本学など国立八大学の病院を衛星回線で結び、最先端の医療情報を交換して治療や研究に役立てる「衛星医療情報ネットワーク」がこのほど本格稼働を開始した。世界初のデジタル・ハイビジョンによる高精細の画像放送を使用し、昨年十二月の開局から、講義や医師の情報交換に使われている。ネットワークは今年度中に新たに三大学が加わって計十一大学になる見通しで、将来は四十二国立大学病院すべてに広がる予定だそうだ。
大学病院衛星医療情報ネットワーク(愛称・ミンクス)が開局したのは昨年十二月六日で、本学をはじめ、北海道大、東北大、名古屋大、京都大、大阪大、岡山大、九州大の八大学を結んで行われた記念式典に続き、京都大から生体肝移植の講義と実況中継が流された。
使用している衛星は「スーパーバードA」というもので、赤道上空三万六千`の静止軌道にある。各大学病院にパラボラアンテナを設置し、衛星に電波を飛ばして各地の大学に画像を送信したり、他大学からの情報を衛星経由で受け取っている。
走査線数が約千二十本あるハイビジョン画像をデジタル化して送受信しており、通常のテレビ画像もいっしょに流すことができる。デジタル化したハイビジョン画像の放送が実用化されたのは世界でも初めてという。
これにより、それぞれの大学病院で行われている高度な先進医療を見て、医師が最先端の医療技術を修得できるようになるという。
ミンクスは開局後、二月四日には開原成允教授の退官記念講義を放送。また、四月二十四日には「第一回大学間病理カンファランス(検討会)」に活用しており、本格的に行われるようになってきた。
同カンファランスでは病変部のサンプルを顕微鏡でのぞいた画像を送受信。本学から大腿部にできた軟部腫瘍(しゅよう)、小児の脳腫瘍などの例が紹介された。画像を見た北海道大学の教授は、満足する画像が送られてきているという。
大学病院などでは臨床医が専門外の診断を求められることがあり、他の大学にいる病理部の医師に判断を仰いだりすることが多く、衛星で画像を送受信できれば他大学からの協力が得やすくなるようだ。
将来的には講義を遠隔で受けられるようにしたり、複数の大学の医師が特定の症例について話し合って治療方法を決めたりするのに使えるという。また、地震などの大災害が発生した場合などに医療情報を交換する手段としても期待されている。
五月二十二日には岡山大の心臓の奇形手術に関する放送、六月十七日には北海道大と名古屋大を中心にした放射線に関するカンファランスを計画。今年度中には金沢大、高知医大、鹿児島大の三大学にも衛星回線の送受信システムが設置される予定で、全国立の病院のネットワーク化が着々と進んでいるようだ。
本学教養学部は五月六日、「大学キャンパス内の犯罪行為は許さない」題した掲示を出した。それによると、五月一日(木)夜半から二日(金)早朝にかけて、旧明寮取り壊し工事現場で悪質な妨害行為が行われた模様。
工事用の囲いの中に侵入した何者かが、止めてあった大型パワーショベルと小型パワーショベル二台の燃料タンクに大量の土砂、ゴミ、薬品などを投入し、作動不能にした。また、パワーショベルにさしてあったキーと、電動ドリル一台を盗み去った。
工事関係者の告発を受け、五月二日には目黒警察署による現場検証が行われた。さらに、五月三日には裏門、また五月五日には炊事門に掲示を義務付けられた「建築計画のお知らせ」の看板が、何者かによって破り取られたという。
現在、学部の三鷹国際学生宿舎特別委員会と、学生自治会、及び旧駒場寮自治会の間では、廃寮問題の解決をめざして、話し合いがもたれているが、その話し合いの「努力を嘲笑」するかのような犯罪行為が行われた。
教養学部は、「学部構成員ひとりひとり」が、「キャンパス内からの犯罪の芽を絶つためにいっそうの努力を傾けるべきであると考える」と訴えている。
「大学キャンパス内の犯罪行為は許さない」
平成九年五月六日 東京大学教養学部
