創刊700号記念特集

IQ神話の崩壊 −日本の教育・社会の問題点

EQ(こころの知能指数)志向の時代へ

 今社会の中で、IQにかわりEQという概念が注目を集めている。EQとはEmotional Quotientの略で、「こころの知能指数」と呼ばれるものである。人生をより良く生き、成功を収めていくためには、知能テストによって測定されるIQ(知能指数)はほぼ関係なく、IQとは全く質の異なる「頭の良さ」であるEQの高さがものをいうのだという。昨年米国で大ベストセラーとなった『Emotional Intelligence』(ダニエル・ゴールマン著、邦訳題『EQ こころの知能指数』)によれば、EQの要素として以下のようなものが挙げられている。@自分の本当の気持ちを自覚して尊重して、心から納得できる決断を下す能力A衝動を自制し、不安や怒りのようなストレスのもとになる感情を制御する能力B目標の追求に挫折したときでも楽観を捨てず、自分自身を励ます能力C他人の気持ちを感じ取る共感能力D集団の中で調和を保ち、協力し合う社会的能力。IQ神話の崩壊といわれ、知識詰め込み型といわれる我が国の教育のあり方を見直す声が、最近とみに高まっている。そこで今回は、日本の教育や社会の問題点を、根本まで突き詰めて考えてみたい。

日本の教育は知識偏重型

 今までの社会は学歴社会といわれるように、会社における採用や、昇進などにあたっては、学歴が一つの大きな尺度となってきた。このため親や子どもたちの間で高学歴志向が強くなり、有名校に入るための受験戦争が激化、低年齢層化していった。このために我が国の教育は、知識偏重・知識詰め込み型となり、点数中心主義になっていったといわれる。

 確かにこのような入試合格至上主義は、子供たちの健全な成長を歪めやすいといえよう。子供たちの価値観や人間性の形成を遅らせ、学問に対する純粋な興味を失わせやすいからである。

 例えば、最も感受性が豊かで、何でも柔軟に吸収しうる可能性を持った高校生。彼には、何はともあれ受験をパスしなければならないという重圧が常にかかってくる。結局は、いかに試験でよい点を取るかということが、彼らの勉強や日々の生活のつまるところの目的とならざるを得なくなる。

 このような環境の中では自由に、そして喜びをもって学習する心や、豊かな創造性を育てることはほぼ非常に困難である。自分の心で素直に感じたこと、疑問に感じたことを大切にし、活かしていくこと、さらに深めていくことを放棄せざるを得ない。そして物事の本当の価値や、自分の人生のあり方などについて自由に話し合ったり、じっくりと考察することを、あえて避けざるを得なくなるだろう。それらはむしろ受験にとってはマイナスであり、とにかく今は受験テクニックを身に付け、入試にパスすることに心を砕かざるを得ないからである。

入試の選抜方法には限界が

 しかし、だからといって、直ちに受験体制や入試のあり方を批判し攻撃するのは、あまりにも安直かつ一面的で、むしろ問題の本質を見失わせかねない見方だと考える。

 例えば、大学進学志望者が定員以上にいれば、そこで必然的に選抜が行われなければならなくなる。それ自体は正当なことである。ここでいつもあがってくるのは、その選抜方法の問題である。さまざまに工夫して、テストの点だけでない多様な能力や人格性を計れるようにすべきだというのである。確かにそのような工夫の有効性は否定しない。奨励されるべきであろう。ただ、選抜方法をいくら工夫したとしても、所詮そこには限界があることも事実である。

入学後の教育と本人の問題

 例えばこの度、本学理Vの入試において面接が導入されることになった。試験の点だけでなく、医者としての適正をもはかるというのである。

 しかし、一体誰がどのような基準でこれを判断するのだろうか。そして一回の短時間の面接で、果たしてこれがわかるのだろうか。さらに高校卒業の時点で、医者となる動機や姿勢などは確立しておくべきものなのか。むしろそれは、大学入学後、医師の国家試験に合格するまでの間にじっくりと築き上げていくべきものではないのか。

 もちろんここで、理Vの面接導入を無意味としているわけではない。むしろ歓迎するものである。ただ、医師の人格の問題などは、決して入試のあり方の問題ではなく、その後の大学の教育力と本人の問題だということがいいたいのである。これは別に理Vだけに限った話ではあるまい。全てにわたっていえることである。

 例えば中学高校の教育現場や各家庭において、子供たちにどのような価値観を教え、人格教育をなすかという試みと努力を棚に挙げたままで、単に受験体制や試験のあり方を批判するのでは、それは不毛な議論に陥らざるを得ない。またいわゆる「IQエリート」が社会的に未熟だとか人格的に問題があるなどといって、それを大学入試のあり方に原因を帰結するのも誤りであろう。結局入試の問題以上に、大学入学前後の教育と、本人の問題が大きいからである。

まず自己責任を教えるべき

 さて、それでは大学の現状は果たしてどうだろうか。  残念ながら現在の大学は学問の府としての、そして豊かな人間的成長の場としての機能と活力を失っているのが実態ではなかろうか。自らの位置に安住し、学問的精神と教育心を失った教授たちにより、退屈なマス講義が行われていることもよくある。未来を切り開いていく活気もない。大学は教授の質の向上と学内活性化のために、大胆な改革を断行すべき時にきているといえよう。

