新入生の皆さん。東京大学は、いま、あなた方を新たな構成員として迎え入れようとしております。この大学で学ぶことを選択されたあなた方の夢が確かな現実となり始めていることに、心からの祝福を贈りたいと思います。
あなた方は、いまとりあえず受け入れている「新入生」という呼び方には到底おさまりがつかぬほど、それぞれに豊かな多様性を秘めた無数の個体からなっておられます。若さとは、多様な変貌への可能性をたえず萌芽として維持しておく存在の柔らかさにほかなりません。その資質が無限に複数化され、思い思いにこの場をみたしているさまは、まさに壮観というほかはありません。あなた方のこの式典への参加をことのほか誇りに思っておられるご家族の無言の励ましが、この空間の空気をことさら晴れがましい色あいに染めあげてもいます。
新入生の皆さん。あなた方は、苛酷な試練によく耐えて、この式典に参列しておられます。だが、それは、あなた方の一人ひとりが、いまある東京大学にふさわしい存在だと認定されたことだけを意味してはおりません。あなた方は、何よりもまず、東京大学に好ましい変化をもたらすだろうかけがえのない人材として、未来に向けての潜在的な資質を評価されたのであります。いいかえるなら、その資質がいまだ潜在的なものにとどまり、顕在化されてはいないという理由で選択されたにすぎません。その意味で、わたくしたちの選択は、一つの賭けであったといえるかもしれません。いつの日か、あなた方の資質が顕在化される瞬間には、日々傾けられるだろう個人的な努力を超えた華やいだ何ものかとの出会いが生きられることになるでしょう。そうした予測しがたいできごとの舞台装置としてこの東京大学が有効に機能しうるなら、それにまさる喜びはありません。あなた方の資質の潜在的な大きさに賭けたわたくしたちも、あなた方の選択にふさわしいものであるために、みずからのあり方そのものに、改めて厳しい視線を向けねばならないでしょう。今年もまた、そうした機会に恵まれたことに、深く感謝したいと思います。
未知の自分にめぐり合う |
こうした祝福と励ましと感謝の思いとが晴れがましく交錯しあうこの舞台で、いま、あなた方の期待と、わたくしたちの期待とが遭遇しようとしています。それが幸福な遭遇となることを祈らずにはおれないわたくしの思いを、新入生の皆さんにもどうか共有していただきたい。とはいえ、二つの期待の出会いが「幸福な」ものだということは、黙っていても意志の通じあう気心の知れた仲間の輪が、東京大学を舞台として、その親密さをさらにおし拡げたということを意味してはおりません。あらゆる出会いからは、他人との調整しがたい葛藤や、軋轢や、矛盾が生まれ落ちるものだからです。学ぶということは、その葛藤を具体的に生きることで未知の自分にめぐりあうという体験にほかならず、その苛酷さを引き受ける身振りの中に、初めて知性が生成されるのです。
あなた方がいま足を踏み入れつつある東京大学は、さまざまな積極的な矛盾が交錯しあう闘争の現場にほかなりません。閉ざされた知の聖域でもなければ、他を排した特権的な知の空間でもありません。あなた方は、その開かれた闘争に進んで参加する権利をいま手にされたところです。「競争社会」といういささか否定的な語彙で語られているものとはまったく異質の、より苛酷な知性による闘争がここに始まろうとしているのです。どうか、心の準備を整えておいて下さい。
ここでいう闘争とは、他人の思考や行動の意味やそれがおさまるべき文脈を想定し、何が真の意味で差異の生成にかかわっているかを見きわめ、それに対する自分の位置を確認しながら、何によっても置き換えられることのない「絶対的な差異」としてみずからを組織するという、きわめて具体的な体験にほかなりません。それは、たんに分析したり思考したりすることにとどまらず、表象手段としての言語を駆使するほかはない闘争であります。黙っていても相手がこちらの心中を察してくれるはずだというのどかな期待の成立しえない領域に、社会や歴史が拡がりだしているのであり、大学は、そうした意味で、優れて社会的かつ歴史的な空間にほかなりません。
