加藤弘之初代総長と濱尾新第3,8代総長の孫にあたる
教育評論家 浜尾 実氏(元東宮侍従)
浜尾先輩は、大正十四年六月二十日、加藤弘之を父方の祖父として、浜尾新を母方の祖父として誕生した。兄の名は真で、四人兄弟の次男として生まれた先輩の名は実。兄弟で“真実”となるよう名付けられた。
加藤弘之、浜尾新、両元総長は、同郷(兵庫県)の人で昔からの知り合いだったという。薩長で占められた明治政府にあって、薩長ではない両氏は思想、教育畑で活躍することになる。浜尾家に男の子がいなかったので、浜尾先輩の父が浜尾家の養子となるかたちで、二人の総長の子供が結ばれることになった。
先輩が生まれた時、加藤弘之はもう亡くなっていたので、直接の思い出はない。ただ、ダーウィニズムなどに大きな影響を受け、無神論者、唯物論者として有名な加藤弘之の孫である先輩は、母の影響を受けて熱心なカソリックのクリスチャンだ。先輩も「不思議だね」と笑う。
母方の祖父、浜尾新は、三代、八代目の総長だ。先輩が生まれた大正十四年の秋、庭で落葉焼きをしていたら着物に引火、火傷で亡くなるという不幸な死を遂げた。そのため、浜尾新の直接の思い出もない。浜尾新は、三代目の総長を務めた後、文部大臣となったが、本学を中心として起こった「帝大七博士事件」(別枠参照)収拾のため、再び第八代総長となった。当時の本学総長は、文部大臣と同じくらいの立場だったことを如実に示すエピソードだ。
東宮侍従に 突然の抜擢
浜尾実先輩は昭和十九年、本学に入学。当時の総長は南原繁氏で、そのせいもあってか、「学問の薀奥(うんのう)を極めるという雰囲気が強かった」という。工学部の化学科に進学した先輩は、昭和二十三年に卒業、東洋繊維に就職した。そこから派遣されるかたちで本学農学部大学院へ通い始める。
ところが、「晴天の霹靂のような出来事」が起こった。昭和二十六年、突如、東宮侍従に任命されたのだ。当時十七才、学習院高校二年だった皇太子殿下のお世話役、家庭教師役だ。その理由は、祖父の浜尾新が宮内省(当時)で東宮大夫(東宮職の長)を務めた経験があること、また、微分や積分などを教えられる理系出身の侍従がいなかったことだったという。その後、昭和四十六年まで二十年間、東宮侍従を務めることになる。
昭和三十五年のご聖婚の後は、浩宮、礼宮様の教育を任されるようになる。浩宮様も将来の天皇。しかし、おしりをたたいたりしたこともあるという。「両親が、『厳しくしつけてあげて下さい』とおっしゃるんです」。
東宮侍従として、普通では分からないさまざまな経験をしてきた。例えば、皇太子が動物園を見学された時のエピソード。警察や動物園の人などと前もって入念な打ち合せをする。しかし、その準備は想像以上に大変なものだ。何時何分にこの交差点を通過する、ゾウの見学は何分何十秒、キリンは何分何十秒、という具合だ。
そして当日、まだ小さい皇太子を凄まじい数の報道陣が出迎える。楽しみにしていたゾウの檻の前でも、マスコミがたかって肝心のゾウがまったく見えない。「ゾウはどこにいるの?」と尋ねられる始末。「報道の自由と言いながら、見る自由を奪う。自分の人権を主張するが、他人の人権をないがしろにする。これは、マスコミによく見られる横暴であり、エゴだと思います」と手厳しい。「人間の利己主義の問題は本当に根深い。しかし、自分のやりたいことばかりできる人生ではない。むしろ、人生にはいやなことが多くある。それをいかに迎えていくかが非常に大事だと思います」。
物質主義と利 己主義が問題
これに関連して、今の日本の問題を尋ねると、「“物質主義”、そして、“自分と自分の家族だけ”という利己的発想が非常に強い。これは大きな問題だと思う」という。しかし、もともと日本人は精神的なものを貴ぶ民族であるはずともいう。だから、「今必要なことは、“心を見つめ直す”こと、“相手を大切にする”こと、集約すれば、“愛し合い、許し合う”こと」。
それはまた、弱者に対する思いやりを持つことでもある。この考え方は、弱肉強食を正当化した祖父・加藤弘之とは正反対だ。「最近、骨折して弱い立場に立ったのですが、その時、日本人の思いやりを改めて知りました。横断歩道でもないところでわざわざ車が止まってくれるし、人も手を貸してくれるし。本来、日本人はこういう伝統的精神を持っていると思うんです」。戦争への反省と共に、日本の伝統的精神までも“古い”として葬り去ろうとする傾向が戦後の教育界では強かった。今、その見直しが求められている。
