男子マラソン は残念だった
農学部 Y・Sさん ――夏休みの期間、何か印象に残った出来事は何ですか? 答 オリンピックですね。 ――オリンピックを見て、どんな感想を持ちましたか? 答 マラソンを見ていたのですが、最初日本は頑張って いたのですが、途中でトップ集団から離れてしまって残念でした。 女子マラソンでは、メダルがとれたのですが、男子では、期待して いたのにメダルがとれなくて、本当に残念です。 ――あとは、夏休み何をしていましたか? 答 英語の勉強です。試験もあるので、ちょっとは勉強 しなければならないと思いながらも、なかなかはかどらなくて、大 変でした。 ――図書館とかは行かなかったのですか? 答 そうですね、あまり図書館へはいかず、家で勉強す ることが多かったですね。 ――他に何か印象に残ったことはありますか? 答 とにかく、絶えず何かやっていた、という感じでし た。久しぶりに帰 省しました
理V T・S君 ――夏休みの期間、何か印象に残った出来事は何ですか? 答 そうですね、久しぶりに帰省したことです。最近、 サークルやなんやらでなかなか帰っていなかったので、帰りました。 ――どうでしたか? 答 特に変わったことはなかったですが、あまり帰って いなかったので、申し訳ない気がしましたが。 ――他に何か印象に残っていることはありますか? 答 特にはありませんが、とにかく、これからは勉強が 忙しくなると思います。自己管理能力 が必要ですね
理T S・T君 ――夏休みの期間、何か印象に残ったことは何ですか? 答 そうですね、やはりなんといってもオリンピックで はないでしょうか。 ――オリンピックを見て、どう思いましたか? 答 メダルの数が本当に少ないな、という感じです。体 操は、戦後で初のメダルなし、というではないですか。また、水泳 も、期待された選手がなかなか勝てなくて、結局メダルなしという 結果で、見ていて非常にもどかしいというか、なんとか頑張ってほ しいなあ、と思っていました。 それと、柔道はどうだったのでしょうか。私としては、もう少し メダルが取れたのではないかなあ、と思うのですが、今の日本の実 力ではあのくらいなのでしょうか。 ――どうしたらいいと思いますか? 答 それは良く分かりません。私も陸上をやっていたの ですが、いつもいつもベストの状態にもっていけるわけではないの ですから、いかいに、大会の時に自分をベストの状態にもっていけ るか、ということでしょうか。四百メートルの日本記録保持者の高 野進さんは、自分を上手にコントロールしていて、オリンピックの 時など、本当にベストの状態で望んでいきますよね。競技によって 違いはあるのでしょうが、その辺を学んだらいいのではないかなあ、 と思うのです。自己管理能力というのでしょうか。 ――その他に、何か印象に残ることはありましたか? 答 いや、特にありません。秋休みというのがあります から、その時に、どこか出かけたいと思っています。
一、漢の高祖劉邦とそのブレーン達 不世出の皇帝と 「漢の三傑」
中国全土を覆った反秦勢力は、項羽と劉邦による漢楚(秦が統一の覇業を実現する上で、最大の障壁が、南方の大国楚の存在であった。項羽は、その楚で代々将軍を務めた名門の出である)の戦いに集約され、紀元前二〇二年に項羽を垓下の戦いで破った劉邦は、長安を都として漢帝国を建設し、自ら高祖となった。劉邦は、秦が急激な集権化政策をとって失敗したので、漸進策をとり、郡国制(都の周辺や要地には郡県制をしき、遠隔地には封建制を復活させて一族や功臣を諸候として配置するもの)を採用している。
ところで、劉邦は重臣達を前にして功臣三名の名前を挙げ、次のように述べている。
