1996年9月5日発行 第690号

声の広場 MY VOICE

夏休みを終えて

大学院の試験 を受けました

教養学部四年    I君  ――テストはあとどのくらい残っていますか?  答 あと二つほど残っています。  ――どんなテストですか?  答 生物のテストです。  ――いままでのどの位テストをやりましたか?  答 三つです。  ――テストのできはどうでしょうか?  答 そうですね、なんとかボチボチというところでしょうか。  ――将来はどうしようと思っていますか?  答 大学院に進学しようと思っています。  ――それでは、院の試験はもう受けたのですか。  答 はい、受けました。面接も終わりました。  ――できはどうでしたでしょうか?  答 あんまり自信はないですね。  ――何か夏休みの思い出はありますか?  答 そうですね。夏休みは院の試験勉強をしていましたから、 あまり思い出はないですね。オリンピックもそんなには見ませんでしたし…。 そうそう、駒場でクレーンが倒れたのにはビックリしましたね。  それから、駒場に猫も増えてきたなあ、と感じます。  ――秋休みは何をする予定ですか?  答 まだ決めていません。

なかな大変な バイトでした

大学院一年     D君  ――夏休み、印象に残ったことは何ですか?  答 バイトをしたことです。  ――どんなバイトをしたのですか?  答 吉本興業の、人材派遣会社のバイトです。オクト物流会社 だったと思います。そこで荷物の仕分けをしたのですが、これがなかなか 大変でした。重い荷物が流れてきて、それを十トントラックに積んでいく のです。わずか十日間ほどでしたが、とても印象に残っています。  ――テストはないのですか?  答 はい。大学院生で、授業もとっていないので、テストはあり ません。ただ、研究が少し大変ですね。  ――秋休みは何をする予定ですか?  答 そうですね。研究を少しづつ進めていかなければならないの です。しかし、この秋休みは何か有意義な生活を送りたいですね。  ――具体的には何かありますか?  答 そうですね、まだ特には決めていません。

塾の先生は 大変でした

理T一年      S君  ――この夏休みは、何をしましたか?  答 そうですね。帰省して、バイトと勉強が主だったでしょうか?  ――家族旅行とかはしなかったのですか?  答 そうでうね、うちは家族で旅行に行くことは少ないのです。  ――他に、何か印象に残っていることはありますか?  答 そうですね。今年の夏は去年に比べたらそれほど暑くはなかっ たので、夏ばてすることもなく、毎日健康に過ごせたことでしょうか?  ――バイトはどんなことをしたのですか?  答 僕の父の知り合いが塾の先生をやっているのですが、そこで 少しお手伝いをしました。  ――対象は?  答 中学生で、英語と数学ですね。英語はそんなには得意という わけではないので、ちょっとどうかな、とは思ったのですが、中学生程度 なら問題ないですね。  ――感想はどうですか?  答 自分で想像していたよりも、難しいものですね。教える前は、 自分なりの理想があるのですが、やはり具体的に実践してみると、思うよ うに教えられないですね。教えるということは大変なことだと思いました。  ――秋休みは何をしようと思っていますか?  答 まずは、運転免許を取ろうと思っています。  ――他には、何かありますか?  答 とりあえず、夏休みぼけを直して、後期の準備をしていけれ ばと思っています。

花だより(358)

