大学は、真理探究・学問研究の府及び教育の場であり、日本国家と世界人類に寄与・貢献する使命を持つ。
そしてより大きいことの為に生きる≠ニいう思想こそが、人間個人の成長、家庭・社会の調和と発展、そして、国家・世界の平和と繁栄をもたらすものである。
この思想は、大学自体を発展させようとするものではない。
大学が国家と世界人類のために奉仕しなければならないのである。
その聖なる使命を自覚するものこそが、真の大学人ではないだろうか。
学問の目的は何かといえば、やはり、それは人類の幸福であろう。
幸福とは何であるか。
正義、自由、平和など、さまざまに幸福の内容は規定されうるが、ここではまとめて「善」と呼ぶとすると、人類の幸福は「善」にある、即ち、道徳的である。
学問即ち真理の探究は、善を目的とする時においてのみ人類の幸福と合致する。
学問にはこの道徳性があるのである。
そして、その道徳性は学者自身の問題である。
学問に携わる者は、深い学問的精神を養うと共に、善に対する熱心さをもたなければならないのであろう。
では、そのためにはどうすればよいのか。
矢内原氏は、「学問的精神を何によって養うか」を次のように述べている。
学問を愛し、真理探究に励むこと自身が、われわれの教養を広くし、学問的精神を練磨する。
併しすべての事がそうであるように、人間の学問的活動もそれだけ孤立したのでは狭い技術的学問に堕し、学問としての生命が枯渇する。
即ち学問をするに適した心情を養うものが、学問の底に、また周囲に必要である。
それは芸術と宗教である。
芸術は人の心を美にむかって開く。
宗教は人の心に真理を啓示する。
人をして利害の打算と世の毀誉褒貶と肉体の死生を超え、自由の心を以て真理の探究に従事するを得させるものは、芸術と宗教、殊に後者である」
この内村氏の墓には彼自身の筆による墓碑銘が刻まれているが、このわずか四行の中に彼の信念・信条ともいうべきものが実に見事に含まれているのである。
ここにおける「キリスト」とか「神」とかという言葉を、「平和」とか「真理」とかに置き換えることも可能だろう。
自分は、自己の利欲のために生涯を用いず、日本のために生涯を捧げる。
日本は自国の利益のみに生きずして、世界の平和のために生きる。
世界は、一時的な満足や戦争に生きずして、全人類の恒久平和のために生きる。
そこにおいて初めて、万人が幸福に暮らせ、万国が共生共栄できる「神の国」を実現することができるのあろう。
大学人は、たとえそれがどんなに苦難の道であったとしても、“より大きいことの為に生きる”という信念に徹して生きるべきであろう。
理想は高く有し、真理を愛する高貴な精神を以て、新しい日本文化の創造と世界の恒久平和のために生きる――それこそが、最も名誉ある生き方である、と私は結論する。