「夫れ籌策(ちゅうさく)を帷帳(いちょう)の中にめぐらし、勝を千里のほかに決するは、吾、子房(張良)に如かず。国家を鎮め、百姓を撫で、餽饒(きじょう)(食糧)を給し、糧道を絶たざるは、吾、蕭何(しょうか)に如かず。百万の軍を連らね、戦えば必ず勝ち、攻むれば必ず取るは、吾、韓信に如かず。この三者はみな人傑なり。吾よくこれを用う。これ吾の天下を取りし所以なり」(『史記』高祖本紀)。
ここで出てくる張良・蕭何・韓信の三人は、それぞれ不世出の名参謀・名宰相・名将軍として代名詞になるくらいの人物であり、「漢の三傑」と呼ばれている。そして、彼らを用いて漢帝国四百年の基を築いた劉邦は、不世出の皇帝として代名詞になっているのである。では、その三人を詳しく見てみよう。
「太公望の再
来」、名参謀張良
張良は戦国七雄の一つ、韓の名門の生まれであり、祖国を滅ぼした秦の始皇帝を暗殺しようとして失敗し、十年間の潜伏期間に入っている。その時、黄石公という不思議な老人から太公望の兵書『六韜』『三略』を授かり、「これを読めば必ず王者の師となれる。十年後には秦の暴政に立ち向かい、十三年後には済北の穀城山の麓で黄色い石を見るだろう。その石こそわしである。今の姿は仮にすぎん」と告げられるのである。実は、この黄石公は太公望呂尚の臣下の子孫から太公望の兵法の真伝(その核が奇門遁甲とされる)を伝授された人物であり、その真伝を授かった張良は「太公望の再来」と呼ばれる軍師になっていくのである。
ちなみに、東アジア世界では最高の軍師として名高い諸葛亮孔明も、劉備玄徳(彼は漢帝国の血脈を引く人物として歴史の表舞台に踊り出た)に軍師として推挙される際、進言した前任軍師の徐庶は、「彼は、自分の才能を偉大な政治家の管仲や勇将の楽毅に比肩するものと思っておりますが、実際は太公望や張子房(張良)に勝るとも劣らないくらいの奇才です」と、孔明のことを評している。実は太公望の兵法の真伝は、軍師を引退して神仙への道に至った張良から異人(漢民族以外の江南の人)のルートを経て、孔明に伝えられていたのである。
名宰相蕭何と
名将軍韓信
一方、蕭何はもと秦の有能な官吏であったが、劉邦の挙兵に加わり、以後、その実務をとりしきっている。劉邦が秦都咸陽に一番乗りした時には、蕭何は財宝には目もくれず、秦の文書や法令を手に入れており、それが後の漢の天下経営に大きく役立って行くのである。また、韓信を登用するように進言したのも蕭何であった。
さて、韓信ははじめは項羽に従い、しばしば献策したが容れられず、劉邦に帰順した人物である。若い頃の「韓信の股くぐり」のエピソードは有名であるが、劉邦をして「百万もの大軍を自在に指揮して、勝ちをおさめるという点では、わしは韓信にかなわない」と言わしめるに至るのである。
二、東アジア律令史
秦に始まる「古律令」
と唐の「新律令」
さて、ここで蕭何が重んじた秦の律令問題に触れてみよう。
(1)秦の始皇帝が法家の説によって立国し、天下統一の後に施行した律令を漢も継承した。
(2)その律令は大綱を「律」(中心)と言い、条文を「令」(補足)とするものである。
(3)こうした秦・漢の律令は、魏・晋・宋・斉・梁・陳と六朝に継承された。隋朝はこうした律令の先例に注意した上で、自らも律令を制定した。こうした「秦→隋」の時代に制定され、発布されていた律令は「古律令」とでも言うべきものである。
(4)これに対し、唐代に制定されたのが「律令格式」である。
「令=尊卑貴賎の等数、国家の制度(大本)
格=百官有司の常に行うべき事(その補い)
式=その常に守るところの法(さらにその細目)
律=以上三者に触れる者、及び他の♀♀罪ざい戻れい♀♀を犯す者を断ずる規定を記した書」
つまり、「令・格・式」を基本として、その違反者を「律」で裁く体系となっており、「新律令」とでも言うべき体裁になっているのである。ここに、ある意味で現代の近代法の体系にも似た、整然たる一大体系が樹立されたのを見ることができるのである。
