卒業生の皆さん。あなた方は、今日、東京大学の卒業証書を手にされることになりました。みずからにふさわしい知的な空間としてあなた方が選択した東京大学の十の学部から、学士の称号にふさわしい存在であると認定されたのであります。それを祝福するために、いま、この大講堂での式典が催されているのです。
あなた方を「卒業生」と総称するには、あまりにも多様な性格をそなえた個人がそこにひしめきあっているのかもしれません。しかし、その一人ひとりが、それぞれに異なる個人的な状況をおのれの責任として引き受けながら、入学以来の目的をここに達成されたことに、わたくしは深い敬意を表さずにはおれません。三千四百九十四人を数える本年度の卒業生の中には、四年あるいは六年という所定の年限を越えて在学された方もおられます。しかし、いま東京大学の学士になろうとしているすべての男女は、創設以来この大学に学んだ数えきれないほどの人々とともに、思い思いのやりかたで東京大学百二十年の歴史に、積極的な主体として加担されたのであります。あなた方が今日手にすることになる学位は、かつて夏目漱石や森鴎外の手にしたものと同じ資格で、あなた方を東京大学に結びつけることになるからです。それは、皆さんの一人ひとりが誇るべきことがらであります。わたくしは、明日から母校と呼ばれることになるこの大学への皆さんの貢献を、心から感謝せずにはいられません。
いま、ここには、医学部、工学部、理学部、農学部、薬学部に籍をおかれた方々が、いつもとはいくぶん異なる表情で顔をそろえておられます。その五学部を卒業した千七百五十九人に向かって、ここで心からの喜びの言葉を贈らせていただきます。[いま、ここには、法学部、文学部、経済学部、教養学部、教育学部に籍をおかれた方々が、いつもとはいくぶん異なる表情で顔をそろえておられます。その五学部を卒業した千七百三十五人に向かって、ここで心からの喜びの言葉を贈らせていただきます。]いま、年に一度のこの祝祭空間をみたしている男女の中には、それぞれの資質にふさわしい職業をすでに選択し、今日かぎりで東京大学を離れる方も多数おられます。その方々に対しては、将来に向けての皆さん方の選択が適切なものであり、新たな環境の中で、自分に恵まれた資質を充分に発揮されるよう祈っております。
大学の学士号を獲得して新たな職業につくことを、人びとは「社会人」になるという言葉で表現しています。だが、これは途方もない誤りだといわぬまでも、誤解をまねきやすい言い方であります。組織としての大学はまぎれもなく社会の一員であるし、また個人的にいっても、数年前から選挙権を行使しておられるはずのあなた方も、すでに充分すぎるほど社会的な存在だからであります。ここには、大学院に進学し、東京大学での学業をさらに深めようとしている方も少なくないはずであり、その方々に対しては、より高度な学位の獲得に必要な環境の維持が保証できればと願わずにはおられません。しかし、これからこの大学で改めて修士、博士の学位を獲得しようとしている人びともまた、社会的な存在として振る舞うべき身であることには変わりがありません。どうか、そのことに充分自覚的に行動していただきたい。大学は社会に背を向けた聖域ではなく、その社会的な機能はますます増大しております。すでに職業につかれた方々を改めて迎え入れる大学院の制度が定着しているのも、そのためにほかなりません。
あなた方がすでにその一員である日本社会には、いま、ある種の閉鎖状況が支配しているといわれております。しかし、そのことに過度に悲観的になることは、過度に無関心でいることと同様に、生産的な姿勢とはいえません。なるほど、これまでごく自然に維持されていたさまざまな秩序が、いたるところで崩壊しつつあるのはまぎれもない事実であります。だが、かつてのドイツの哲人フリードリッヒ・ニーチェがいったように、真実とは、みずから錯覚であることを忘れた錯覚にすぎないのであります。その真実の一語を秩序のそれにおきかえるなら、いま日本社会で起きているのは、みずからを秩序だと思いこんでいたさまざまな錯覚が、おのれの錯覚にようやく気づき始めたという事態にほかなりません。その新たな事態は、大学人をも含めた社会のすべての構成員に、変化することへの権利の大がかりな行使を求めております。変わらねばならないという義務ではなく、変わることができるのだという権利の意識が事態を肯定的に処理しうる条件が整い始めているのです。何かにつけて現状を悲観的にとらえ、シニカルな憂い顔を気取ってみせずにはいられない人びとは、錯覚にすぎない秩序をあくまで錯覚として放置しておきたいだけのノスタルジックな精神の持ち主にすぎません。そしてわたくしは、そのシニシズムもノスタルジーも共有するつもりはありません。安定よりも変化を求める人びとにとって、願ってもない好機が到来しつつあるからです。
