三月二十七日に行われた卒業式の中で、吉川総長は卒業生に対する告辞を述べた。この告辞の中で総長は、「現代の邪悪なるもの」、それは「人類が自ら安全で快適な状況をつくり出そうとして行った努力の結果と深い関係がある」とし、それを克服する作業を総長の任期の四年間にしてきた、と話した。この告辞の内容を以下に紹介する。
幅広く多くの教科を学び、また選んだ専門について深く学び、そして大学生活を通じていろいろな経験をした皆さんが、ここに卒業式を迎えることは記念すべきことであり、心からおめでとうと申し上げます。
今日、この卒業式に出席している人のうちの多くは、四年前に入学した人達でしょう。その年の入学式は、私にとっても総長になった直後の初めてのものであり、強く印象に残っています。その入学式で、私が皆さんに語りかけたのは、現代の邪悪なるもの、という話題でした。それは、長い歴史の時間を通じて人類が知恵を絞って戦って来た敵、すなわち人間にとっての邪悪なるものは、過去においては外からやって来て人類に攻撃をかける外敵であったのに対し、現代の邪悪なるものは単純な外敵ではないという話でした。
外から攻撃をかけて来た敵、それは強力で圧倒的で、手強いものでありましたが、人類は、人類を特徴付ける考える力、すなわち知恵によってそれらに打勝ち、人類にとって安全で快適な状況を作って来たのでした。その外敵とは、旱魃、洪水、暴風雨、地震などの自然災害であり、ペストなどの病原菌であり、また他人を支配したり抹殺しようとする悪しき心や行為ですが、長い間かかって人類はそれらに対抗する手段を考え出し、しかもその考案の中から体系的知識としての学問をも生み出し、その能力を世代を通じて継承することを可能にしたのでした。
一方現代の邪悪なるものは、地球環境破壊、いつまでも解消できない飢餓地帯、災害に弱い脆弱な都市、発生する新しい病気、大型化する事故などなのです。これらの特徴は、外から人類を襲う外敵と言うよりは、人類が自ら安全で快適な状況を作り出そうとして行なった数数の努力の結果、あるいは結果とは言えないまでもそれと深い関係がある、という点にあります。従って、これらの問題を解決するためには、過去から継承した知識の適用では不十分であり、知識の再編と新しい形式の知識の創出が必要なのではないか、というのが論点だったのです。そして、このような新しい課題に立ち向かおうとするとき、最も大切なのは、問題を感知する感受性であり、それをこれから学ぼうとしている新入生の諸君と、かなりの研究の経歴を持つ私とが共有しているという話をしたのでした。
あれから四年が経過しました。その四年は皆さんにとっては大学生活のすべてであり、私にとっては総長としての全任期であったわけですが、その間に何が起き、そして私たちが何をしたのかを考えてみたいのです。
この四年間を振り返えれば、決して平穏ではありませんでした。神戸の災害があり、オウム事件があり、そしてバブル経済の破綻を通じて暴かれる数数の非道や金融犯罪、また長期にわたる経済の繁栄による気のゆるみとでも言うべき職務上の不祥事など、深刻で、しかも気の滅入る出来事が続きました。このような出来事が連続した我が国は、世界の国国と較べて、とくに問題が多かったように思われます。しかも、事件が多かったばかりでなく、経済の低迷や、国際的地位の低下にも見舞われています。事実、アメリカ合衆国の好景気、英国の低失業率、ニュージーランドの規制緩和の効果などに見られる政策上の成功という面は、我が国では全く見られないばかりでなく、政策が定まらないという困難にすら直面しているのです。
感受性問われる時代
成長が失敗の根拠になる
ここに、問題を解くために必要な視点についての示唆があります。それは、我が国の政策上の混迷や、予想もできなかった出来事が、第二次大戦後の、とくに一九六〇年以降の、三十年間にわたる経済高度成長が終りを告げた、その後につぎつぎと起こっているという事実です。このことの理由を簡単に言えばこうなるでしょう。それは、高度成長を押し進めた社会的な仕組みが、その達成とともに有効に作動しなくなった、と言うことです。