「新律令」の影響
を受けた大宝律令
こうした中国の律令史を大観した上で、日本の律令史を見てみると、まず、従来の日本法制史の常識は、「日本の律令の施行は、八世紀初めの大宝律令に始まる。文武天皇の時代である」(その前段階として、七世紀後半の天智天皇の時代の近江令や天武・持統天皇の時代の浄御原律令、さらには七世紀前半の十七条憲法にその道徳的淵源を求めるという議論もある)ということであるが、その大宝律令が唐の「新律令」の濃厚な影響下に成立したことは、よく知られている(そのままの引用・模倣と思われる条目が少なくなく、「律令格式」という概念の立て方も全く同じである)。ところが、「秦→隋」に至る「古律令」に対しては一切無関心で、模倣・受容はしなかったのかという疑問が湧き起ってくるのである。
実際、三世紀に卑弥呼が難升米を洛陽に遣わした時、魏朝は律令国家であった。五世紀に倭の五王が建康(南京)に使者を繰り返し派遣した時、南朝劉宋も律令国家であった。七世紀前半に、国王多利思北孤が国使を煬帝に送った時、隋朝もまた律令国家であった。「親魏倭王」に任ぜられるのを喜びとした卑弥呼にせよ、「一大将軍」号を熱望した倭の五王にせよ、ひたすら中国の制度を敬慕し、その冊封下に参入することを願い続けながら、律令制のみは拒否し、その影響を退けたとは考えられないのである。
ところで、朝鮮半島の場合、『三国史記』によれば、新羅は法興王七年(五二〇)に律令を制定している。また、その高句麗本紀では小獣林王年(三七三)に「始めて律令を頒布する」とあり、新羅に先んじて律令の施行があったようである(これは新羅よりも中国に近いということや、楽浪郡・帯方郡の地理的位置も関係しているであろう)。
「古律令」の影響
を受けた磐井律令
こうした観点をふまえて、「秦→隋」代の「古律令」の日本列島への影響を探してみると、『筑後風土記』にそれが見受けられるのである。
「筑後国の風土記に曰く、上妻の県、県の南二里、筑紫の君、磐井の墓墳有り。高さ七丈、周り六十丈。墓田覇は、南北各六十丈、東西各册丈。石人・石盾、各六十枚。交陣、行を成し、四面に周匝(しうさう)す。東北角に当たり、一別区あり、号して衙頭(がっとう)(大将軍の本営を示す漢語)と曰ふ。@衙頭は政所なり。其の中に一石人あり。縦容として地に立てり。号して解部(ときべ)(裁判官)と曰ふ。前に一人有り。ら形にして地に伏す。号して偸人(とうじん)(盗人を示す漢語)と曰ふ。A猪を偸むを為すを生ず。仍りて罪を決するに擬す。側に石猪四頭あり。贓物(ざふぶつ)(盗んだものを示す漢語)と号す。B贓物は盗み物なり。彼の処にも亦、石馬三疋・石殿三間・石蔵二間あり」
ここには、古墳(磐井の墓)に石像展示場が設けられている状況が描かれているが、それはまさしく「裁判の場」であると言ってよいであろう(現在も、福岡県八女市の岩戸山古墳にその石像物が残っている)。磐井(大和朝廷に対して反乱を起こした九州の豪族というのが従来の定説であるが、先入観と偏見を抜きにした史料批判の結果、浮び上がってくるのはむしろ、「継体の反乱」を受けた九州王朝の王者である)がこうした展示場を設けたのは、裁判の基礎をなすべき法令の制定を施行したことを、「自己の最大の業績」と見なしていたからだと考えられ、さらには、「自己の死後もこの功業を永遠に伝え、それ(法治の立場)を守らせたい」と考えたと思われるのである。いずれにしても、この「磐井律令」には「贓物」「偸人」といった裁判用の術語(法律用語、漢語)が使われており(これらは口頭で交布することは不可能なので、当然、成文法であったと思われる)、中国の「古律令」の影響下に成立したことは間違いないようである。
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