ビッグOB スペシャルインタビュー |
目前に迫る21世紀。この新世紀を担う東大生は学生時代をどのように過ごすべきか。今回は、凸版印刷株式会社代表取締役社長の藤田弘道氏に、東大時代の思い出などと合わせて、国際化時代における日本経済の課題と展望、そして次代を担う東大生へのメッセージを語ってもらった。
しっかりとした人生観を持て |
昭和25年に経済学部に入学し、28年に卒業しました。これといった思い出はないですね。生活に追われて大変な時代でしたから。
藤田 弘道 氏 |
大命題は「国際競争力」をいかにつけてゆくか、ということだと思います。「潜在生産能力」の伸びが日本は低下しつつあるから、その伸びを回復して国際競争力をつけることが必要です。そのためのキーワードとしては、まず「経済構造改革」が挙げられるでしょう。たとえば、日本経済のなかには、まだ色々な規制が存在しています。公の規制もあるし、自主的な規制や慣行があります。これらの規制を緩和したり、撤廃し、経済構造改革を遂行してゆかなければなりません。言い古されてはいますが、機会の平等や自己責任、情報開示、ルール遵守などを大原則として、自由競争に基づいた市場のメカニズムをつくりあげていくということが求められています。
二つ目としては、金融システムを改革していかなければなりません。特に現状からしてみると、中小企業や、新規の企業を起こそうする人たちに対して、資金調達を十分にしてあげられるような仕組みやパイプづくりが必要かと思います。
三番目としては、日本的な企業システムを改革してゆかねばなりません。日本の企業は、戦後ずっと続いてきた株式の持ち合いやメインバンク制度などに守られて育ってきました。また、終身雇用や年功序列型賃金、企業内組合といった、従来からのシステムもやはり変えてゆかざるを得ないでしょう。
――東大生に対して、こういう勉強をしておいてほしいとか、このように変わってほしいとか、要望はございますか?
毎年、大卒が我が社にも入ってきます。新入社員に対して望むことは、私自身の反省も込めていえば、国際人になれということです。国際人というのは、平凡な言葉で言えば、国際的な感覚を持った人間です。具体的に言えば、英語ぐらいはマスターしてペラペラしゃべれるようになっていないと困るよ、ということです。それから、自分が何をやりたいのか、将来どういう仕事に就きたいのかということを含め、学生生活の中でしっかりとした信念を持ってもらいたい。あるいは、学生時代にピシッとその方向を決めて、そのことに自信を持つようにしてほしいですね。
よく言うのですが、会社は自己実現する場であって、会社人間になるために会社に入るのではない、ということなんです。自分のやりたい仕事を会社という場で実現する、そういう意識で会社に入っていただきたい。
最近会社に入ってくる学生を見ていると、何かサムライというか、型破りな人間があまりいません。東大生に望むのは、こういう仕事がやりたい、とはっきり目標を持つこと。それから起業家精神を持った学生になってもらいたいということです。優等生でバランスがとれたお利口さんの学生を企業はあまり求めていないんです。ちょっとアンバランスだけど、ある分野では猛烈に優れた面を持っている、そういう個性のある学生を企業としては求めていると思いますね。小さく固まってしまった学生よりも、アンバランスだけど個性があって、叩けば非常に伸びる学生の方が企業側の期待は大きい。それと、もう一つは、しっかりした人生観なり、社会観なりを持った人間を企業としては望んでいるということです。
――最近、教養学部でも万引きやカンニングやゴミのポイ捨てがひどく、学部長が嘆いているのですが、どうすればしっかりした人生観や社会観を身につけていけるとお考えですか?
要するに、駒場時代、教養学部時代というのは、学校の勉強はあまりしなくとも、好きな本を読んだり、友達とダベッたり、先輩からしごかれたり、人生というものを考える、駒場はそういう時期だと思ってもよいのではないでしょうか。
――駒場時代に何をしていいかわからないんでしょうね。進振りもあるし、有効に2年間を過ごしている人が少ないように思うのですが…。
それと、人の輪の大きい人間、友達関係が多い人間になってくれることを望みます。二、三人だけの友人関係で学生時代を送るのではなく、サークル活動などを通じて人の輪の豊富な学生になってほしいですね。要するに、東大という狭い輪の中に閉じこもるのではなく、別の人種と刺激し合うことが大事ですね。社会人になって、学生時代に培った人の輪の重要性がますますわかるようになると思います。
結論的に言えば、子供の頃から受験勉強に明け暮れてきたわけですから、大学の四年間で人間的にゆたかになってもらいたですね。受験勉強の延長線上で大学時代を過ごしてもらいたくない。その受験という殻を破って人間的にゆたかな学生生活を送ってもらえれば、先輩として大変うれしいですね。社会人になったときに、それが大変プラスになると確信しています。
(談)
(ふじた・ひろみち) 昭和3(1928)年3月21日、静岡県生まれ。 昭和28年東京大学経済学部卒。同年、凸版印刷株式会社入社。昭和55年に取締役就任。昭和60年常務、昭和62年専務、平成元年副社長を経て、平成3年6月社長に就任。平成7年財団法人日本印刷産業連合会会長となる。
【凸版印刷株式会社】 |
歴史は語る(25) |
朱舜水記念碑 |
弥生の農学部キャンパスの正門を入ってすぐ左、茂みの中にひっそりと立っているのが、朱舜水記念碑である。この記念碑は東京都指定旧跡にもなっている。
朱舜水は日本に亡命した中国明末の遺臣で、明の万暦28年(1600)10月12日、浙江省餘姚に生まれた。名は之瑜、字は魯 、号は舜水。朱永祐、張肯堂、呉鐘巒について学び、特に詩書に通じていた。舜水は祖国明朝の復興運動に挺身したが果たせず、万冶2年(1659)7度目の長崎来訪にあたり、安東省庵の懇請により日本に留まった。寛文5年(1665)小宅生順の推挙で水戸藩に招かれて東上した。そして同8年、徳川光圀の別荘(現在の東京大学農学部)に入り、以後の生涯をこの地で過ごした。
彼の学風は、陽明学と朱子学との中間に位置する実学で、空論を避け、道理を重んじ、徳川光圀や安積澹泊、林鳳岡、木下順庵らに大きな影響を与えた。天和2年(1682)4月17日83歳で没し、常陸太田の瑞竜山に葬られた。死後『朱舜水先生文集』28巻が徳川光圀輯・徳川綱条校として刊行された。
この記念碑は日本渡来250年祭にあたり、朱舜水記念会が建てたものである。