一方、アジアの中での日本を考える時、多くの心情的な問題をいまだ残していることも事実だ。「日本民族は損をしない民族だ」。これがアジアから見た日本人観の一つだという。無償で何かしない、必ず見返りを求めるというのだ。
日本を代表するキリスト者内村鑑三も、キリスト教世界には日本人以上の悪人もいるが、逆に、ただ“与える”ことのみを自らの喜びとし生きがいとしている「善人と呼ぶにふさわしい」人が多くいることを証している。そして、日本の古き良き伝統的精神に、キリスト教の利他的な精神をいわば“接ぎ木”することで、日本人は本当に意味ですばらしい民族に生まれ変われると力説した。
日本ではキリスト教人口が一%に満たない。先進国で唯一の非キリスト教国だ。先輩も、「日本にキリスト教が定着しなかったことと、アジアから見た日本人観とは関連があるだろう」という。逆に、アジアの人々にもまた、「人を許して罪を許さず」というキリスト教的精神が必要ではないかという。
濱尾新が8代目の総長だったときに作られた正門
祈る母の姿 が今も胸に
教育するにあたっては、常に「いい子に育つように」と祈り続けてきたという。これは、母親の影響が大きいそうだ。今でも少年時代の母の姿が思い浮かぶが、それは、自分のために祈ってくれている姿だという。「教育には、実行、実践、すなわち“姿”が必要です。昔から“子は親の背を見て育つ”といういい言葉があるように」。しかし、「今、母が強くなりすぎている。家庭の崩壊が現代の深刻な問題になっている。父を立てる母が必要。そうなれば、子供も父を自然と尊敬するようになる」。主婦対象の講演をすることが多く、よくこういう話をするそうだ。最近、悩める母が非常に多いためだ。
男性・女性の生物学的差異以外のすべての差異を、歴史的・社会的に形成された差別とみなす極端な女性解放の思想からすれば、先輩の考え方は男性中心的発想の典型とも言える。しかし、母としての役割を見失い、悩んでいる女性が多くいるという実情はむしろ、女性解放思想の行き過ぎを戒めていると言えるだろう。
古典から積 極的に学べ
学生に対しては、「学生の第一の義務は勉強、そして、貪欲にいろんなものを吸収してほしい」と強調する。そして、「最近の学生は、貪欲さ、意欲、気力がないようで残念」と、三無主義世代の学生を心配している。
また、古典を読むことをすすめている。「古典は、いいものだから残っている。それは、世界の古典に限らず、日本の明治、大正時代のものも古典。積極的に読んでほしい」。そして何より、聖書を読んだらいいという。「聖書は、単にキリスト教の教典というのみならず、西洋文化のバックボーン。ラファエロもバッハもベートーベンも、シェイクスピアも、みな聖書が作品のバックボーンになっている。それなくして理解不可能」という。
東大らしさ の復興を!
母校東大に対しては非常に愛着がある。それは、アカデミックな雰囲気や、教授、助教授、助手、学生などの親密な関係が良き伝統としてあるからだ。しかし今、こういう“東大らしさ”は薄らいでいるかもしれない。ユニバーシティー・アイデンティティーを見失いつつあるとも言える。それだけに、今の東大に対しては、「頑張ってほしい」という思いだそうだ。
愛校心や愛国心という、人間にとってとても大切なものを改めて見つめさせられたインタビューだった。
(終)<<おわり>>
アリニュマンはメンヒルが直線状に列をなしたもので、列の数、延長距離、立石の大きさなどはさまざまである。イギリス、フランスに多く、インドのハイデラバード付近のゴディに方陣形のものがあったり、インドネシアには四つの立石が四隅にあるものもある。新石器時代から鉄器時代初期のもので、分布は広いがまばらで、ドルメンやストーンサークルに比して例は少ない。
カルナックの アリニュマン
アリニュマンはフランスのカルナックのものが最も有名であり、東西に延々三キロに渡ってメンヒルが並んでいる。それは三群から構成されている。
第一群はメネックと呼ばれる列石群で、一〇九九個の巨石が十一列をなして、平均巾一〇〇メートル、長さ一一六七メートルにわたって延びている。その西端の起点の所には、直径約九〇メートルの七〇個の石でできたストーンサークルがある。立石は西端のものが一番大きく、四メートル程の高さで、次第に小さくなり、最小六〇センチ位になる。
