本学OB・評論家 森本哲郎氏に聞く

「改革の担い手は若者だ」

 来年の四月十二日、本学は創立百二十年を迎える。記念すべき年を目の前に、本紙でも、来年にかけて、創立百二十周年にちなんだ特集を組み、さまざまな角度から、本学の過去・現在・未来について考えていくことにした。先回は、教育評論家の浜尾実氏に話を聞いたが、今回は、評論家として著名なの森本哲郎氏に、大学時代の思い出と、学生に向けたメッセージを聞いた。

戦死を覚悟し哲学科へ進む

 「東大百二十年の歴史の中で最低の時代ではなかっただろうか。まさに記念すべき東大生だね」。――東大に入学したのは、昭和十九年九月。戦前から戦後にかけて学生時代を過ごした。校舎は焼け残ったが、窓ガラスは破れテキストもノートも買えない、そんな状況だった。

 入学当時は勉強どころではなかった。太平洋戦争末期で、敗戦の色が濃くなる中、いつ「赤紙」が来るかわからない状態。農村や山村では人手が足りなくなり、勤労奉仕に狩り出された。零戦(ぜろせん)をつくったり、旋盤を削ったり、炭焼きをしたり、田植えなどにもかり出された。

 昭和二十年六月、ついに「赤紙」が来て、広島の船舶部隊に入った。東京で基礎訓練をして、いよいよ戦地に向けて出発をしようとしたその日、広島に原爆が落とされ、そのまま東京に駐屯することになる。そして、終戦を迎えた。

 文学部の哲学科を選んだのは、戦死を覚悟し、せめて自分の短い人生を考えてみようと思ったからだった。

 「僕は初め作家になろうと思っていた。しかし、父親が漢学者で、論語のカタマリのような人だった。中学一年のころ、谷崎潤一郎の『痴人の愛』を読んでいたら、父親にひどく叱られ、松の木に縛りつけられて、水までかけられた」という。こうして作家は「見果てぬ夢」に終った。

東大の哲学は「文献学」

 やたらに反抗的で、大学に入っても、教授とよく衝突したという。

 「卒論前の予備論文を提出したとき、主任教授から『なんだこれは。自分の考えばかり書いていて。勉強の成果が見られないではないか。こんなのものに点数はやれない』と言われましてね。哲学というものは自分で考えることではないですか。そこで、『カントも、人間は哲学を学ぶことはできない。ただ哲学をするだけだ、と言っている。だから、僕も哲学しているんですよ』。と言い返したら、『そんな未熟な頭で、哲学をしているというのはおこがましい。若い時は、ヨーロッパの哲学者の研究にじっくり取り組め』と言われました。東大の哲学は、“哲学学”・“文献学”だ、と絶望しました」。

 「初めは哲学の教授になりたいと思っていましたが、私のような人間は気にいられるはずがない。しかし、アカデミーに未練があったから、大学院に進学したのです」。学部を終え、今度は社会学の大学院に進学する。

 「イデオロギー論を勉強しました。イデオロギーとは、社会の風潮から形成されるもので、人間の観念形態を社会学的に研究してみようと思ったのです」。しかし、社会学の教授からも「『君は勝手なことばかり書いている。もっと社会学の文献を読め』と言って渡されたのがカール・マンハイムの『イデオロギーとユートピア』の原書でした」。

 「今から考えれば当然のことだった」のだが、やたらに気負い立っていた私は、自分の書いた論文を、『展望』という雑誌編集部へ持っていった。「当時、『展望』という雑誌は、高級雑誌でした。執筆者の常連は和辻哲郎とか、田辺元、文学では谷崎潤一郎」など、一流の人ばかりだった。けれど、「二月号だけは新人特集号」なので、それに掲載してもらおうとしたのである。その論文がなんと、巻頭に掲載されることになった。しかし、「これが教授の気にさわったらしい。すっかりにらまれてしまった。これでは、到底アカデミーでは生きていけないと思いました。そこで、ジャーナリズムの道を行こうと、幾つかの雑誌社をまわりました」。ところが、当時の雑誌社は、創刊したと思ったらすぐに潰れてしまうような所が多く、結局新聞社に入ることになる。

優等生多すぎる今の東大生

 大学時代の友人には著名な人も多い。例えば、東京女子大学長の山本信氏、読売新聞社長の渡辺恒雄氏、日本テレビ社長の氏家斉一郎氏などである。

 今でも一緒に食事をしたりする渡辺氏との思い出は、ある宿屋でのできごと。「相撲をとっていて、ふすまをびりびりに破いてしまった。最近の学生には考えられないほどすさまじい学生だった。それに比べ、今の学生は」と、しきりに嘆いている。

 三島由起夫氏との思い出話も興味深い。「軍事教練をやっていた時、青い顔している学生がいた。おい、大丈夫かい、と元気づけてやったのだが、三島由起夫だった」。安部公房とは「夜の会」で知り合った。

 「『赤門文学』を再興したいと思って、『赤門文学会』をつくったが、資金繰りがうまくいかなくて、結局だめでした」。大学時代、「私は好き勝手なことをやっていました。飯は食えなかったが、今から考えれば、じつに生きがいある学生生活でしたね」と振り返る。

 当時は、学生運動が激しい時代で、共産主義者でなければ、「ノンポリの学生」と呼ばれる時代だった。「私たちも暴走をしたが、方向性があった。合理的な暴走でした」。しかし、六〇年代の安保闘争の頃になると、分裂を起こし、殺し合いをするまでになってしまい、歯止めがきかなくなってしまったという。

 「七〇年、八〇年代になると、学生は一流企業に入ろう」ということで、「ビジョンが小さくなった」。「各大学がマニュアル化されてきた」。

 東大の学生が将来の日本を変えていくという、良い意味での自負が必要だという。

 「沈滞しているなあ。閉鎖的で、自分さえよければいい、という個人主義になってしまって」と、今の学生の雰囲気を憂慮する。「東大生はもともと優等生が多すぎる。もっとはみ出したらいい」。「そうでなければ、明日の日本をつくる人物は出てこない」。「保身というか、ただ敷き詰められたレールの上を滑っているという感覚が強い」。

勝負は大学に入ってから

 「やりたいことをやる」。この思いで今まで生きてきた。この言葉は、今の学生に対するメッセージでもある。「やりたいことをやらなければ、新しいものを創ることはできない。大学というのは、入ってからが勝負なのだ」。そして、「もっと自分に自信を持つこと。覇気を養うこと」を心がけるべきだと強調した。

 「私は、今が第二の敗戦だと思っています。日本はたいへんな改革期を迎えているからです。これまでのシステムを一新する担い手は若者であり、きみたちはその使命を充分に自覚してほしい」と、東大生に対する期待は大きい。

 我々は、森本先輩の期待に応えていきたいものだ、と思わされたインタビューだった。

【プロフィール】
 一九二五(大正十四)年東京生まれ。本学文学部哲学科、同大学院社会学科卒。在学中より風刺雑誌「VAN」編集長を勤め、卒業後、東京新聞社会部記者に。その後朝日新聞社に転じ、学芸部記者、社会部記者、編集委員を経て、七六(昭和五十一)年に辞職。八八(昭和六十三)年〜九二(平成四)年東京女子大学教授。現在評論家。著書は『文明の旅』『サハラ幻想行』『ことばへの旅』『日本語 表と裏』など多数。