が戦死するも、結局韓軍を滅したという経緯がある。

 この時も一部の誇り高き晋の末裔は、亡命を企てた可能性が十分ありうる。実際、東北王朝において現地の阿蘇部族・津保化族を支配するに至った安日彦・長髄彦(彼らは弥生初期に行われた天照大神の孫ニニギノ命による北部九州への天孫降臨の結果、その豊かな縄文末期の農作技術を持って北上し、津軽にたどり着いた前九州王朝のリーダー達である。)らは、津軽で晋の群公子の子孫を娶ったという話が残っているのである(『東日流外三郡誌』)。

漢の高祖と九州王朝

 さらに、天孫降臨の地は博多と糸島半島の間にある高祖山連峰であるとされるが、「す=巣・栖(人間が住んでいる所)」という意味を考えると、「たかす(高地性集落)」は「高巣」「高栖」と書いてもよさそうなものだが、なぜ「高祖」と書くのかという素朴な疑問が出てくる。

 ところが、高祖山連峰の糸島側の裾野の寺の住職によれば、「私の家は漢の高祖の子孫だ」ということであり、それを大々的に自称している系図などを一冊の本にして出版しているのである。これも漢から魏へ禅譲と称して政権交代がなされた時に、かつての家来に仕えることをよしとせず、亡命した移民がいる可能性を否定することはできないのである。ちなみに、『新撰姓氏録』によれば、帯方郡の公孫氏の子孫も漢の最後の皇帝山陽公の子孫も、皆日本列島へ来ているそうである。

       (つづく)

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