藤岡信勝 (ふじおか・のぶかつ)
昭和18年北海道生まれ。北海道大学教育学部卒。同大学大学院教育学研究科博士課程単位取得。名寄女子短期大学講師、北海道教育大学釧路分校助教授、東京大学教育学部助教授を経て、平成3年より東京大学教育学部学校教育開発学コース教授に。平成7年自由主義史観研究会を組織し、季刊雑誌『「近現代史」の授業改革』(明治図書)を創刊。「新しい歴史教科書をつくる会」の代表的メンバーとしても活躍。著書は『汚辱の近現代史』(徳間書店)『「自虐史観」の病理』(文藝春秋)、共著に『国民の油断』(PHP研究所)、編著に『教科書が教えない歴史@ABC』(扶桑社)がある。 |
「こころの教育」を考えるうえで、よく指摘されるのが日本の戦後教育の失敗である。それでは、果たして戦後教育の欠陥はどこにあったのだろうか。それを知り、補完・改良するところから新時代の教育が始まると言っていいだろう。心の教育特集第一弾として、失われた日本人の心≠取り戻すため、第一線で活躍されている本学教育学部教授、藤岡信勝先生に話を聞いた。
これは非常に難しい問題で、私も確定的なことは言えません。私も毎日思い悩んでいるというのが正直なところです。ただ、戦後教育の問題と関わらせて言えば、次のようなことが言えると思います。
まず人間の本質は善か悪かと言えば、これは善であると定義することもできないし、また悪であるとも言えないと思います。人間というものを一面的に決めつけてしまってはいけないのです。戦後教育はそれを暗黙のうちにやってきたのではないかと思います。
人間は動物とまったくイコールではありませんが、動物と同じような攻撃性も持っています。それが成長の過程で社会化され、人格の中に統合されることで、別な活動のエネルギーとして再組織される。社会的に見て有益なものとして組み替えられていくプロセスがあるのです。ところがその関係を逆転させてしまい、人間は本来善なるものであるという思い込みをする傾向が強かったのではないでしょうか。子供は生まれながらにして純粋無垢の存在であって、なるべくそれを捻じ曲げないようにしなければならない。そのために外から強引に力を加えてはならない。あるいは、子供の自発性や地位というものを最大限尊重することが大事だ。子供の自然性というものを活かして、頭から規範を教え込まないというのがいいんだ、と。そういう思想が教育界の主流のようになっていました。
それが全部間違っていたとは思いませんが、バランスを著しく欠いた形で、子供の人権とか自発性というものを崇拝する。そういう風潮が戦後の教育界や日本社会にはあったのではないかと思います。つまり、人間が潜在的な可能性として、巨大な悪をなしうる能力やエネルギーを秘めているということに対するリアルな認識が欠けていたのだと思います。そしてどこかで目をふさいで対処してきたのです。
それで対処できているうちは良かったのですが、対処しきれない全く新種のものが現れたときが問題です。ウィルスと同じです。社会としては対抗手段を持っているにも関わらず、いざというときにそれを作動させられないような社会になってしまったのです。
だから心の教育と言っても、子供は本来善なる存在であるという仮定から出発している限り、処方箋として効力を発するのは難しいと思います。
最近十九才の少年が幼稚園に出かける途中の親子を襲って、幼児を死亡させるという事件が起こりましたが、それを『新潮45』が実名報道しました。そうしたらそれは少年法に違反する行為だということで、弁護士が六十人ほど名前を連ねて告訴するということがありました。このように、被害者の人権を全く無視して、加害者の人権のみを尊重する、こういう思想がいまだ法曹界を跋扈しているのです。アメリカなんかではもっと年齢が若かったとしても実名報道します。それが二十歳にわずか何か月足りなかったというだけで、そのような反応をしているのです。ここに私は日本社会の歪みを感じてなりません。
中学校の先生から現場の状況を聞いてみると、子供は教師が手を挙げられないということをよく知っているらしいのです。知っていてやっているのです。それを知らないで子供は善なる存在で純真だ。子供の心を分かってやらなければならないという教育論をかざしている。その欺瞞性というのははっきりしています。これは、はっきり言って教師に対するいじめです。それを家庭や地域社会、教育委員会まで放置しているのです。今まで教師の側に立って考える勢力がどこにもありませんでした。日本社会は最も基本となる規範意識を取り戻さなければなりません。
教師が子供を指導するのは、何も教師に特別な能力があるからではありません。ある特定の分野において、生徒の方が教師より秀でた能力を持っているということはざらにあります。教師が生徒よりも能力が高いから、人格的に教師が特別な存在であるから服さなければならないのではなく、教師はその背後に社会というものを背負っているのです。
社会はいまだ未熟な子供たちを、社会の一員として全うに育て上げる責任を負っています。教師はその社会の代表として子供の前に立っているのです。だから子供たちは教師に従わなければならないのです。そしてこのことを、親もしっかりと子供たちに教えなければならないのです。
ところがそれを勘違いして、マスコミと親が一体となって教師批判をしてきたのです。教師の悪口を言う、教師の権威を否定するということをやってきてしまったのです。その間違いに気付かない限り、学校の陥っている状況を治す道はないと思います。親や社会全体が気付かなければならない問題なのです。
まったくその通りです。何でも学校の責任にする風潮はおかしいのです。学校にできることは当然限られています。それなのに、責任は無限に学校に押し付け、権限は無限に奪い去るという矛盾したことをしているのです。自分で自分の首を締めているようなものです。
今は日本が持っていた社会の美風というのが急速に失われつつあります。その中で子供も苦しんでいるのです。はっきり自分に要求を突き付けてくれる大人がいない。どうやって自己コントロールの方法を学ぶのか。学ぶ手がかりがありません。モデルとする大人がいません。子供は成長過程にあるのですから、はっきり要求を突き付けられる中で成長していくのです。自由、自由と言っても、制約のない自由はありません。
また、今は親と子供が同質化してしまっています。お友達になってしまっているのです。親として子供に対するけじめがなくなっています。
これはある知識領域としての歴史があって、その分野に問題があるから直そうというだけの問題ではありません。今まで話してきたことと根本は同じです。アイデンティティー・クライシス≠ノ日本人全体が陥っているのです。そしてその原因ははっきりしています。日本人が戦後自国の歴史を奪われたからです。
歴史というのは必ずどこかの国の国民の視点からしか語ることができません。それを戦後日本人は勘違いして、日本の伝統とか、アイデンティティーとかいったものを無くすことが国際化であり、地球市民になることだと思ってしまっている。自分の国を愛せず、自分の国に誇りを持てない国民が、どうして他の国をまともに尊敬の念をもって扱うことができるでしょうか。自分の国の国旗に敬意を払い、国歌を歌うということは世界の標準、常識です。その常識を逸脱することがあたかも立派なことであると思い込んでしまった。実は逆なのです。
国際化するということは、国民としての、国家としてのアイデンティティーを取り戻すことなのです。そしてそのためにはまず、自虐的な歴史教育を根本から改良しなければならないのです。それが日本社会全体の健全な再建につながっていくと私は考えています。
私が今、歴史教育の改革に力を注いでいるのも、それを通じての日本社会全体の再建を目的としているのです。