東大というと、「イチョウ」というイメージがある。実際、校章はイチョウであるし、安田講堂の前のイチョウ並木も有名である。夏目漱石の有名な『三四郎』の中にもイチョウは出てくる。本郷を歩く場面があり、『取突(とつつき)の大通りの左右に植ゑてある銀杏の並木』を眺めているのである。また、昨年、イチョウ精子一〇〇周年記念が行われ、イチョウに注目を浴びているところもある。ここでは、「イチョウ」、そして「イチョウと東京大学の関係」などについて考えていきたい。
本学の校章のバッジは銀杏の葉を二枚組み合わせたデザインであり、また安田講堂前の銀杏並木も有名である。
このように本学のシンボルが銀杏となっている背景には、校章と銀杏並木とが、大きな要素を占めていると言ってよいだろう。それぞれが成立した経緯を振り返ってみよう。
まず校章の制定はというと、これは比較的近年で、昭和二十三年(一九四八年)のことであった。このデザインは、東大の各部局でマークを決定する時、今でもしばしば行なわれているように、図案は学内で公募されたもの。四回にわたる選考と、二回の学内世論調査の結果、第二工学部の星野昌一教授考案の、現図案が採用になった。これはいまやあらゆるところに引用され、Tシャツ、ネタクイピン、便筆、湯飲みなどの、いわゆる東大グッズには必ずプリントされている。
さて、それでは安田講堂前の銀杏並木は、というと、明治四十五年(一九一二年)、本郷キャンパスに正門が建てられた時、その正面に植えられたのが始まりである。
本郷に銅像が建てられている濱尾新(あらた)は、明治三十年十一月、第二次松方内閣の文部大臣に任ぜられたが、三十八年十二月から再び東京抵抗大学総長に就任した。濱尾は「正門を入ったら万人自ら襟を正すような厳粛な雰囲気にしたい」と、小石川植物園長に命じて周囲約三十aの銀杏を移植させた。関東大震災後、復興工事のために少し両側に移植されたが、現在では周囲一b以上の大木に成長している。
この時はまだ、もちろん講堂はなかったのであるが、ここに銀杏並木を配置したのは、正門の正面、並木の尽きるところに、大学を代表するような建築を置く、そういう構想があったためだという。つまりは、初めからこの銀杏並木には、大学のシンボルとしての意味が与えられていたのである。この構想は、大正十四年(一九二五年)竣工の安田講堂によって実現する。
今、時計台の前の銀杏並木は、夜間照明が利かなくなるという理由で、時々枝おろしをやる結果、枝ぶりが伸びやかでないのは残念なことである。
このような経緯から、東京大学のキャンパスには今、多数の銀杏の木を見ることができる。なかには、実の極端に小型なもの、黄葉の早いもの遅いもの、葉に斑の入るものなど、いくつかのバリエーションも認められる。この東大の銀杏の子孫は、遠くネパールにも育っているという。
イチョウ科の落葉大高木で、大きものは高さ四十五b、直径五bに達する。
街路樹や庭木としてありふれた木だが、日本には自生しない。中国の浙江省に自生するものがあるというが、これは栽培されたものの名残ではないかと疑う人もいる。日本への渡来は、室町時代以前らしいが、正確にはわからない。
寺院や神社には古木が多く、特に巨大なものや奇形のものは、崇められたり天然記念物に指定されたりもしている。乳と呼ばれる突起を多く垂れ下げた木が、母乳の分泌をよくする霊力があるとして、信仰されることもある。
種子の胚乳を食べるほか、木材を家具、まな板、将棋盤などにし、葉を薬にするなど、用途も多く身近な木だが、学問上は疑問の多い植物である。化石にはイチョウただ一種が栽培されながら生き残っているだけで、裸子植物の中での系統上の位置には謎が残る。火災にもよく耐え、切った枝を挿すと容易に発根するほどの生命力の強い植物にしては不思議である。
