教育基本法の見直しを

教育の目的は「人格の完成」

 前回、米国では試行錯誤の結果、「人格教育」へと教育のスタイルが変化していると紹介した。実は、昭和22年に施行されたわが国の「教育基本法」に「教育の目的」として「人格」の完成を目指すことがはっきりと示されている。
 「教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたっとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない」。(第一条【教育の目的】)
 ところで、「人格」とは何だろうか。広辞苑には「人がら。人品。道徳的行為の主体としての個人」とある。また、カントによれば、「人格」とは、本能や欲望を抑え「良心の声」に従い、道徳法則を自分に課す「自律的人間」のことである。
 

宗教的情操教育で良心を育てる

 この「人格」を成長・完成させるためには、本能や欲望を抑制する「良心」をどのように育てるかが問題となってくる。
 犯罪心理学の権威である小田晋氏は、子どもに道徳意識を伝えるのに最も効率的な方法として「昔からのキリスト教の家庭や神道の家庭で行ったように、父親が食前の祈りを捧げる姿を子どもに見せること、あるいは毎朝神棚に榊を捧げて拍子を打つ姿をみせること」と説く。こうして子どもは「つねに神様は見ている。悪いことはできない」と植えつけられていくという。
 このように「神仏」を畏怖する心を育てることは、「良心」を育てることにつながる。なぜなら、他人の目を気にしても処世的になり、良心の成長に直結しないこともあるが、神仏に対してはごまかすことができないからである。だから、自分の中の「良心の声」におのずと敏感になっていく。
 つまり、「こころの教育」には「宗教的情操教育」が必要であるといえる。

普遍的価値観の教育も必要

 また、米国で推進されている「人格教育」では、倫理・道徳的価値は個人の主観的な好みの問題ではなく、宗教や文化の差異を超えた客観的・普遍的なものであると主張している。また、その倫理・道徳的価値が宗教的伝統の中にあることを認めながらも、それは人間本性に共通するものだと教えている。そして、たとえば、尊敬、責任、信頼、公正、勤勉、節制、気配り、勇気などの言葉を用いて、それらの道徳的価値を説明している。
 わが国でも、共通する「倫理・道徳的価値」を明示した「こころの教育」を行う必要があるだろう。そのためには、やはり、何が善で何が悪かを明確に指示するアプローチが必要になってくる。
 このように考えてみたとき、「こころの教育」には「宗教的情操教育」と「普遍的価値観教育」の二つの観点が含まれなければならないということがわかる。

教育基本法九条のの解釈問題

 ところが、わが国の学校教育の中で、宗教的情操教育や普遍的価値観教育などが行われにくい大きな理由として、教育基本法の解釈問題がある。
 教育基本法第九条には、@「宗教に関する寛容の態度及び宗教の社会生活における地位は、教育上これを尊重しなければならない」、A「国及び地方公共団体が設置する学校は、特定の宗教のための宗教教育その他宗教的活動をしてはならない」の二項がある。
 第二項を曲解し、宗教一般や宗教的情操教育の禁止を主張する学者もいる。さらには、道徳教育までも反対する者もいる。
 しかし、一方では、第一項を見ても一宗派のための宗教教育でなければ、宗教的情操教育は可能であるし、その必要性は重視されるべきだという学者もいる。
 『教育基本法の成立―「人格の完成」をめぐって』(日本評論社)の著者として知られる武蔵野女子大教授の杉原誠四郎氏は、今年6月に中教審が出した答申の中で「心の教育の在り方」と言いながら、「宗教心」に関することがまともに取り上げられていなかったことに対し、こう批判している。「『宗教心』の問題をまともに取り上げずして『心の教育』の処方箋が書けるのであろうか。書けるはずがない」。オウム事件に関しても、「あれほど高学歴をもちながら信仰を理由にあれほどの反社会的行為をした。世間には、だから宗教は怖いという印象を与えてしまったが、実は教育のなかで宗教のことをまったく教えず、そのために子供たちの心のなかに宗教について無知と飢えという負なる大きな空洞を膨らませていた結果である」(『諸君!』98年9月号148頁)。
 また、元東京都公立中学校校長でベネッセ教育研究所顧問の駒木根文幸氏はこう心配する。「『絶対者との向かい合い』という点で、日本では宗教教育はあまりなされていませんから、欧米やイスラム世界と比較すると、道徳の柱として絶対に動かせないもの、内的価値基準が薄いのではないでしょうか。その意味で『道徳の時間』に教科書を読むだけでは間に合わないという思いがあります」。

宗教に対する東大生の無理解

 確かに、わが国(公立校)では小中高と聖書を学ぶことはおろか仏典を学ぶことすらない。欧米をはじめとする他国では考えられないことである。本学で学ぶ留学生たちが一様に驚くのは、宗教に対する日本人東大生の無理解ぶりだと聞く。
 特定の宗派の教育はいけないとしても、道徳教育やこころの教育の根源として、やはり宗教的なものを軽視することはできない。
 最近の宗教意識調査によれば、意外に現代の学生は宗教や宗教書などに関心がある。今年4月から6月にかけて「宗教と社会」学会プロジェクト(国学院大学日本文化研究所・井上順孝教授)が全国43大学の6千人余りの学生に宗教意識調査を行った。その報告書によれば、特に男子は宗教書や宗教解説書への関心が高い。
 正しい宗教教育を早期から実施していくことを文部省は検討していくべきである。

こころの教育を阻む教育基本法


 戦後の教育の根拠となってきた教育基本法は、敗戦の痛手と混乱の中、しかも被占領下という特殊事情のもとで作られた。それから50年経ち、その内容の曖昧さ、家庭と国家と伝統への配慮の欠如や愛国心の涵養の欠如などが指摘されながらも結局、改正には至っていない。しかし、教育基本法がこころの教育に不可欠な宗教的情操教育の実施を阻んでいる現実に鑑みて、今、同法の根本的な見直しが急務である。
           (つづく)    
                (誠) 

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