惑星科学のすすめ

米国ブラウン大学 惑星地質 上級研究員

 廣井 孝弘

 ここ10年くらいにかけて、日本では惑星科学関係の学科が増えたり、宇宙飛行士達が宇宙での活動をしたり、月・火星・小惑星などに探査機を送るなどという、日本史上始まって以来の惑星科学ブームにありました。この期間に日本の惑星科学は飛躍的発展を遂げ、惑星科学で世界のトップを行くアメリカの水準に近づいて来たと思われます。
 筆者は東京大学基礎科学科で相対性理論・量子力学・太陽系生成論・結晶学などを学び、大学院では隕石の鉱物学と分光学を手掛け、小惑星の鉱物組成と起源について研究して来ました。8年以上前にアメリカに渡ってからは、ブラウン大学やNASAジョンソン宇宙センターで、小惑星と隕石との深い関連性の研究や、その手段となる惑星表砂の反射分光理論などを極め、現在はブラウン大学で研究する傍ら、日本の月ミッションにおける分光カメラの計画やNASAの研究者との共同研究にも貢献しています。
 この連載では、学生の皆さんに惑星科学の一端を紹介してそのおもしろさを知ってもらう一方で、アメリカの惑星科学と比較して日本の惑星科学界に存在する問題点にも触れることによって、研究者の皆さんには日本の惑星科学の将来に対して良く考え直す機会としてみたいと思います。大体の内容としては以下のように予定しています。

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1.惑星科学とは何か?

 惑星科学は色々な惑星について研究することを主としますが、結局もっとも面白く重要な惑星は、我々の地球です。その事も考慮しながら、惑星科学の目的について考える題材として、現在の惑星科学の諸研究分野をざっと振り返ってみて、天文学や地球科学との関係に触れます。惑星科学の未来についても考えてみたいと思います。

2.太陽系生成論の歴史

 太陽系の惑星群の起源を物理的・力学的に取り組んできた太陽系生成論の歴史について簡単に述べ、その現状と問題点から、より実際の惑星の観察や物質の研究に基づいた、より化学的・鉱物学的な太陽系生成論への転換の必要性を説きます。

3.1969年:惑星科学の夜明け

 惑星科学で非常に重要な出来事が多く起こった1969年について解説します。3つの出来事を簡単に列挙すると、アポロ11号による月資料の回収、南極隕石の発見、アエンデ隕石の落下です。特に南極隕石の発見は日本によってなされました。

4.隕石と小惑星の謎

 大部分の隕石は小惑星から来たと考えられ、太陽系の起源の秘密を解く鍵と信じられていますが、各々の隕石がどこの小惑星から来たのか、隕石が本当に小惑星帯の物質を平均的にサンプリングしているのか、望遠鏡による小惑星の組成研究がどれだけ信用できるのかなどの問題がまだ多くあります。特に、隕石の90%以上を占める普通コンドライトが小惑星帯に少ないように見えることと、小惑星帯に多いS型小惑星物質が隕石中に少ないことが、歴史的に大きな問題となっており、ここではその答えを模索します。このテーマは筆者の専門分野であるので、やや長く数回に渡るかもしれません。

5.地球・月・火星と人類の起源と未来

 地球は非常に特殊な惑星であり、その月の大きさと力学的・鉱物学的特性も特殊である。そして火星は、月や小惑星と同じく、火星隕石として物質研究が出来る対象であり、小惑星帯に隣接する重要な惑星でもある。近年、火星隕石中にバクテリアの化石を見つけたというNASAの研究者の報告などにより、生命の起源と惑星科学が注目を浴びた。惑星科学から見た地球人類の起源について、筆者なりのユニークな解説を試みたい。NASAや日本の惑星探査ミッションも含めて月と火星に進出する人類の未来についても思いを馳せてみたい。

6.日本の惑星科学の将来

 筆者個人の経験と考えに基づく日本の惑星科学界の現状と将来の方向性についての随筆。
お楽しみに。(第1回は9月5日号掲載予定)

 (昭和63年大学院理学系研究科博士課程修了)