実際、わたくしたちは、いま、かつてなく刺激的な試みの可能な時代に生きているのだといえます。わたくし自身は、みずからを錯覚であると自覚し始めた秩序の揺らぎに、大きな期待をいだいております。そのとき、期待を萎えされる唯一の悪徳は、変化への可能性に背を向け、ひたすら防御的な姿勢をとることにつきています。今日、制度改革という言葉でいわれている動きのほとんどは、その根底に、無意識の防御的な姿勢を隠し持っています。そうした趨勢は、してもよいことがらを積極的に推奨するのではなく、してはならないことばかりを列挙しながら、かつて秩序と思われていたものとさして変わらぬ別の秩序の構築を目指しているにすぎません。それは、いわゆる制度改革と呼ばれる防御的な振る舞いにつきものの限界にほかなりません。制度改革よりも意識改革が必要だといったかけ声には、いささか安易な響きがつきまとっていますが、明らかに発想の転換が求められているのです。
たとえば、公共的な義務の概念がおしなべて希薄になってゆくとき、われわれに求められているのは、その義務をさらに限定し、してはならないことを厳密に規格化する作業ではありません。してもよいことがらに向けての権利を大がかりに擁護することこそが、いま必要とされているのです。すべきではないことについてあまりにも慎重だったあまり、すべきことが何であるかを見失い、あげくのはてに、すべきではないはずのことに思わず手を染めてしまうという悪循環が、いたるところで起こっているのです。その不幸なプロセスを断ち切るには、禁止や否定ではなく、奨励し、肯定する能力を回復しなければならない。にもかかわらず、マスメディアを初めとして、現在あたりに流通している支配的な言説のほとんどは、義務の意識にこわばった禁止と否定の力学を煽りたてるものばかりなのです。これは、危険な兆候だといわねばなりません。
知性とは、肯定へと向かう積極的な資質であります。肯定とは、もちろん、現状の無批判な追認ではなく、そこに潜在体として息づいている変化への予兆をふくらませ、それを顕在化させることにほかなりません。自分に何ができるかを想像し、それを現実のものたらしめようとする動きが広く共有されるとき、そこに初めて義務の意識がごく自然に生まれてくるのです。いまは、そのことがみごとに忘れられている。というより、禁止と否定のみで事態を好転させようとする発想の貧しさが、真の問題の所在を見失わせているのだといわねばなりません。変わることへの権利の行使がかつてなく求められていながら、いたるところで義務の意識ばかりが指摘され、それがあたかも正しいことのように錯覚されてしまうからです。過度に悲観的な閉塞感をあたりに行きわたらせ、人びとの身振りを必要以上にこわばらせているのは、その貧しい錯覚にほかなりません。
知性とは、何が自分に可能なのかを具体的に想像する者が、その実現に向けて演じてみせる身振りのうちに露呈される力にほかなりません。それは、蓄積されることのない力であり、有効に機能する瞬間にのみ威力を発揮するものなのです。その点で、知性は、蓄積され、構造化されうる知識や情報とは大きく異なります。構造的に蓄積された知識はともすれば変化を恐れますが、知性は、潜在的に萌芽としてあるものを顕在化せしめるものだという意味で、本質的に変化を誘発する運動なのです。そして、知性は、いまが変化に対して大胆であることを各自に要請している時代であることを察知しているはずなのです。もちろん、変化とは、すべてをご破算にして初めからやりなおすことを意味してはおりません。だいいち、そんなことは抽象的な発想にすぎず、いささかも現実的ではありません。知性は、ある対象を構成する要素のうちで何が可変的であり、何が不変的であるかを識別し、変化にふさわしい組み合わせを予測する力なのです。その意味で、あらゆる知性にはいくばくかの賭けの要素が含まれているというべきかもしれません。