新入生の皆さん。わたくしは、この儀式を、一般性の領域に起こるできごとの一つとして受け止めたくはありません。一般性とは、一つの対象をかたちづくるすべての項目が、他の項目と、何らかの意味で交換可能な世界をいいます。その意味で、一般性の領域における話題としてなら、あなた方は、去年の新入生と何ら変わるところのない「いわゆる東大の新入生」にすぎず、あるのは修正可能な個体差ばかりです。同じ理由で、今日の入学式もまた、これまでのさまざまな入学式とさして変わらぬ「いわゆる東大の入学式」の一つにすぎず、ときに総長の名前が異なっていようと、それは、この儀式に構造的な変化を導入することにはなりません。
しかし、新入生という総称にはおさまりがつかぬあなた方の特異な多様性が、同類たちとの交換など想定すべくもない「絶対的な差異」として組織化されることを強く願っているわたくしは、この入学式を、そうした一般性の領域で反復されるできごとには限定したくないのであります。この儀式が、「いわゆる秀才」たちと「いわゆるエリート校」との出会いとして、年ごとにくりかえされる「いわゆる東大の入学式」の一つに還元されてはならないと思っているのであります。なるほど、あなた方の何パーセントかが現実に「秀才」であり、そのうちの何人かが「エリート」ともなりうる可能性があるだろうことは一概に否定しません。しかし、当然のことながら、その一人ひとりは、世間一般が「秀才」や「エリート」という言葉で想像するイメージ―たとえば「蒼白い秀才」だの「鼻持ちならぬエリート」だの―といった概念にはおさまりがつかぬ、多様な個性の持ち主であるはずです。にもかかわらず、一般性の秩序は「絶対的な差異」としてあるあなた方を「いわゆる東大の新入生」と総称することで、その特異性をあっさり無視してしまうでしょう。
への感受性を組織せよ |
新入生の皆さん。わたくしが、ここであなた方を誘ってみたいのは、そうした一般性の領域で成立している概念の支配からの解放であります。あなた方は、それから解放され、またそれからの解放に貢献しなければならない。この儀式が設定されていることの意味も、まさしくそこにあるはずです。実際、真の出会いは、一般性の秩序が崩れる瞬間に生きられるものです。真の知性が発揮されるのも、そうした瞬間にほかなりません。「危機管理」という言葉で呼ばれているものの質が問われるのは、まさに、一般性の秩序の崩壊に直面したときなのです。しかし、それは、大災害や外敵の襲撃といった、例外的な事態に限られているわけではありません。学問上の新発見から恋愛にいたるまで、世界がいきなりその表情を変えてしまうかと思えるような瞬間は、いたるところで体験されています。ある音楽、ある絵画、ある小説との決定的な出会い、対人関係の理不尽な破綻、偶然に弄ばれること、意識されざる記憶のよみがえり、等々、これまでにつみあげてきた知識の総体がなんの役にもたたなくなるような事態が決まって訪れます。一般性の秩序がいきなり機能不全に陥るときのこうした戸惑いを「驚き」と呼ぶなら、知性はそうした「驚き」によって、初めて確かなかたちをとるものなのです。
そうした「驚き」への感受性を組織するには、「いわゆる東京大学」という概念にまつわるすべてのイメージを、きっぱり捨て去ることから始めればよい。あたりに流通している記号としての東京大学に触れて、人びとがふと思い描きがちな出来合いのイメージや、それについて思わず下しがちな安易な定義から、自由になればよいのです。
もちろん、あなた方が、今日から東京大学の学生となる自分を、誇りに思ってはならないというのではありません。しかし、あなた方の誇りは、一般性の領域を遥かに超えたところで、それぞれのやり方で東京大学との出会いを体験することで、つまり「驚き」と出会うことで、おのずと形成されてくるはずのものであり、「東大の新入生」という一般化されたイメージからくるのではありません。
一般性とは、何よりもまず、誰もが納得するイメージや定義の単調さからなっております。それに知らぬ間に同調して多様性への萌芽をつみとることは若さの放棄にほかなりません。あるいは、「驚き」への資質の枯渇と呼びうるかもしれませんが、どうか、この種の放棄や枯渇からは無縁の生活を送っていただきたい。