■ 評 伝 ■

日韓友好親善の架け橋(上)
―金山政英氏の軌跡と業績

バチカン在勤時代

 人助けを惜しまず、晩年は日韓の友好親善に身を捧げた―それが外交官・金山政英氏の生き方だった。そんな人生を歩んだ金山氏が昨年11月、肺炎のためこの世を去った。享年88歳だった。
 金山氏は1934年3月に東京大学法学部を卒業後、外務省に入省。フランスの日本大使館勤務などを経て、1941年2月、イタリアの日本大使館に着任。1952年7月に外務省本省に戻るまで、11年間バチカンに在勤した。この間、ローマ法王を通じて終戦工作に努めたり、イタリアを訪問する日本の財界人があれば、手厚く遇するなど、人と平和のために尽くした。戦中、戦後を通じて、イタリアを訪ねた数千人が金山氏の世話になったといわれる。

フィリピン在勤時代

 1952年9月、対日感情の険悪だったフィリピンに、マニラ在外事務所参事官として赴任した。マニラに程近いモンテンルパ刑務所には終戦から7年たった当時も、日本人捕虜100人以上が収容されていた。金山氏は毎週、刑務所を訪れては捕虜を慰め、いさかいがあればそれをなだめた。
 ある時、歌手の渡辺はま子さんが刑務所を慰問することになった。だが、フィリピン政府は当初、入国許可を出さなかった。渡航許可申請書に「渡航目的「戦犯」慰問」と明記してあったからだ。しかし、金山氏らの努力によって渡辺さんの入国が許可され、慰問が実現した。渡辺はま子さんはその時の様子を、自叙伝『あゝ忘られぬ胡弓の音』(戦誌刊行会)の中でこう書いている。
 「私は習い覚えた比島の歌、ビトウィンマサキット(輝く星)を歌った。比島人の女の看守が入ってきて私といっしょに歌った。皆も大喜びだった。最後に『モンテン』の歌の大合唱になったが、刑死された戦友を思い、声にならなかった。(中略)故国の安泰を祈り、いつの日か無事に帰れる事を祈りつつ皆泣いていた」
 日本人が捕虜を慰めただけでなく、金山氏は彼らを釈放するためにも力を尽くした。奇しくもバチカン在勤時代の知己・バニョッチ師が法王大使として同国に駐在中だった。金山氏は同大使の協力を得てキリノ大統領(当時)に捕虜の釈放を嘆願、金山氏の努力が実り、捕虜は全員釈放された。
 金山氏にとって法王大使の助けを得られたのは幸運だった。なぜなら、カトリックの国フィリピンにおいては、ローマ法王大使の影響力はきわめて大きいからである。

韓国在勤時代

 1968年6月、金山氏は駐韓日本大使に就任した。韓国に赴任して最初にぶつかった難題が、3・1独立記念式典に出席するかどうかだった。記念式辞ではいつも、日帝時代の悪政が糾弾されていた。出席すれば災難に遭ったり、罵倒されるかもしれなかった。だが、金山氏は駐韓大使として初めて出席した。金山氏はその時の心境を随筆「玄界灘のかけ橋」(「親和」誌1972年4月号)の中でこう書いている。
 「過去、日本官憲が犯したことは不幸にして悪いことであるに違いない。けれどもそれは過ぎ去ったことである。過去の過ちを悔い、これを越えて新しい善隣関係を打ちたてていかなければならない日本大使が、いつまでも韓国民の感情を刺激するのをおそれて3・1節記念式に出席しないならば、韓国政府や国民は、これをどのように受けとるだろうか」
 金山氏はこのように考えて、独立記念式典に出席した。しかし、意外にも韓国の人たちは金山氏の出席を歓迎したのである。それだけでなく、記念式辞では日帝時代の悪政に言及されることもなかった。金山氏は前掲の随筆の中で「国を奪われた時期に、国の内外で祖国独立のために命を捧げた愛国独立の志士の意志をたたえることは、あまりにも当然のことである。私は自分がその時、韓国のこの意義深い記念式に出席したのは、ほんとうによかった」と書いている。金山氏は日韓関係史上に新しい地歩を築いたといえるだろう。       (つづく)

 (日韓文化交流協会広報室長 浜中敏幸)