 ただし、ここで最も忘れてはならないことがある。それは、結局は「自分」が問題なのだということだ。

 私たちが大学に入学した時、ほとんどの学生は、これからは何か価値のあることを見つけたい、そして打ち込んでいきたい、有意義に大学生活を過ごしていきたいと考えていたに違いない。

入試には限界がある
本人の問題も大きい

 しかし実際にはどうだろうか。結局はただ単位を取るため、試験をクリアするために、仕方なく授業に参加(特に出席の厳しい教官の授業には)する。試験前にはノートをコピーしまくり、その場しのぎの勉強をするのみになりがちではないだろうか。現実に流されて、本質的には不毛な受験時代と変わらない大学生活を送るケースが多いのではないだろうか。これではいくら環境や体制に不平不満を言っても変わりようがないだろう。

 「天は自らを助けるものを助く」という言葉があるが、まさにその通りだ。自らの成長に対しては、自分が責任を持つべきだろう。だから正しい教育というのは、いたずらに批判精神を植えつけるものではなく、まずは自己責任ということを教え、それを支え導くものだと考える。この厳しさが、今の社会や教育界に乏しいのではなかろうか。

 そしてそれは、結局現在の社会や教育界の中に、価値観というものが曖昧にされ、空洞化しているからだと感じる。

精神性ない日本の民主主義

 戦後、我が国においては、アメリカ占領軍を通してさまざまな方面における「民主主義」的改革が行われた。教育においてはそれまでの「修身」が超国家主義、そして軍国主義につながったとされて、修身教育が廃止された。

 元来民主主義はキリスト教的精神、つまり神の前における自由、平等という責任倫理と道徳観を根底にして生まれたものであり、その前提があってはじめて健全に成り立つものであった。ところがこのような精神性を抜きにした形だけの民主主義は、価値と道徳の基準が神でなく人間となり、そして精神性以上に合理性が追求されるため、個人主義、利己主義に流れ、道徳と価値観の退廃を招く結果となった。一九六〇年代以降の米国がよい例であるが、我が国においても同様である。

 特に我が国の場合、マスコミや教育界に反体制的、反道徳的左翼思想が巧妙に導入され、「人権」「個性」尊重などの美名のもとに、道徳や価値観は極端にまで相対化され、排除された。その結果、いつの間にか日本社会、そして日本人の心の中から道徳的価値観が失われていまい、それが当たり前であるかのような風潮ができあがってしまったといえる。

 お金も地位も権力も人生における一つの「手段」にすぎず、それ自体は本質的に価値あるものでも何でもない。それを何のために用いるのかという価値観によって素晴らしいものにもなるし、とんでもないものにもなるのである。ところが我が国においては手段的目的ばかりが肥大し、価値的目的に関してはほとんど議論されず、空洞化しているというのが現状だろう。

議論を避ける中教審の答申

 いくら人間性重視の教育だの、IQでなくEQが大切だのと騒いだところで、この社会自体が、結局は経済的利潤追求を第一義として動いている。自己の欲望を中心として生きている。性を商品化することが当たり前となっている。このような状況が正されずして、どうして教育などというものが成り立つのだろうか。言われる子供たちの方が冷めてくるに違いない。

 高い精神性と価値観に基づいた動機づけなく、いくら物質的成功を収めたとしても、その喜びははかなく、虚しいものである。今の日本人に最も必要とされているものは、単なるシステム上の変革や方法論ではなく、道徳と価値観についての思索と論議を深め、一人一人の生活と社会の中に浸透させていくことではないか。

 もちろんここでは、戦前のような天皇中心の国家主義の復活を訴えているのではない。しかしだからといって、価値的目的を追求しないことにはつながらないはずである。

 ところがこの度の中教審第一次答申にしても、「豊かな人間性」「自立心」の育成を訴えながら、その一番の基盤となるべき価値観の問題に関しては、「価値観の多様性」などといって、全く議論することを避けている。人と人とが共存し、幸福に生きるための価値観の探求なしに、真の教育は成り立たないということを、忘れてはならないのである。

教育に対する三つの提言

 そこで、社会に向けて、教育界に向けて、そして私たち自身に対しても以下の三つの内容を提言したい。

 まず第一は、自己の問題、成長に対しては、あくまでも自己責任なのだということを肝に命じることである。この姿勢を失った時、真の成長、改革への道は閉ざされるといって間違いない。

 そして第二は、人間いかに生きるべきか、何を価値として生きるべきかという価値観を、避けることなく探求し、追い求めることである。そして高い道徳性に基づく価値観を、個人のみならず家庭、社会においても浸透させていかなければならない。

 価値を扱えば、必ず価値の基準ということが問題となってくる。そしてこの際問題となってくるのが、価値決定の基準は、果たして人間なのかどうかということである。近代合理主義はこれを人間とし、全てのものを物質として還元して、科学によって支配しようとした。しかしこの人間中心の人本主義が人々の心を退廃させ、社会の荒廃をもたらしたことは明らかである。我々の近代的合理主義の克服が大きな課題となってくると考える。

 そして第三のは、一人一人がきれいごとを言う前に、まず自らのあり方を徹底的に自省すること。そして一人の人間として、その価値観と道徳にしたがって生きる努力をすべきことである。

 これら地道な努力なくして、教育界や社会の根本的改革など、あり得ないことであろう。自ら自身に対しても厳しい指針としていきたいものである。