一つの例を挙げましょう。企業の中の組織があって、その組職が例えば一つの製品を、定められた品質で一定の個数を生産する目的を持っているとき、組織の中の人人には高度の協力が求められることになります。この時、組織の中の一人一人は、他の人人に対し出来る限り気を配りつつ、同時に自分勝手になることを自制して、組織としての目的に対する効率を最大にすることを目標として協力することになりましょう。
しかしある時、組織の目的が変化し、それが斬新な着想の製品を考案する。そうなったとき、かつて有利だった点が突然欠点に変化してしまいます。有効に作用していたお互いの気配りは、自由に考えることを妨害する拘束の枷となり、自制は着想を貧弱なものにしてしまうでしょう。
そのとき、着想をより豊かに、より自由なものにするために、更に進んで気配りをしても、うまく行かないことは自明です。むしろ他の人人に対し関心を持つことを止めること、それは古い尺度からすれば後退ですが、それだけが妨害する枷を取除くために可能な、唯一つの方法だと思われます。
我が国で問題とされ、改革しなければならないとされている事の多くは、いずれもこのような構造を持っています。すなわち、成功をもたらした考え方や社会の制度が、新しい目標に対して有効でない、あるいはそれ以上に、妨害する因子となって新しい展開を阻止しているという構造です。簡単に言えば、成功は次の成功を必ずしも保証せず、失敗の根拠にすらなり得ると言うことです。
このように、我が国において多くの場面で、改革が必要だと言われ、しかも改革の過程でいずれも共通の本質的問題に遭遇するという状況は、大変重要な意味を持っています。それはより大きな規模で私たちに迫っている、現代の邪悪なるものが、同質の構造を持っているからです。従って、我が国が直面する当面の問題の対処において、避け難く起こる実感は、現代という時代を特徴付ける、極めて本質的なものであると言えるのです。
そこで、この四年間に、私たちの身の廻りで起こったことを考え、また対処しようとしたときに起きてくるこの実感を、より大きな課題についての考案に重ねることによって、その課題の現実的な解決法を発見するという計画が立てられることになります。
その課題が現代の邪悪なるものですが、こう呼ばれる問題群は、本来は私たちのすぐ傍、あるいは私たちの中にあるのに、しばしばそれらは遠くの出来事、あるいは抽象的な話題であると考えられてしまうことが最初にぶつかる問題です。飢餓地帯の存在は、聞違いなく現実のものであるのに、それを私たちはその地帯のある国家とか政治という、私たちにとっては抽象的な概念の中で、理解しようとします。地球環境破壊の場合、二酸化炭素の均衡問題や、エネルギー源と資源の枯渇、また廃棄空間の不足などについて、私たちは日常の現実的出来事としての、公共料金値上げや就職難などにくらべて遥かに低い現実感しか持たないのが一般です。
何故これらの問題が抽象的にしか感じられないのか、それを解く鍵が、目前の問題の対処を通じて感じる実感を重ねる計画の中にあります。たとえば私たちが大学改革を進めるとき、制度や組職を変えるという現実的な手段ではどうしても変えることができない、より根本的な人人の考え方といったものに遭遇します。実はそれが現実のすべてを決定しているにも拘らず、それは現実的方法によっては変えることができず観念的で理念的な論議を通じてしかできない、というのが私たちの実感的経験であるのです。
ここには、問題が根元的であればあるほど、それが抽象的な姿をもって現れるという一般則があります。従って抽象的にしか感じられない問題というのは、決して深刻さにおいて重要度が低いのではない、ということに気付く必要があります。
そこで、現代の邪悪なるものが、私たちの日常生活において現実との関係が実感されず、抽象的に感じられるとしても、それは深刻ではないことを意味しないのであり、従って放置してよいものでなく、その解決のためにすぐ行動を開始するべきであるということになります。そしてこの開始するべき行動を計画するとき、現代の邪悪なるものがその内に持つ問題の構造を考えることが改めて必要となるのです。
人類が安全と豊かさを求めていろいろと工夫したことが、現代を特徴付ける困難な問題を引き起こしており、しかもそれは個個の出来事について別別に起こっているのでなく、人類の大方針とでも言うべきことと関係がある点が重要です。この大方針は、人類がこの地球上で見かけ上の勝利者となる過程で、いわば自然に出来上がったものであり、一人の大哲学者が言った、というようなものではないのです。従って、私たちはそれを改変することのむずかしさを、まず覚悟することが必要です。
