創刊700号記念特集

本郷キャンパス

銅像の由来を探る

 ふだんはあまり気にせず過ごしている本郷キャンパス。勉学やスポーツの忙しさのあまりに、自分の大学のキャンパス内に何があるのか気づいていない人も多いのではないだろうか。ふと、キャンパスを歩いてみると、そこには碑や像、レリーフなどが幾つかある。今回は、その中で「像」を取りあげ、その人物の由来を調べてみた。この機会に、自分自身の大学のことを良く知ってみよう!

濱尾 新(はまお・あらた)

東京帝国大学の育ての親

 濱尾新は、東京帝大の第三代、第八代の総長を務めた人物。この二回を通算すると、東大総長の在任期間は約十一年四か月であり、歴代総長の中では山川健次郎総長(第六代、第九代)に続き長い。

 彼は嘉永二年(一八四九)四月、但馬国(現在の兵庫県)豊岡藩主、濱尾嘉平治の子として江戸藩邸に生まれ、藩命により英学、仏学を修めた。

 明治五年(一八七二)、二十四歳の時、文部省十二等出仕となり、南校監事となる。当時南校には、各藩から選抜された貢進生がおり、血気乱暴な者も多かった。濱尾は弱冠二十四歳ながら、その任によく耐え、多くの逸話を残したといわれる。

 明治六年(一八七三)、アメリカに留学し、翌七年に帰国。開成学校に出勤したが、明治十年(一八七七)、東京大学の誕生とともに、三学部総理補兼予備門主幹に任ぜられた。加藤弘之・東大総理を補佐しながら、大学発展の基盤をつくった。

 明治十三年(一八八〇)再び文部省に入った濱尾は、官立学務局長、専門学務局長を歴任し、同十八年(一八八五)ヨーロッパへ渡り、各国の教育・文化の制度を調査した。

 帰国後、再び専門学務局長として高等教育はもとより、実業教育行政においても活躍。明治二十三年(一八九〇)、東京農林学校を帝国大学に合併して、その農科大学とするにあたっては、専門学務局長としてこれを発案し、大学評議会の反対を抑えての実現を図った。

 明治二十六年(一八九三)三月、帝国大学の第三代総長となった彼は、同年八月、ヨーロッパの大学に倣って講座制を導入。各講座に一人の教授を担当させ、学問向上に務めた。同時に各分科大学ごとに「教授会」を設け、現在の教授会の原形を築いた。

 その後、病院の新築や資料編纂掛の設置(明治二十八年四月)、付属病院の制度改正(明治二十九年四月)などの改革を次々と行い、その行政的手腕を発揮した。

 この間、明治三十年(一八九七)六月には、京都帝国大学の創設に伴い、帝国大学は東京帝国大学と改称されている。

 総長を四年七か月務めた彼は、明治三十年十一月、第二次松方内閣の文部大臣に任じられたが、同三十八年(一九〇五)年、再び東京帝国大学第八代総長に就任した。

 この時総長は、「正門を入ったら万人、自ら襟を正すような雰囲気にしたい」と、小石川植物園長に命じて、銀杏を移植させた。植える時は、なるべく大きさのそろった木を並べようとした。が、大きさが不揃いなものしか得られなかったため、手前から奥に向かって大きな木から順に植え、奥行き感をもたせるようにしたという。この銀杏並木は、現在の東大のシンボルとしてすっかり有名になった。そのため、彼を「土木総長」と呼ぶ人もいる。

 また、濱尾総長は、赤坂見附にあった閑院宮邸という屋敷の門を気に入っており、明治四十五年(一九一二)、これをもとに東大の正門を作らせたといわれる。明治時代の東大の面影を伝える建造物はごくわずかしか残っていない中、この正門は貴重な存在だ。

 彼が長年にわたって総長を務め、名声を得たのは、その熟達した教育行政ん手腕もさることながら、それを感じさせない温良寛大な人柄と、天性の教育者的風格を持っていたからだ。また、辛抱強く粘り強い性格が実務家としての堅実性と実行力を生み出したからであろう。

 また、彼は自分が育ててきた帝国大学の国家社会における指導性に自負と確信を抱いていた。明治三十三年(一九〇〇)の伊藤内閣に加藤高明が、帝大出身として初めて外務大臣に就任した時、「今後二十年、内閣員はことごとく帝国大学の出身者で占めることになるだろう」と側近に話したという。

 大正十四年(一九二四)の逝去に際し、東京帝国大学では、大講堂において葬儀を行い、その功に報いた。

古市 公威(ふるいち・こうい)