神社や寺院などに多くみられるイチョウは、民家に植えるのを忌み嫌うが、これは全国的である。イチョウについては多くの伝説が語られており、杖銀杏というのは弘法大師などの高僧が携えた杖を地面にさしたのが成長して枝葉を生じたといわれ、東京・麻布に善福寺にあるものなどはその一例である。
また、逆さ銀杏というのは枝葉が下を向いて生えるのでいったが、イチョウの古木に生じる気根を削って煎じたものを飲むと乳の出がよくなるという乳銀杏の古木が、神奈川県川崎市の影向(ようごう)寺など全国各地にある。
このほか子授け銀杏といって、東京・雑司ヶ谷の鬼子母神(きしもじん)の境内にあるイチョウは、その木を女が抱き、葉または樹皮を肌につけていると子供が授かるという。
泣き銀杏というものもあるが、そのいわれはさまざまで、有名な千葉県市川市の真間山弘法寺(ままさんぐほうじ)のものは、日頂上人(にっちょうしょうにん、一二五二〜一三一七)が父の勘当を受けたためにこの木の周りを泣きながら読経したからという。
明治維新(一八六八年)後、欧米の近代科学を学んだ日本の学問の成果として、明治二十九年(一八九六)、平瀬作五郎は世界で初めてイチョウに精子がつくられることを発見した。この発見が、植物学上の世界的な大発見と評価されるゆえんは、以下の理由による。
植物にも、動物と同じように雌雄の区別のあることが知られたのが一六九四年のことで、植物の精子は一八二二年にミズゴケ(セン類)で初めて発見された。
以後、多くの植物において精子が発見され隠花植物における精子の存在は一般的となった。しかし、顕花植物には発見されなかった。これは生物界にみられる「飛躍はない」の定理に反することであった。
十九世紀の植物学者は研究をかさね、一八五一年ホフマイスターの「裸子植物のマツ科(当時の分類ではイチョウはマツ科に属していたが、彼がイチョウ、続いて池野成一郎が発見したソテツを、精子をつくる裸子植物と予想したかどうかは不明)の植物の中に精子をつくるものがあるかもしれない……」に至った。
三十二歳のとき、岐阜中学の図面・博物館学の教師だった平瀬は、帝国大学の画工(後に助手)として採用された。四年後、イチョウの研究を開始し、三年後に「精子発見」の日本語論文を発表した。それは図をともわない、わずか三ページ半のものだった。
翌一八九七年にドイツ語で紹介されたこの大発見は世界の植物学者を驚かせた。同年九月、平瀬は帝国大学を退職し、彦根中学校の教諭心得になっている。大学在職八年五か月余の、疾風のような人と人生であったといえる。
明治四十五年(一九一二)、イチョウ精子の発見の功績で平瀬作五郎は、ソテツの精子を発見した池野成一郎とともに、帝国学士院恩賜賞を受賞した。
イチョウの花粉は、五月上旬に雄の樹から飛散し、数_くらいの大きさに育った雄花(胚株:若いギンナンのこと)に到達する。花粉はギンナンの崎に分泌された珠孔液に捕らえられ、胚珠の中に取り込まれる。そこで八月中旬まで、約三か月半過ごす。この間に胚珠組織の中に根のような足を伸ばし、水分や栄養の供給を受ける。
八月下旬から卵細胞を入れた造卵器の方に花粉管を伸長し、内部に精子をつくる。花粉を受ける頃のギンナンは空に向かって立っているが、精子がつくられ受精が行なわれる頃には、地面に向いて垂れ下がっている。したがって、精子を迎える造卵器は精子の上側にあり、花粉管は地面の方から空に向かって伸びている。
さらにイチョウとソテツでは、他の裸子植物や被子植物とは違って花粉管は卵(造卵器)までは伸びないので、精子は放出された後造卵器まで繊毛を使って泳がなければならない。すなわち、花粉管から出た精子は、天井に向かって“鯉の滝昇り”をすることになる。
水路はどのようにつくられ、水はどのように準備されるのだろうか。精子が卵に到達するには、さらにもう一つの関門がある。造卵器の入口であるゲートが開いていないと、中には入れない。即ち受精が行なわれないのである。これらの条件が全部そろって、イチョウの受精は可能になるのである。