どこまでも一般概念の領域にとどまる人びとは、一つの記号をめぐって、広く共有されているイメージや定義をみずから反復することで、一つの安心感を手に入れようとします。毀誉褒貶の激しい東京大学をめぐるイメージは、それを批判する場合も、肯定的に使用される場合も、その流通に加担しようとする人びとに、ある種の安易な納得を保証しがちなものであります。その安心感は、例えば「東大生は偏差値が高い」だの「東大はエリート養成校だ」というごく短い文章として無自覚に増幅されます。ほかにいくつも想定しうるそれらの言表は、「東大生は無能である」とか「東大の地盤は沈下した」といった否定的な言表といつでも交換可能なものとして、発話者に安心感をもたらします。重要なのはこの安心感であり、いわれていることがらの当否は深く検討されることがありません。マスメディアとは、この種のイメージや定義を提供することでほどよい安心感を保証し、それによって共同性を維持しようとする近代的な制度にほかなりません。それを支えている社会は、商品として大量のイメージや定義を消費することで成立しており、必然的に「驚き」の抑圧に加担しているのであります。イメージとして大量に消費されることで社会にある種の安定をもたらす記号を、近代的な「神話」と呼ぶなら、東京大学もまたそうした「神話」の一つにほかなりません。もちろん、「神話」など無視すればよいという態度もありえましょうが、無視しようとする意識そのものが、すでにその存在を認めることにつながりかねないというところに、近代的な「神話」とのつきあい方のむつかしさがあるのです。それを処理するのが何とも厄介なのは、メディア社会における「神話」が、伝統的な「真実と誤諺」という構図によって、その正当性が判断されるものではないからです。
東京大学は、その学生たちや社会に向けて、誰もが納得できる一般的なイメージや定義を提供する場ではありません。それは、何よりもまず、多様な「驚き」への可能性を生産する巨大な工場にほかなりません。一つの例として、「日本は学歴社会だ」という誰もが納得しがちな命題についてみてみると、これは、「その弊害を一手に担っているのが東京大学だ」と結論することで、何かを理解したつもりになりがちなイメージと対になった命題です。たしかに、その指摘は、日本社会のある種の側面について、何らかの事実を告げており、途方もない間違いとはいえぬかもしれません。しかし、いかにもそれらしい定義を口にすることで何かを批判したつもりでいることは、愚かなことであります。実際、「日本は学歴社会だ」と口にする人の何人が、「学歴社会ではない国」を現実にいくつ列挙することができるのでしょうか。おそらく、誰一人そんなことはできないはずです。かりに諸外国の事情に通じている人がいるとするなら、「日本は学歴社会だ」という言葉など間違っても口にしえないはずだからです。
事実、日本のいわゆる指導層に位置する人たちは、政治家はいうにおよばず、官僚や私企業の上層部で政策決定や立案に加担する人びとは、諸外国の同類に比べて圧倒的に学歴が低いのです。ほかの国々のこの種の人びとの多くは、少なくとも大学院で修士号を獲得しており、博士、すなわち《Ph.D》の資格を持っている人も稀ではありません。ところが、日本の場合は、そのほとんどが学部卒の学士ばかりで、ときには、国家試験に合格しただけで学士ですらなくとも、対外的に日本を代表する地位に立ちうることさえあるのです。実際、日本は、教育と研究に多くの力を傾けている国々の中で、もっとも学歴の低い社会の一つなのです。大学院の進学率もいまなお恐るべき低さに低迷し、お隣の韓国にも遠くおよびません。これが、二十一世紀に向けての日本の人材養成の大きな欠陥となろうことは目に見えています。いわゆる「学歴社会」日本の弊害は、そのことに危機感を覚える様子もないまま、最も低い学位である学士号以外のあらゆる学位を無視しつづけていることにあるのだといわねばなりません。「東大が学歴社会の弊害だ」といういかにも耳当たりのよい結論に満足していると、こうした本質的な議論が見落とされてしまうのです。
「学歴社会の弊害」の最大の問題は、大学に進学した人びとの多くが、二十二歳という低い年齢で、しかも学士という低い学歴のまま自分の将来の職業を選んでしまうことにあります。実際、大学出身者の平均的な就職年齢が、日本ほど低い国は世界に例がありません。他人より少しでも若い年齢で就職することが「秀才」の証しだと思われているのは、日本だけの特殊事情にすぎません。ほとんどの国の「秀才」たちは、充分な時間をかけて自分の多様な可能性を確かめてみる余裕に恵まれているのです。実際、二十二歳という年齢で自分に適する職種の選択など、できるはずもありません。また、低年齢層の新人を大量にかかえこむ企業は、その教育のために多くの熱量と資金を投入せねばならず、それが生産性を著しく低下させているのです。