少し東へ行くと、第二群はケルマリオ(死者の場)と呼ばれる列石群で、荒涼とした土地に九八二個の立石が並び、平均巾一〇一メートル、長さ一一二〇メートルにわたって延びている。最大の石の高さは七メートル以上もあり、配列はここでも大きさの順になっている。一・二キロ離れた終点には、列に直角に三個の巨大な石が配置されている。
さらに東に行くと、カルレスカン(燃焼の場)と呼ばれる森で囲まれた第三の列石群がある。ほぼ正方形の石の囲みを起点に、十三列、五四〇個の立石が長さ八八〇メートルにわたって続く。さらに東には、一〇〇個の石からなるプチ・メネックの列石があるが、これはかつてカルレスカンにつながっていたものと考えられる。
これら三群の列石は、およそ二五〇〜四〇〇メートルの間隔をおいてつながっているが、本来一連のものであったらしい。野を越え、森を突き抜けて脈々と走り続ける、奇妙なほどに整然として天を指している列石である。建設時期は、紀元前二五〇〇年頃まで遡ることができるという(日本テレビ「巨石文明の謎」 一九八一 “カルナック”の項参照)。
一つの卵から生 まれた蛇の群れ
ストーンサークルを起点とする三群の長い列石は、図面で見る限り、一つの卵から生まれた沢山の蛇の群れである。G・S・ホーキンズはこの列石を見て、絶対無敵の不吉な軍隊が行進している様を見る感じがしたという。伝説によると、キリスト教徒を迫害していたローマ軍に追われた聖コルネリウスが、生まれ故郷のこの地まで逃げてきて、海によって退路を絶たれた時、彼は振り返りながらローマ兵たちを皆石に変えてしまった。この列石群は、そんなイメージにぴったりしているらしい。カルナックには、キリスト教時代に建てられたサン・ミッシェル(聖ミカエル)の塚がある。彼は終末に蛇なるサタンを捕える天使である。
現在も使われる 石器時代の尺度
オクスフォード大学の工学部教授であったアレクサンダー・トムは、一九七〇〜七五年にカルナックの列石を調査し、これが天文観測、特に月の観測に大きな役割を果たしたと結論している。最も重要なのが既に紹介したロクマリアケの巨石で、他の特別に大きな石や塚とこの巨石を使って、月の出や月の入りの観測ができるという。他の幾何学図形をなす無数の石は巨石図表をなすもので、天文上の計算に使うことができたのであろうという(ウェストウッド 前掲書 三六〜三七頁)。
巨石時代人は、トムが巨石ヤード(megalithic yard)と名付ける同一の尺度で物の長さを測っていた。八二・九センチ(二・七二フィート)に相当し、イギリス国内での狂いは僅か数ミリであるという。ヤードはフランス語でverge、スペイン語でvaraであるが、これは今日スペイン、アメリカのテキサス、カリフォルニア、メキシコでもなお使われ、地域によって多少の差はあるが、平均八四センチで、この値は巨石ヤードと僅か一・一センチの差しかない。石器時代の尺度が何千年もの間ほとんど変わらず、現在まで使われているのである(フェリックス R.パトゥリ「ヨーロッパ先史文明の謎」 佑学社 一八九二)。
NHK(一九九六年三月二十日9:15pm)の青森県三内丸山遺跡のテレビ放映によると、縄文時代には日本全土で四・二メートルを単位とする縄文尺が使われていたという。四・二メートルは、この八四センチの五倍にあたる。縄文時代は蛇信仰の時代であった。日本の縄文時代についてはやがて取り上げるが、縄文尺は明らかに巨石ヤードと関連している。
トム教授はカルナックのル・メネックのストーンサークルとそこに至るアリニュマンを調査して、これらが巨石ヤードの二・五倍の単位である「巨石ロッド」に基づいており、これと同じ単位がエイバリーやストーンヘンジを含む、イギリスの大きなサークルのほとんどに用いられていることを発見した。
幾何学に熟達 した巨石時代人
トム教授によると、サークルは完全な円ではなく、常に卵型をしているという。巨石時代人は、この特定の楕円を描くのに、ある特定の直角三角形を使った。それは整数だけを含んだ、ピタゴラスの三角形として知られる小数の特殊なものだけで、各辺が三:四:五の直角三角形、あるいは五:一二:一三、八:一五:一七、一二:三五:三七などの直角三角形である。これらの整数をサークル内の直線(例えば、半径とか直径)に使って、巨石時代人は円周を整数で仕上げているという。トムは同僚と共にカルナックの列石群を一/五〇〇の縮尺の地図に記入して、それらが巨大な幾何学図形の一部であることを示した。巨石時代人は幾何学に熟達し、自在にこの能力を駆使して、巨石建造物を構築することができたのである。
<<(つづく)>>
|ホームへ戻る|