大正十二年(一九二三)九月一日、関東大震災が発生した。東京帝国大学においても、建造物や実験施設が多数損壊、さらに図書館の全焼によって貴重な資料を含む書籍七十五万冊が焼失するという大損害を受けた。
そのため、震災後のキャンパス復興策として、東京代々木の陸軍練兵場に新キャンパスを建設しようという動きが出たこともあった。しかし、土地供与の交渉がうまくいかなかったことや、震災による財政難のため、計画はあえなく挫折。本郷キャンパスの整備を行う方向で計画が進められることとなった。
この本郷キャンパスの再建案作成に重要な役割を果たしたのは、工学部教授の内田祥三だった。内田は、明治四十年に本学建築学科を卒業。戦争末期の昭和十八年三月から二十年十二月まで、東京帝国大学総長を務めた人物である。
内田の構想は、大講堂を中心に据え、図書館、博物館をその両脇に配置するというものだった。博物館は学内賛意を得られず断念したが、大講堂と図書館は復興計画の中心となった。ゴシックのモチーフに統一された美しい現本郷キャンパスは、この時の彼の構想から誕生した。
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大講堂は後に「安田講堂」とも呼ばれることになるが、これは大講堂の建設資金を寄付した安田善次郎の名を冠した名称である。
安田は、天保九年(一八三八)富山に生まれた。安政元年(一八五四)江戸に出て、安田商店を開いて両替業を営んだ。その後、安田商店を安田銀行となし、わが国の生命保険の嚆矢(こうし)となった共済安田生命保険会社をつくった。その他、日本銀行、満州鉄道をはじめ、諸銀行の創立に関係した。
安田は晩年に至って、次第に社会事業に貢献する志を強め、育英事業にも寄付を申し出ている。日比谷公会堂も安田の出資寄贈したものだ。
安田は、東京帝国大学文学部教授であった村上専精から本学に便殿の設備のないことを聞き、驚懼(きょうく)に堪えないとして大正十年五月六日、自ら大学に古在由直総長を訪れ、金百万円を持って便殿および大講堂を建造して、これを寄付することを願い出た。
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これを受けて大学側では、大講堂を正門突き当たりに建設することを決定、内田祥三教授によって基本設計が開始された。
大正十一年二月には大講堂建設実行部を設置、塚本靖工学部長がその実行部長の任に就く。同年十二月、大講堂の基礎工事に着手し、木材などを搬入したが、翌十二年九月一日に震災にあう。材料の多くが焼失したが、大正十三年四月一日に工事を再開。大正十四年七月六日に竣工式を挙行した。
この大講堂は、震災後のキャンパス復興を進める内田にとって、最初の記念すべき作品となった。大講堂は以後、大学行政の中心として、また、諸式典行事を行う場として大きな役割を果たすことになる。
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講堂の概要は次の通り。構造は鉄筋コンクリート造、四階建。一階地階、塔屋付き。講堂は直径一五〇尺の半円形をなし、ギャラリーを含めて千七百三十八人を収容することができる。ステージには玉座を設け、小杉未醒の揮毫する大壁画をもって飾る。外観は「質実剛健ヲ旨トシ範ヲ『ゴート』式ニ取リタル自由ナル形式」をもって完成した。建築費用の総額は、百十万円(当時)だった。
なお安田善次郎は、大講堂の建設に着手する前の大正十年、大磯別邸において朝日平吾によって刺殺されている。
(参考・東京大学百年史、図説教育人物事典)
東大新報 1997.1.15号