東京大学コレクション展

「博士の肖像」開催中

 今、本学総合研究博物館では、東京大学コレクション展「博士の肖像」が開催されている。本学にはキャンパスのいたる所に、かつて本学で教鞭をとった教授たちの肖像彫刻や肖像画が飾られている。しかし、その多くは学部の教室などにあり、一般の眼に触れることはほとんどない。また、屋外に置かれている肖像彫刻も説明のないものが多く、モデルとなった人物がどういう人物であったのかはほとんど知られていなかった。しかし今回、展示会に先駆けて行われた本学総合研究博物館の独自の調査によって、およそ100点の肖像画と80点の肖像彫刻の所在、作者、制作年、肖像の人物の詳細が明らかになった。また、その中に明治期から昭和期にかけて第一線で活躍した画家や彫刻家の手からなる作品も多く含まれていることもわかった。ここでは、その展示会の様子を紹介する。

展示会の入り口
博士とは

 明治政府は1869年に大学校(半年後に大学)を開き、博士(はかせ)という官職をおいた。博士は、生徒の教授、国史編纂、洋書の翻訳、病院や医療関係をつかさどる役職で、大・中・少の3種類に分かれていた。
 大学といい博士といい、古代の律令制にモデルがあった。王政復古を標榜した新政府にとっては当然の発想であった。701年に制定された大宝令は、大学寮に官吏養成の最高教育機関として大学を設置し、博士1人、助教授2人が学生(がくしょう)400人に明経を教えることとしていたからである。
 1887年になって学位令が出され、博士は職名ではなく、現在のような学位に変わった。前年に帝国大学が創立され、大学院の修了者、または学術上の功績顕著な者に、文部大臣より博士学位を与えることになった。こちらは博士(はくし)と読ませた。
 博士は法学・医学・工学・文学・理学の5種類からなり、1888年5月に25人、6月にさらに25人が選ばれ、わずかひと月のうちに50人の博士が誕生した。

肖像の居場所

 医学部附属病院の内科講堂は、41人の肖像が壁一面を埋め尽くして壮観である。内科学教室の歴代教授たちの肖像である。
 彼らが歴代であることを、いいかえれば、教室や学科の歴史をきちんと伝承している組織が、このように肖像を守り伝えてきた。そこではかならず起源が明らかにされ、今日に至るまでの系譜が整理されている。
 ところが、組織の改革や統廃合は、しばしば部屋の引っ越しや改造、建物の改築を伴う。この時に、肖像は危機にさらされる。屋外に設置された肖像彫刻も見かけほどには安泰ではなく、理学部のダイヴァース像のように、何度も引っ越しを繰り返した例がある。
 贈与から時間が過ぎるにつれ、肖像は、そこに込められた「八十ノ寿ヲ祝シ」とか「感謝ノ意ヲ表シ」という意味を失ってゆく。記念品であるという性格が希薄になれば、もともと実用性に欠けるのだから、単なる物品に近づくほかない。
 肖像が、引っ越しのあとにも居場所を保障されるか否かは、まさに組織の歴史的な記憶がうまく継承されるか否かにかかっている。まず、その歴史上の人物として、像主の名が伝わっていなければならない。そして、その歴史に自分たちも帰属していると考える人々が、肖像を守るためには不可欠である。

肖像の作者たち

朝倉文夫作 「加藤弘之像」
 1910年代に入ると、肖像が目立って多く作られるようになる。その理由は1886年の帝国大学発足とともに教授となった者たちが、この時期に、つぎつぎと在職25周年を迎えることになったからである。たとえば、医学部衛生学教室の初代教授緒方正規の祝賀会は、1910年に植物園内で盛大に催され、その式場の正面を肖像画が飾った。
 一方、肖像画や肖像彫刻を供給する側の事情を探ると、1910年代は、1907年に創設された年1度の文部省美術展覧会(文展)が軌道に乗り、これを中心に美術教育や市場ジャーナリズムが形成された時期にあたる。
 画家なら黒田清輝、和田英作、藤島武二、岡田三郎助、満谷国四郎、和田三造、伊原宇三郎、寺内萬治郎、白瀧幾之助、彫刻家なら新海竹太郎、朝倉文夫、堀進二、武石弘三郎など、本学の肖像はほとんどすべてが、文展を活動の場とした美術家たちの手になるものであった。
 とりわけ、和田英作の「小金井良精像」(今回未出品)は第5回文展、朝倉文夫の「加藤弘之像」は第10回文展、白瀧幾之助の「的場中像」は第2回帝展(文展の後身)の出品作である。

肖像は誰のものか

 肖像が生まれるためには、肖像にされる本人(これを像主という)、肖像を作る作者、作者に制作を命じる注文者、少なくともこの三者が必要である。そして、彼らの名前は、しばしば肖像の本体や、額縁や台座に記される。
 このうち、注文者は「門弟」「僚友門下」「門人一同」「朋僚友学業生」などと記され、教え子たちが師の肖像を作るのだとわかる。
 では、作られた肖像は、そのあとどうなるのか。これも銘文に手がかりがある。加藤弘之像の台座に「此ノ銅像ヲ作製シ以テ先生ニ贈呈ス」と記されたとおり、肖像は教え子から像主本人へと贈られるのである。とすれば、肖像の最初の所有者は像主だということになる。
 肖像は、研究に必要な備品でもなければ、部屋を飾る美術品でもなく、贈呈の時点でその意味を最大限に発揮する物品であるといえる。だからこそ、贈呈式や除幕式が大切にされてきたのである。

人はなぜ肖像を残すのか

 そもそも人はなぜ肖像を残すのか。
 いうまでもなく、本人が目の前にいるかぎり、わざわざ肖像をつくる必要はない。肖像とは本人に似せてつくられる身代わりであり、本人の不在が前提となる。
 そして、不在の最たるものが死である。この世を去っていった人を追慕するために、古来、肖像は連綿とつくられてきた。
 学問の場でも、祖師や先師を追慕するための肖像が必要とされた。大学の歴代教授たちの肖像もまた、この歴史を負っている。
 日本最古の肖像彫刻、奈良唐招提寺の鑑真和上像は、鑑真の没後すぐに、弟子たちによってつくられたといわれている。一方、東京大学最古の彫刻は、医学を教えるために明治初年に来日したドイツ人教師レオポルド・ミュルレルの肖像である。1895年、教え子たちによって、彼の三回忌に建立された。
 肖像制作の事情は、千百余年の時を超えて似ているといわざるをえない。

 『博士の肖像』は東京大学総合博物館(本郷キャンパス赤門入って右進む)で 11月15日まで開催中( 10時〜17時。月曜日休館)。