こうした変化への権利を行使しようとしない存在は、いくら知識や経験が豊富であろうと、またいくら年齢が低かろうと、若さを欠いているといわねばなりません。わたくしとしては、あなたがたに、言葉の真の意味での若さを体現しながら、みずから変化し、社会を変化せしめる積極的な個体として振る舞っていただきたい。また、あなた方には、それが可能であると信じております。かつて、われわれのもとで学ぶにふさわしい人材としてあなた方を選択した東京大学の総意として、あなた方すべてのもとに、こうしたわたくしの思いがとどけばと念じております。その思いは、あなたがたの年ごとの成長をごく身近に見まもっておられたそれぞれの学部の先生方にも、必ずや共有していただけるものと信じております。
知性とは変化を誘発する資質 |
もちろん、いま、この言葉を語りかけているわたくし個人は、ここにおられるすべての方々と、東京大学在学中に親しく言葉を交わす機会に恵まれたわけではありません。あなた方の中には、たまたまわたくしを教師として持つという相対的な不幸、あるいは、ごく少量の幸運を体験された男女がまじっております。昨年までこの大学の教授であったわたくしの内部には、その彼や、彼女らとともに過ごしえたいくばくかの時間の記憶が、何とも貴重な体験として堆積しております。ことによると、その方々は、その体験が教師としてのわたくしにとってこの上なく大きな幸運だったという現実を、充分には理解して下さらないかもしれない。しかし、教育とは、何よりもまず、他人とともに思考し、他人とともに行動することにほかなりません。そして、学生という存在は、教育と研究にたづさわるわたくしたち全員にとって、かけがえのない他人なのです。その役割を四年間にわたって充分にはたして下さった方々に、深い感謝の気持ちをささげます。
入学以来、その年ごとの成長をことのほか期待していながら、総長という立場におかれて以後、彼ら、または彼女らの卒業論文の指導を充分にははたしえなかったことの深い悲しみを、ここで告白したい個人的な誘惑にかられます。見方によれば荘重な、また、わたくしの個人的な審美眼からすれば、あまりにも時代遅れの醜い衣装をまとってこの壇上に立っているのは、その悲しみを人目から隠すための方策だとご理解下さい。この大袈裟な礼装で身をつつみながら、何とか公けの人格への移行を試みながら、わたくしは、いまこの場で、一つの始まりであり同時に一つの終わりでもある儀式に参列しておられるすべての男女に向かって、「おめでとう」という言葉を投げかけずにはいられません。
もとより「おめでとう」という言葉は、手垢にまみれたいかにも芸のない言葉であります。祝福の表現としてこの一語をむなしくくりかえすしかない日本語の語彙の貧しさに、何度かいらだちを覚えたこともあります。ことに、公式の立場にある者の口からもれるこの言葉には、形式的な安易さが救いがたくこびりついてさえおります。この季節に周囲で頻繁に口にされるこの一言にうんざりして、いまさら何が「めでたい」のかとひそかにつぶやいておられる方がいるかもしれない。また、昨今の財政スキャンダルを伝えるマスメディアの多くが、「東大卒」という資格の価値下落につながりかねぬ言動を旺盛にくりひろげているとき、東京大学の卒業式の「めでたさ」にも相対的な価値下落が起きて当然だという視点があるかもしれません。ことによると、外部から注がれる批判的な視点にとって、この空間にわたくしが氾濫させている祝福の言葉のかずかずは、不謹慎なものとさえ映るのかもしれません。
にもかかわらず、わたくしは、「おめでとう」の一語を、率先してあなたがたへのはなむけの言葉として使わせていただきます。みなさん方も、その言葉にこめられた思いを、素直に受けとめていただきたい。あえてそうすることには、もちろん、いくつもの正当な理由がそなわっております。まず、人類のさまざまな表象能力の分析を研究テーマにしているわたくしにとって、言語活動における最大の試練が、修辞学的に高度な文章推敲の駆使にもまして、もっとも単純な語彙の単純きわまりない使用にあることを熟知しているからであります。だから、「おめでとう」という誰もが口にする凡庸な響きをおびた単語に、この瞬間、その凡庸さを超えた何かを託してみたいのです。ご承知のように、文学のつきぬ魅力の一つは、何の変哲もない語彙の単純さの背後に、思いもかけぬ豊かな意味作用を開示せしめる作家の才能にあるからです。
