三国志漫話

相手に応じた策略
敵の心理を巧みに利用

戦場での"小細工"が冴える

 孔明は三国時代のもっとも卓越した軍事家である。呉の周瑜の言葉を借りれば、「鬼神のわざを使いこなし、人間にはかなわない」人物であった。
 孔明の本当の才能は戦場での"小細工"である。相手の心理を読み、それをうまく使い、策略を施す。大きく分けると孔明の策略にはいくつかのパターンがある。
 無鉄砲な相手に対しては、怒らせ、焦らせ、落とし穴に誘ってしまう戦い方を使う。孔明の初陣―博望坡の戦いで火攻めで夏侯惇をやぶったのはその代表例である。夏侯惇を狭い森道に誘い火攻めで攻撃する。祁山の戦いで、張 を山峡に誘い、矢と火薬で射殺した。もっともこの計略を多用したのは孟獲との戦いである。孟獲は南蛮の勇将であるが、気短で小細工に弱い。その短所をうまく生かし7度も生け取ったのである。

知将に対しては疑心を利用

 相手が賢い知将の場合にはその疑い深さを逆用して、真相(本当の姿)と仮相(偽の姿)を混ぜ合わせて惑わす。一旦隙があったら、すぐ叩き込んで勝利を収める。仮相を真相に見せる戦いがもっとも多く、霧を活かして曹操から10万の矢を騙し取ったり、祁山で神を装って司馬懿を騙し兵糧を手に入れたり、最後に死んだ後も木偶の像で司馬懿を驚かし部下の安全撤退をもたらした(注1)。
 逆に真相を仮相に思わせた戦いもいくつかある。一番有名なのは「空城の計」である。街亭の敗戦で全滅の危機に陷ったが、しかしこの時孔明は冷静に本当の姿をみせ、司馬懿は逆にそれに驚いて、引いてしまった。
 また、赤壁の戦いでも、このような場面があった。曹操は船を焼失し、江陵(南荊州)に亡命する。そこで、広い道と狭い道(華容道)があった。孔明の指示を受けた関羽は華容道にけむりを出し、人気を見せながら、兵を伏した。曹操は華容道のけむりを見ると、静かな広い道を不気味に感じ、かえってけむりの方を偽装と思い込み、華容道を選択した。孔明の読み勝ちであった(注2)。

強敵は間接的に弱みを攻撃

 時には何の計にも乗ってくれない強敵に出会うと、間接的にその弱みを責めることもある。北伐の際、最大のライバルは司馬懿であった。そこで魏主に謀反の流言を流し、彼を追放させたのである。また、冀城の姜維にてこずった時は、その母親がいる城を攻め、姜維をそちらに行かせ、その間に冀城を落とした。陳倉の 昭を攻める時には、彼が病気の機に城外から偽兵を作り、城を攻め取ったように声を上げ、それを見た 昭は城が落とされたと思い、病死したのであった。

戦争のための様々な武器開発

 また、戦争を有利に展開するために、孔明はいろんな武器を開発した。城攻め用の武器には「井闌」を開発した。それまでは「雲梯」という長い梯子が多用されていたが、城攻めには下から攻撃するのが明らかに不利で、しかも梯子が倒されやすい。孔明はそれを井戸枠形に改良したのである(小説の中では陳倉の攻防戦で使われたが、 昭の火攻めで破られた)。
 孔明は、弓を革命的に改造し、連弩と呼ばれる強力な武器を発明した。形は近代西洋のボーガンに酷似し、それまでの弓と比べると、命中率が著しく高くなり、しかも同時に数本の矢を打つことが可能となった(小説では10本と書かれている)。姜維2回目の北伐で司馬昭に大敗を喫した際、その弓のお陰で漢中を守ったのである。
 直接戦争と関係ないが、「孔明灯」と呼ばれるトリップな灯が孔明によって発明された。孔明灯は軽い紙風船に小さいろうそくが入れてあり、ろうそくを燃やすと紙風船の中の空気が膨張し、比重は小さくなり、空中に浮かぶことができる。現代では熱風船をみて、当たり前と思うが、当時ではまさに神業であった。小説では直接は出てこないが、4回目の北伐で、神を装ったときは多分使われていたのではないかと思われる。
 木牛流馬は孔明の傑作である。木牛とは三輪車のようなもので、流馬は一輪車である。蜀の山道をとおって兵糧を運ぶのは至難である。平地では馬や牛を使えるが、山道では動物も歩きにくく、すぐに疲れてしまう。足を滑らせると棧道(次回詳しく述べる)から落ちる事件もたびたび発生する。孔明は人力車である木牛流馬を使用させ、これによって兵糧の輸送はかなり良くなった。
 しかしこのような天才の孔明はなぜ天下を取れなかったのか? 次回「孔明の失敗」をご期待ください。
(注1)このエピソードはフィクションであり、正史には書かれていない。
(注2)関羽に出会った曹操は旧情を持ち出し、関羽に見逃してもらった。