日本で最初の工学博士

 古市公威は、明治十九年(一八八六)、東京大学と工部大学校が併合されて工科大学ができた時、初代の工科大学長となった人物。また、明治二十一年(一八八八)五月には、日本で最初の工学博士の学位を授けられているが、学者としてのみならず、技術家として、また行政家として非凡の敏腕を振るい、歴史に名を残している。

 彼は姫路藩士、古市孝の長男として安政元年(一八五四)に江戸の藩屋敷で生まれた。文久三年(一八六三)、十歳の時、一家をあげて姫路に移り、藩校好古堂に出て勉学した。好古堂には当時、勝海舟の門下生である春山乙彦がおり、時代を先取りした新方針の教育を行っていた。古市はその師から多くのものを得たという。

 慶応元年(一八六五)、一家は江戸の上屋敷に帰り、十二歳の彼は勤学生を命ぜられた。勤学生は、暇があれば終日上屋敷内の学問所において勉学する立場で、幼年子弟の名誉とするところだった。その後、明治二年(一八六九年)、彼は開成所の開校と同時に入学して、さらに勉強を進めた。

 明治三年(一八七〇)、姫路藩の貢進生となった古市は、大学南校に入学してフランス語を修めたが、七十四人のうち常に最優秀の成績で首席を占めていたという。

 日本政府は、西洋の学問を修めさせるために、文部留学生を派遣することにしたが、古市はその第一回生として選抜された。

 留学生としてフランスに渡った彼は、明治九年(一八七六)、パリのエコール・サントラルに第三番の成績で入学した。エコール・サントラルは三か年の工業大学であるが、入学試験は狭き門であり、十番以内の成績で入学した者はヨーロッパ人でさえも秀才中の秀才と称されるほどだった。

 エコール・サントラルを卒業して工学士の学位を受けた彼は、さらにソルボンヌ大学で学問を修め、理学士の学位も受けた。明治十三年(一八八〇)に帰国した彼は、内務省土木局に勤め、異例の高級初任月俸百二十円を受けた。翌年には、帝大の理学部講師に就任した。

 明治十九年(一八八六)、帝国大学と工部大学校が併合された時、初代の工科学科長として任じられたのが古市だった。彼は、教授を兼任して土木工学科で教鞭をとるからわら、土木工学科課程の整備、講座の創設、新設工科大学の諸問題の解決など、工学の基礎を築くという功績を残した。また、明治二十一年(一八八八)、古市は日本で最初の工学博士の学位を授けられた。

 明治二十三年(一八九〇)からは、内務省土木局長を勤めたが、全国の河川治水、港湾の修築のみならず、土木行政の改善を図り、土木法規を制定するなど、技術上に行政上に非凡の才能を振るい、近代土木界の最高権威として尊重された。

 彼の代表的な功績として、横浜港の建設がある。明治三十八年(一九〇五)、横浜港に日本最初の大般の繋船壁が完成したが、その設計を担当したのは古市だった。

 古市は公平無私であり、よく学生を導いたといわれる。また、日本工学会の初代会長として、世界の中で、日本の工学技術の声価を高めることに寄与した。

ジョサイア・コンドル(Conder,Josiah)

日本の建築へ多大な貢献

 コンドルは、一八七七年に工部大学校教師として来日。一九二〇年に死去するまで、生涯を日本で過ごし、日本建築へ多大な貢献をした。彼の弟子からは、日本を代表する多くの優秀な建築家が誕生している。

 コンドルは、一八五二年、イギリスのロンドンに生まれ、サウスケンシントンの美術学校およびロンドン大学において建築学を学び、ゴシック様式建築の大家、W・バージェスに師事した。

 明治十年(一八七七)一月に来日し、工部大学校教師に就任。工部大学校が帝国大学に移行してからも同二十一年(一八八八)まで勤務した。その後辞職して、我が国最初の設計事務所を開設した。以後二十年の長きにわたって多くの洋風建築を設計した。

 主要作品として、東京帝室博物館(明治十五年)、鹿鳴館(明治十六年)、旧ニコライ堂(明治二十四年)などがある。

 コンドルの教え子の中からは、辰野金吾(一八五四−一九一九、東京駅や日本銀行本店などを設計)など、近世日本を代表する一流の建築家が数多く輩出した。

 来日四年目に、日本女性、前波クメ子と結婚をした彼は、生涯を日本で過ごしている。大正九年(一九二〇)四月、建築学会で表彰を受け、彼の建築への貢献を讃えられたが、その二か月後、脳溢血で死去した。