五月一日(木)夜半から二日(金)早朝にかけて、旧明寮取り壊し工事現場で、悪質な妨害行為が行われた。工事用の囲いの中に侵入した何者かが、止めてあった大型パワーショベルと小型パワーショベル二台の燃料タンクに大量の土砂、ゴミ、薬品などを投入し、作動不能にした。また、パワーショベルにさしてあったキーと、電動ドリル一台を盗み去った。工事関係者の告発を受け、二日には目黒警察署による現場検証が行われた。さらに、五月三日には裏門、また五月五日には炊事門において、都条令により掲示を義務付けられた「建築計画のお知らせ」の看板が、何者かによって破り取られるという事件も起こった。
現在、学部の三鷹国際学生宿舎特別委員会と、学生自治会、及び旧駒場寮自治会の間では、廃寮問題の解決をめざして、真摯な話し合いがもたれている。私たちは大学の場において、話し合いの努力を嘲笑するかのような犯罪行為が行われた事態を決して放置することはできない。学部構成員ひとりひとりがそのことを今一度肝に銘じキャンパス内からの犯罪の芽を絶つためにいっそうの努力を傾けるべきであると考える。
まもなく五月祭が始まる。そこで、今回は「五月祭」の歴史についてみていきたい。
五月祭は大正十二年に始まったが、最初の頃名称は一定せず、第一回は「大園遊会」、第二回は「全学大園遊会」、第三〜五回は「全学大懇親会」、第六回は「全学解放」、第七〜九回は「全学公開」、そして、第十回から現在のように「五月祭」と呼称されるようになった。
昭和三年、第六回の「全学大懇親会」を開催するはずであったが、当時の主催者であった全学学友会は、その構成員である理事側(教授)と学生委員側(学生)との間で意見が合わず、全学学友会として解散に追いやられ、その結果、自動的に五月祭が開催できない状態に至った。
この頃は、いわば試行錯誤時代で、五月祭の性格に関してかなり鋭い意見の対立があったのではないかと言われる。事実、翌年に開かれた五月祭の名称は、「全学解放」という、今までとは全く異なったニュアンスをもったものになっている。
戦前の五月祭の記録は極めて乏しいが、昭和十八年の五月祭記録は現存しており、それには次のような総合評価が下されている。
「五月祭は各学部知識の交換のため設けられたものであるが、実情は学生よりも来客を対象とし、内容も大衆向きにおちている。学生は自分の持場もあるので、各教室の見学も思う様にならぬ。故に学生と来客の見学は別の日にするのがよい(当時は土・日曜の二日間であった)。また、さらに一歩を進めれば、五月祭の目的の再検討を要する」
これだけで戦前の実態の全般がわかるわけではないが、これでみる限りでは、当時の東大生は向学心に燃えており、また、かなり高踏的であったようだ。
戦後、この問題提起を受けて五月祭の目的について検討が加えられ、その結果、次のように定められて今日に至っている。
「五月祭は、本学学生が平素の研究活動と文化活動の成果を学内外に公開し、それを通じて学部間の文化的交流を深め、本学と市民とが接触し交歓する全学的祭典である」
戦後の五月祭は昭和二十一年に再開されたが、当時の社会状勢を反映し、学生たちの目は外に向けられ、日本の民主化と世界の平和を求めつつ、五月祭を通じて社会に強い働きかけを行った。
この頃の東大生、少なくとも五月祭に活躍した人たちは、かなり自意識過剰気味で、社会運動に相当傾斜していたと言われる。これに対して大学側は、そのような運動が行き過ぎ、それによって大学の政治的中立性が侵害されることを懸念し、五月祭における政治的スローガンやリコール署名運動の禁止措置をとるなどしたため、両者間に小さな摩擦しばしば生ずるようになった。
そのため、高遠な理想をかかげ、高い政治的関心をもっていた東大生は、だんだんと大学側の配慮を自分達に対する干渉と受けとり、これを排除し五月祭における学生の主導権を拡大しようという身近な運動方針に切り換え始めた。その傾向が顕在化した時期は「六〇年安保」の後で、それは具体的な形をとって現われてきた。
(つづく)
1997 東大新報