たとえば、あなた方は、中上健次という小説家の、「日本語について」というぶっきらぼうな題名の小説を読んだことがあるでしょうか。数年前に惜しまれつつも他界したこの作家が二十二歳のときに書いた作品で、まだ大江健三郎の影響が色濃く読み取れるなどと評価されているものです。それは二十を超える複数の断章からなった中編小説で、それぞれの断章には見出しがつけられています。ところが、その見出しの言葉は、ことごとく「夏」という一語なのです。ページをめくるたびに、新たな「夏」という断章が始まり、それが二十何回もくりかえされることの不思議さを想像してみて下さい。この文章をことのほか活気づけているのは、何にもまして、その単調なくりかえしなのです。誰もが知っている「夏」という単純な語彙の単調なくりかえしが、そのつど驚くほど異質な言語空間へと読むものを誘いこまずにはおかないからです。先行作家大江の影響から作者を解放するこの形式的な大胆さこそ、言語の豊かさを開示する文学的な資質にほかなりません。わたくしが「おめでとう」という言語を芸もなくくりかえすとき、もちろん、若き日の中上健次の「夏」という言葉の執拗なくりかえしに遅まきながら挑戦しようとする野心を隠し持っているわけではありません。ただ、単純な言葉の使用を避けることだけが言語をめぐる「知の技法」なのではなく、ときには、その単調さそのものが、言語空間に思いもよらぬ亀裂を走らせることができるのだということぐらいはここで示しておきたかったからなのです。
わたくしが「おめでとう」という凡庸な言葉で皆さんを祝福しようとする理由は、まだまだいくつも存在しています。その一つとして、このわたくしの言葉が、まさに、いまこの瞬間に東京大学を卒業しつつあるという皆さん方の「現在」に向けられているということが挙げられます。ここにおられる若い男女が真の意味での卒業生としてあるのは、まさに、今日というこの一日だけなのであります。事実、明日からは、誰もが、すでに東京大学を卒業した者という過去形の動詞で定義される存在へと変化し、より大きな集合に吸収されてしまうでしょう。以後、あなた方を評価し、その資質を称えたり貶めたりする主体は東京大学ではなくなり、不特定多数の他者たちへと移行します。そのとき、「東大卒」という資格はたちどころに相対化され、より錯綜した現実の条件の中で、そのつど「現在」を体現しつつ、あなた方が自己の責任において演じる振る舞いだけが、評価の基準となります。だから、あなた方に向かって、東京大学の総長が誇りを持って「おめでとう」と口にしうるのは、いまという「現在」の瞬間だけなのです。わたくしとしては、この場でその権利を存分に行使し、「おめでとう」という言葉をあなた方に向けてくりかえしたい。いま東京大学を卒業しつつある男女の大部分が、かつて東京大学を卒業した者という資格においても、他者の評価に充分たえられるだけの資質に恵まれているはずだと、確信しているからであります。
わたくしが、あえて「おめでとう」とくりかえしたいと思ういま一つの理由は、わたくし自身から発するものではありません。「東大卒」という資格が、国際的にいささかも価値下落を蒙っていないばかりか、むしろ価値上昇の一途にあるという事実を、外部からよせられるさまざまな言葉を通して実感する機会がふえているのです。実際、海外の優れた高等教育の機関から、東京大学との学生交換の交流協定を結びたいという熱気をおびた提案がひきもきらずもたらされております。また、諸外国の教授たちから、ぜひ東大の学生や卒業生を自分たちの大学に送ってほしいと依頼されるケースもますます増えております。国家公務員や私企業に勤務されてから海外研修に行かれる「東大卒」の方々が、それぞれの大学できわめて高く評価されていることも、何度か直接耳にする機会がありました。在学生の質の高さ故に、東京大学で教鞭をとることを希望される名高い外国の研究者も、あとをたちません。あなた方は、過去四年間、意識すると否とにかかわらず、こうした世界的な期待をうけとめる対象としてこの大学に在学しておられたのです。