そうした状況を予見していた東京大学は、一九九一年度から大学院重点化を完成し、以来、かつての東大では想像できなかったほど多くの博士を、毎年生産しております。また、この四月からは、新領域創成科学研究科というまったく新しい構想の大学院を発足させております。そうした大学院の充実が、前期課程教育の力リキュラム改革や、後期課程教育の充実に向けての全学的な取り組みと同時的に進行していたことはいうまでもありません。あなた方を迎え入れようとしている東京大学は、このように、たえず変化に向けての権利を行使する動きにみちた環境なのです。
「最も少なく」悪い制度 |
では、「神話」としてあたりに流通している東京大学のイメージのかずかずから解放されたとして、あなた方が一般性の領域を超えたところで出会うことになる東京大学とは、どんな大学だといえばよいのでしょうか。
先刻触れておいたように、東京大学は、いま、最も華麗な変容をとげつつある大学です。だが、運動しつつある知性の全貌を簡潔に紹介するには、かなりの困難がつきまといます。とりわけ、東京大学が優れた大学か否かを客観的に立証することは、ほとんど不可能だというしかありません。大学に限らず、ある対象の質について語ることは、きわめて微妙な問題をはらんでいるからです。その微妙さは、本来なら混同されてはならないはずの「質的な差異」と「量的な差異」とを、いたるところで混同することになるからです。もちろん、量はあるとき質の問題に転化するという考え方が否定しがたく存在しているのですが、それには、しかるべき条件が慎重に考慮されねばならないし、そもそもこの主張は、両者の混同とは別の問題であり、質と量とが異なるカテゴリーだという事実を前提としているのです。
いまなおわれわれがそこから抜けだしていない「近代」と呼ばれる時代に特有のペシミズムは、その混同が誤りだとわかっていながら、それしか方法がないという理由で、「量的な差異」に「質的な差異」を従属させざるをえない点に存しているのです。あなた方がその試練によく耐えられた入学試験も、質の判定に数字を使わざるをえないという点で、「近代」のペシミズムを逃れてはおりません。また、国際的な学問研究の領域における「優れた論文」の定義も、それが、同じ分野の研究者たちによって何度引用されたかという数の問題に還元されているという点で、同じペシミズムに彩られております。とりわけ自然科学系の研究領域においては、書かれた論文の被引用率によって、その人の評価が決まってさえくるのです。
すでに述べたように、質の評価を数で行うというのは、哲学的な誤りであります。それは、今世紀の初頭、フランスの哲学者アンリ・ベルクソンによって、知性が犯してはならない決定的な誤謬として鋭く指摘されたことであります。にもかかわらず、量的な計測に応じて研究論文の質を評価するという傾向が定着してしまったのは、民主主義と同じく、それが「最も少なく悪い制度」だとみなされたからにほかなりません。ちなみに、日本は、その「最も少なく悪い制度」としての被引用率において、上位三位から五位の間をたえず上下しているというのが現状です。一位と二位は英語圏のアメリ力合衆国と連合王国イギリスであり、非英語圏のフランスとドイツと日本とがそれに続いておりますが、国際的に引用されるためには、こうした国々の研究者も英語で論文を発表することが常識になっております。
社会科学や人文科学の領域では、何語で書かれた論文でも優れたものは翻訳されるという慣行がまだ生きていますから、英語論文の被引用率の国際比較といったことは理系ほど重視されてはいませんが、わたくし自身の経験からいっても、被引用率に限れば、文系においても国際的な言語で書くことの優位は避けられないというのが現状です。ただ、そのとき起こるのは、同じ傾向の研究者たちによる相互引用という醜い互助組織の成立にほかなりません。これは、「近代」の制度的なペシミズムの当然の帰結であり、民主主義の場合と同様、数の優位が無前提に目的化されてしまった場合には、そこに必然的に堕落がしのびこんでくるのです。