自然に出来上がった強固な大方針とは、人類が生き延びるために自らの行動範囲を拡張するというものです。体力において弱体である人類は、知力を使うことによって行動力を増進し、他の生物種を支配しながら行動範囲を拡大して勝利者となります。その過程で行使した知恵は、世代を通じて語り継がれることによって失われることなく蓄積し、従ってその知恵は拡大する一方です。その拡大する知恵は、その中心に体系を作り、それが学問体系であると言えましょう。
私たちの蓄積した財産としての知識、そして学問体系の発展とは、このように人類が行動範囲を拡大して来た軌跡であり、またそれに根拠を与えるものである。もしそうであるなら、その行為の結果として生じた諸問題についての責任を学問体系が問われてもやむを得ないということになりましょう。
社会的装置の設計を
循環無視が生んだ「邪悪」
しかし、学問体系の成立も含めて、これらのことは責任者不在の人類の大方針に従って起こって来たことであり、特定の責任者を追求することで解決できる問題ではありません。追及すべきは責任者でなく、自然に成立した大方針そのものです。
その観点で、この人類の大方針、すなわち人類が種として行って来たことを巨視的に見るとき、一つの特徴が見えて来ます。人類の大方針が行動範囲の拡大であるとして、それが拡大に純化しているという点が特徴であり、その点が問題なのです。行動範囲を拡大することは、実は人類が行動において働きかける対象そのものに変化を与えているということなのです。このことは自明のことです。しかし人類は、その視点を欠落させていた、と言わざるを得ません。
対象は無限であり、それを人類に都合のよいものに改変すればするほど、行動範囲は拡張し、豊かさが得られるという考え方がほとんど一段的な真理とされ、それは開拓とか最前線と言う言葉が心地よい響きを持っていることからも容易に理解されます。実は、開拓された結果がどうなのかが、開拓そのものと同様の重大さを持っているのに、それへの配慮が欠けていたのです。
学問体系は人類の行動の軌跡であると言ったのでしたが、そのことを裏付けるように、同様の問題が学問体系の中にも見てとれます。とくに自然科学において、人類の眼前にある自然を存在するものととらえ、それを徹底的に分解して調べることが知識の増加とされるのです。ところが、すでに何千年も前に、デモクリトスは二つのことを指摘しています。一つは存在するものはすべて原子から出来ていることであり、これは現代科学に正当に受け継がれた考えです。しかし、もう一つの考え、すなわち、原子は不滅で、形あるものはその並べかえでできるという考え方は、現代の言葉で言えば物質循環ということですが、そのことを近代科学は取り上げるのを忘れていたという他はありません。既に述べたように、学問が人類の行動の軌跡であるとすれば、開拓を中心に据えた近代精神と運命を共にする学問が、循環、すなわち開拓の後始末にかかわる知識に関心を持たず、従って体系化もできなかったことも当然と言わなければならないでしょう。デモクリトスの指摘の半分しかやり遂げていない現代の科学は反省すべきでありましょう。
もちろんこのことは既に指摘され、学問の改変も始められてはいます。循環という点について言えば、生命体や生態系において長い間中心的な概念であり、また地質学においても重要な話題です。しかしそれらは、特定の存在物の中での限られた循環であり、その意味で開拓を含む人類の全的な行動の軌跡を作る基盤であったわけではなく、従ってそれは学問の中心に置かれなかったと言うべきでしょう。しかし今、学問の改変は人類の行動の軌道修正と連動して始められており、その一つの象徴が生命科学の急進であるということが言えます。生命科学はもはや科学の一分野であることを出て、そこから得られる知識が多くの分野に影響を与えるようになっています。それは循環という観念がその地位を向上させる予兆であると言えます。またここには歴史科学の復権という重大な問題もあります。しかしこれは、歴史と行動という、別の大きな問題にかかわることであり、ここでは触れるのをやめましょう。