これは今年度の入学式の式辞で紹介したことですが、東京大学教授として三年間科学史の講義をされたフランスの著名な学者は、東大生の優れた資質に深い感銘を覚えておられました。東京大学の学生のほぼ三十パーセントは、世界のもっとも優れた大学の学生たちにまさるとも劣らないと、その教授は真剣な表情で指摘されたのであります。だから、あなたがたには、「東大卒」という資格に大きな誇りをいだいていただきたい。一部の先輩たちのふとどきなる振る舞いにもかかわらず、東大生の価値下落など、国際的にはいささかも起こっていないからであります。
もちろん、嘆かわしい財政スキャンダルに加担した高級官僚や私企業の上層部に、本学の卒業生がまじっていたのはまぎれもない事実であり、それを否定することはできません。まだ裁判さえ始まっていない段階なので無責任な言動はつつしむべきだとは思いますが、わたくしは、かつてこの大学で学んだほんの一部の者たちの愚かな振る舞いに、東京大学に籍をおく者の一人として、また、国民の一人として、深い憤りと屈辱とを覚えずにはいられません。また、そうとは断言しえませんが、かりに彼らの破廉恥な言動に東京大学独特の風土が何らかの意味で反映しているというのが事実であるとするなら、例外的な少数者の愚行とはいえ、そのことを深く反省しなければならない立場にわたくしは立っていることになります。
「東大卒」の価値はむしろ上昇 |
しかし、そうした憤怒と屈辱とを、ここであなた方の上に投影しようとするつもりはありません。東京大学を去ろうとしているいまのあなた方には、そうした事態に対する的確な批判能力がそなわっていると確信しているからであります。昨今の度かさなる財政スキャンダルのニュースに接して何とも気分が滅入るのは、知識や情報には恵まれていたはずのその当事者たちが、まさに知性だけを欠落させているとしか思えない言動を弄していることにあります。その点から引きだしうる教訓は、現在の日本がかかえこんでいる最大の問題が、知性とは異なるさまざまな要因の介入によって事態が処理されがちだという事実にほかなりません。そこでは、多くの場合、知性の働きは、軽蔑される以前に無視されております。これは、いかにも嘆かわしい状況だといわねばなりません。だが、そう断言することは、いつでも自分自身の身にはねかえってくる問題だということに自覚的でなければなりません。はたして、知性は、わたくしの「現在」の言動を、なお旺盛に活気づけてくれているでしょうか。わたくしは、しかるべく蓄積された知識と、ほどよく収集された情報と、多少の経験と、いまある立場によって限界づけられた視点だけで、知性の介入なしに、多くの事態を処理しているのではないでしょうか。そうした反省をわたくしにもたらしてくれるのは、いま東京大学を去ろうとしているあなたがたを初めとする、多くの他人の存在なのです。さいわい、そうした他人の視線を身近に感じることで、わたくしは、かろうじてスキャンダラスな愚行を犯さずにすんでいるのかもしれません。教師にとって、学生というかけがえのない他人とともに思考し、行動することがどれだけ貴重な体験であるか、これで理解していただけるかもしれません。
最後に、いま一度くりかえしておきます。教育とは、他人とともに考え、他人とともに、行動することにほかなりません。その意味で、教育に終わりは訪れないのです。それを主題にした作品として、十九世紀フランスの作家ギュスターヴ・フローベールの「感情教育」という長編小説が存在しておりますが、これは一度は読む価値のある優れた作品です。わたくしはまた、知性は蓄積のきかない力だともいいました。あなた方の知性は、まさに他人とともに考え、他人とともに行動することで、初めてその質を高めることにもなるのですが、「東大卒」という資格は、そのような知性を、今後も、無条件で保証し続けるものではありません。いまのあなた方にそなわっている批判能力も、年齢や環境に応じて微妙に変化し、さらに強度を増すこともあれば、衰退することもあるでしょう。そのことに自覚的であるためには、誰もが、気心の知れた仲間とはおよそ異質の他人の存在を周囲に必要としております。それは、ことによると、国籍を異にする存在かもしれない。世代を異にする存在かもしれません。
あなた方の一人ひとりが、そうした他人と遭遇する機会に恵まれることを祈りつつ、わたくしの挨拶を終わらせていただきます。
(学内広報・第1122号より転載)
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