 大正十二年(一九二三)四月、彼の功績を讃え、工学部建築学科の前庭に銅像が建てられた。

ユリウス・スクリバScriba,Jurius,Karl)

東京帝大医学部の双璧

 スクリバは、二十年にわたって東京帝国大学で、外科および皮膚科、黴毒(ばいどく)の講座を担当し、ベルツ博士とならんで帝大医学部の双璧とされた。

ベルツ(左)とスクリバ(右)

 彼は、一八四八年、ヘッセン大公国のワインハイムで生まれた。父も祖父も薬剤師であり、先祖は代々牧師が多かったと伝えられている。一八六八年九月、ダルシュタットの高等学校を卒業して、翌年四月ハイデルベルク大学に進学した。専攻は医学と植物学。

 学生時に、普仏戦争に従事、陸軍一等軍医補として活躍し、ヘッセン大公国の勲章を与えられた。終戦後、ハイデルベルク大学に復学し、一八七四年には医学博士号を取得している。

 さらにベルリン大学において外科を研究したが、明治十四年(一八八一)に招かれて、東京帝国大学外科教師として来日。以後、明治三十四年(一九〇一)九月まで実に二十年にわたって在任した。

 明治二十四年(一八九一)の濃尾大地震の際には現地に赴き、負傷者の治療にあたった。東大を引退した後、名誉教師の称号を送られる。明治三十八年(一九〇五)一月三日死去。享年五十六歳。日本政府から勲一等に叙せられ、瑞宝章を贈られた。

エルウィン・フォン・ベルツ(Baelz Erwin von)

日本の近代医学建設に寄与

 ベルツは明治九年(一八七六)、東京医学校(後の東京帝国大学医学部)の内科医学正教授として招かれた。以降明治三十五年(一九〇二)まで、東京帝国大学の教授の職にあって、建設期の日本の近代医学の基礎づくりに貢献した。また、ツツガムシ病、脚気等についても研究を進め、温泉の効用の研究なども行った。

 彼は、一八四九年、南ドイツのシュワーベンで生まれた。十二歳で故郷を出て、当時ウェルテンベルク王国の首都であったシュットガルトに赴き、エバーハルト・ルートウィック高等学校に入学。十七歳で同校を優秀な成績で卒業した。

 一八六六年、チュービンゲン大学に進み、基礎医学を修めたが、ライプチヒ大学に転じて七二年、優秀な成績で同大学を卒業した。その後、ライプチヒ大学で内科学の講師をしていたが、七六年、ベルリンにおいて、日本政府の招きに応じ、官立東京医学校講師の雇用契約を結んだ。

 同年四月、ドイツを出発し、六月に横浜に到着。六月十日から医学校において、生理学と薬物学の講義を開始した。当時二十七歳の新進の医学者であった。

 明治二十年(一八八七)、三十八才の時、日本人女性、戸田花と結婚した。翌々年には長男の徳之助も誕生している。明治二十三年(一八九〇)、彼は明治天皇および皇太子嘉仁親王の侍医に就任した。

 明治三十五年(一九〇二)、東京帝国大学を退官したが、さらに三年間滞在して宮内省御用掛を務めた。同三十八年(一九〇五)、一度帰国したが、同四十一年(一九〇八)、再度来日して、大正二年(一九一三)没、六十四歳だった。

 彼は臨床医として、皇族、華族、政府要人、在日外国人の診療にあたり、名医として深い信頼を集めた。また、日本の風土病の研究、温泉地の開発にもあずかり、草津温泉には彼の功績を讃える記念碑が建てられている。江の島の海水浴場が開かれたのも、彼によるところが大きい。

 彼は、学生の頃から幅広い学問的関心をもち、日本の社会、風俗、生活の全般にわたり観察を行っている。その詳細は「ベルツ日記」で明らかである。明治三十三年(一九〇〇)十一月、ベルツの在日二十五周年を記念する祝典が開かれた際、彼は挨拶の中でこう述べた。

 「日本では、今の科学の『成果』のみを彼らから受けとろうとしたのであります。この最新の成果を彼らから引継ぐだけで満足し、この成果をもたらした精神を学ぼうとはしないのです」(「ベルツの日記」第一部下)

 これは東京大学への、ひいては日本の近代への苦言であり、忠告であった。

 明治四十年(一九〇七)四月、東京大学構内にベルツとスクリバ両博士の胸像が建設された。