さて、長い間眠っていた循環という概念が眼を覚まして主役になるという事件も、それは単に学問上の出来事なのではなく、現代の邪悪なるものに立ち向かう人類の行動と連動して起こりつつあるのだと考えるのが正しいでしょう。
今考えれば当たり前のことなのですが、地球が安定して存在し続けるのは、地球が生命体にとって良好な環境を安定的に提供し続けるからなのであり、それは物質の循環があるからです。そしてこれも当たり前のことですが、物質の循環とは物質に乗った情報の循環でもあります。
自然界における物質と情報の循環とによって得られる安定について十分な注意も払わず知識の体系も作って来なかった、このことが、現代の邪悪なるものを生み出した大きな原因の一つなのではないか、というのが現在のところ私の得ている結論です。既に述べたように、開拓あるいは開発の結果を考えない人類の大方針が、その中心にあるのです。しかしそれだけでなく、数数の行為が同質の問題を帯びています。
例えば製造業において製品を世に出して行くとき、市場選択によって良い製品は受け入れられ生き延びますが、悪いものは拒絶され消えて行きます。ここには選択を通じて情報の循環があり何が受け入れられた原因かを知ることができて、その知識によって製品は進化することが可能です。しかしこの場合循環は情報どまりであり、製品が廃棄された後は製造業の中の問題としては扱われないという意味で、物質循環は成立していません。
報道機関の提供する番組は不特定多数の人人へと送られますが、その際のどれを見たり聞いたりするのかという選択は、製造業の製品を購入する場面にくらべれば遥かに弱い選択です。そして量的な視聴率が問題とされますが、視聴率の重視が番組の進化にどのような効果を与えているかを考えるとき、報道側の番組提供と視聴者の選択の関係は確かに循環系をなしてはいますが、それがいかに貧弱なものか、容易に理解できるでしょう。
情報循環にせよ物質循環にせよ、その循環系が不完全な例は、私たちの社会に多く見られます。多くの産業活動の循環系は不完全ですし、政治、行政についてはほとんどなく、教育も同じ問題を抱えています。
このことは偶然ではなく、先に述べた人類の大方針の帰結であると考えることによって統一的な解釈が可能となります。すなわち、人間の行動は、それが善意の意図に基く前進であるとき常に正しい。この前提に人類の大方針が立っていると考えるとき、行動における精緻さに対し、その結果を評価する際の粗雑さがよく理解されるとは言えないでしょうか。
このように考えてくると、身近かな問題から人類全体の問題まで、その幅広く分布する問題を通じて一つの共通の課題が生起しつつあることが理解されます。
我が国が戦後、豊かさを求めて社会的な装置を作動させたこと、それはまたいま述べたように現在の我が国のいろいろな側面で問題を起こしていますが、それが循環の概念を含まない政策の一方向性による不十分な進化の結果だと言えること。これが、身近かな問題であるとすれば、一方で現代の邪悪なるものは、抽象的ではあるけれど、確かに存在する人類の大方針が、これもまた循環の無視によって、人工物に進化不全を起こした結果と言えるでしょう。これはより根源的で広範囲な問題であると言えます。
四年前、避けようもなく見えて来る現代の邪悪なるものを克服する計画について、皆さんとの共同作業を提案したのでしたが、以上に述べたことがささやかではあるが私のした作業です。一口で言えば、それは身のまわりの現実的な出来事を見過ごすことなしに、実感的に感受することを通じて、通常は眠っていて機能しない抽象的な事件を見る眼を目覚めさせる、という作業だったと言うことになりましょう。そしてその眼が見たものは、ある種の循環の欠如ということだったのであり、従って次の作業はこの循環を実際に実現する社会的装置の設計ということになりましょう。
皆さんは、総長という職がもつ仕事にいつも追われていた私とは違い、考える時間の豊富な、学習と研究とで充実した四年間を送ったことと思います。その中で、学問のことだけでなく、時代の状況を考え、未来を考え、そして自分自身の生き方を考えたことでしょう。その過程で現代の邪悪なるものに出会うことがあったとすれば、その克服についての計画を建てた人もいると思います。
いつかそのことについて、共に語り合う機会があることを念じつつ、お祝いの言葉を終えます。
(学内広報1093号より)
1997 東大新報