わたくしたちは、わたくしたちがいまある現状を、外部に向けて目に見えるかたちで提示しなければなりません。ただ、「質的な差異」を前提として「量的な差異」を計測させざるをえないという事態のペシミスティックな側面を忘れ、それが無前提の目的と化してしまうことだけは、アカデミックな組織にとって避けねばならぬでしょう。
東京大学を部外者に提示するにあたり、その組織的な特徴から説明し始めるのも、そうしたペシミスティックな諦念の一つにほかならないかもしれません。例えば、十の学部、十二の大学院研究科、十一の附置研究所からなる東京大学は、本郷と駒場に続いて三つ目のキャンパスを千葉県の柏市に持つことになり、そこに移転する物性研究所の第一期工事の完成も間近かに迫っております。また、その他の附属施設は、北海道から奄美大島まで、日本各地に散在しており、三千トン級の研究船が外洋でたえず観測活動を行い、南米のボリヴィアの高山やハワイ沖の深海にまで観測装置を設置し、岐阜山中の地下千メートルには五万トンの水をたたえた観測施設が稼働しており、スイスとフランスにまたがるアルプス山中の地下深くに設けられた国際的な研究施設にもたえず十数人の研究者を派遣しており、その教育と研究は、文字通り二十四時間休みなく行われております。また、世界の百六十ほどの大学と交流協定を結び、それにもとづいて研究者や学生の交換を頻繁に行い、国際的な共同研究のための集会やシンポジウムは、それぞれの学部や研究所でほとんど毎日行われています。
だが、こうした説明を続けてゆくとき、わたくしは、一般論の地平からいささかも離陸できない自分にいらだちを覚えずにはいられません。その説明は、二千人の外国人学生を含めた約二万七千人の学生数からいっても、七千五百人を越す教職員の数からみても、日本の国立大学の中で最大規模の大学であることは間違いありませんというかたちで、数字に触れざるをえないからです。また、その沿革をたどりながら説明を始めるときも、大学の質を語ろうとする場合には、ある種のぺシミズムに支配された身振りとならざるをえません。昨年、創立百二十周年を祝った東京大学が、日本で最も古い国立大学であることも確かな事実でありますと話を進めてみても、他大学に対して、その歴史の相対的な長さを誇るにとどまり、「量的な差異」という概念から逃れることはできないからであります。
とはいえ、わたくしは、新たに東京大学の構成員となられたあなた方に、一般性の領域で比較可能な「量的な差異」をいっさい無視せよと誘っているのではありません。すべからく質の優位を確立すべく、量を犠牲にせよといいたいのでもありません。数値の計測は、あくまで精緻に行われるべきですし、そこから引き出される成果には充分な意味があります。それにふさわしい文脈の形成能力と、意味解読の資質を欠落させていたのでは、研究はおろか、日々の生活さえ満足に行えないからです。そこで発揮さるべき分析や総合の能力を軽視することには、いかなる意味もありはしません。だが、それとは異なる領域に、「質的な差異」を顕在化せしめるできごとがまぎれもなく生起するのだという事実にも、充分自覚的である必要があります。それは、いつ、どこで、どのような状態としてあなた方を訪れるのか、予測不能の出会いなのであり、それゆえに、深い「驚き」をもたらさずにはおかないのです。そこでは、知識の累進性や蓄積された情報だけでは超えがたい壁に突きあたらずにはおきません。そうした「驚き」に拮抗しうるのは、まさに、知性だけなのです。
あなた方がその一員となられたことに自信を持っていただくに充分なほど、東京大学の国際的な評価は上昇しつづけており、外国の大学との交流もますます盛んになっております。それは、真の知性が問われる他人たちとの葛藤が、より現実的なものとなり始めていることを意味しています。他人との葛藤をみずからの責任でくぐりぬけるしかないこの苛酷さを、わたくしは闘争と呼びました。そこで、安心感の共有ではなく、「驚き」の生産に加担せよとも申しました。あなた方には、そうした可能性が恵まれていると確信しております。その期待が、あなた方の期待と「幸福な」出会いを演じることを祈りつつ、式辞を終わらせていただきます。
(学内広報No.1124より抜粋)
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