東京大学名誉教授 湯浅 明

オオルリソウ

 ヤマルリソウは山地の木かげに生えるムラサキ科の多年生草本で、根出葉はだ円形で根ぎわから数本の花茎を出し、長だ円形の柄のない葉を互生する。花茎の先に四〜六月頃、数個の花をつける。がくは5裂して先がとがり、花冠は直径約1pで、5裂し、はじめ淡紅色で、後にるり色に変わる。
 和名ヤマルリソウは山瑠璃草と書き、花色のるり色による。学名はOmphalodes japonica Maxim.で、Omphalodesはギリシア語のOmphalos(へそ)+eidos(形)で、果実の割れた分果の形による。
 ムラサキ科の染色体数は、ムラサキ(Lithospermum)2n=28、ワスレナグサ(Myosotis)2n=22、64、ヒレハリソウ(Symphytum)2n=36などがある。
 ヤマルリソウと同属(Omphalodes)の日本産植物には、ルリソウがある。ルリソウは山野の木かげに生える多年生植物で、葉は細長い長円形で、茎に互生する。茎の先が二岐し、初めまいているが長く伸び、初夏にるり色の花を階段状につける。がくは5裂し、花冠は5裂して開く。雄しべは5本。学名はOmphalodes Krameri Franch. et Sav.Krameriは「日本植物を研究したクラメルの」である。
 ヤマルリソウと属はちがうがCynoglossum属のオオルリソウ、オニルリソウがある。
 オオルリソウは山地に生える高さ90pの二年生草本である。茎は直立して上方で枝分かれしている。葉は互生し、長だ円形で、上方の葉は葉柄がなく、基部の葉は長い葉柄がある。全体に毛があり、ざらざらしている。夏、花穂を出し、るり色の小花をつける。花穂の先はまがっている。小花のがくは緑色で5裂し、花冠は径4oくらいで平らに5裂し、雄しべ5本である。オオルリソウは大瑠璃草と書き、学名はCynoglossum zeylanicum Thunbergといい、Cynoglossumはギリシア語のcyno(犬)+glossa(舌)で、葉の形とざらつきに由来する。zeylonicumは「セイロン島産の」である。

ETは果たして存在するのか?(上)

求められる正しい人間観

 米航空宇宙局(NASA)は先月七日、隕石の分析の結果、「一連の証拠から火星に微生物が存在していたとの結論になる」と公式に表明しました。この衝撃的な発表は、情報媒体に乗ってすぐさま世界をかけ巡りました。著名な宇宙科学者カール・セーガンが「地球以外の生命の存在は、生命観や宇宙観を根底から変えるものだ」と指摘するなど、多くの識者がこの発表を積極的に評価した一方、「勇み足である」と消極的、懐疑的に受け止める研究者も多くいます。

情報を吟味し 判断する力を

 さて、現在の情報化社会では、世界中の情報が毎日、洪水のように与えられます。私たち大学人は、それを受け身的に受信するだけでなく、情報洪水の中から、必要なものを主体的に選択したり、その内容について吟味し判断するような能力が必要です。
 情報を客観的なものだとして受動的に受け取ることは危険でもあります。一見、価値観とは無縁とも思える科学的情報ですら、多分に主観的な価値判断が含まれている場合が多いからです。従って、私たちは、情報を鵜呑みにせずに吟味・判断し、さらには情報発信の主体者となるべく、その感性や知性を磨いていく必要があるでしょう。情報発信主体としての自己は、これからのインターネット時代において、社会的に要請される重要なアイデンティティーだからです。

人間観を変革 してきた科学

 たとえば、今回のNASAの発表について、それをどう評価し判断し得るか考えてみましょう。この発表は、カール・セーガンも指摘するように、多分に人間観や宇宙観などの価値観に結び付いています。科学は、価値観とは無縁と考えられがちですが、その歴史をみれば、科学的な発見が何度も既成の宇宙観や人間観に変革をもたらしてきたことが分かります。
 ヨーロッパでは、地球こそ宇宙の中心である、という宇宙観が長い間支配してきました。いわゆる“地球中心説”です。
 その誤りを望遠鏡を用いて初めて科学的に示したのが、自然科学の父ガリレオです。そして、太陽こそが宇宙の中心である、というコペルニクス以来の“太陽中心説”を宣言しました。
 ところが、二十世紀に入り“太陽中心説”もまた誤りであることが立証されます。米国の天文学者シャプレーによって、銀河系の中心であるはずの太陽が、むしろそのはずれにあることが示されたのです。さらに、米国の天文学者ハッブルは一九三二年、銀河系以外にも銀河があることを示しました。それ以降、人類は宇宙に無数の銀河を見い出すことになります。さらに、最近に至っては、「宇宙は我々の宇宙だけではなかった」と本学の佐藤勝彦教授らが主張しています。すなわち、この宇宙以外にも無数に宇宙があるかもしれないというのです。
 また、“地球中心説”は、人間は神によって創られた特別な存在である、という西欧的な人間観と強固に結びついていました。ところが、ダーウィンの唱えた進化論は、この人間観を根幹から揺さぶりました。彼は人間の先祖がサルであり、それより前は爬虫類や魚類、さらに前は原始的な細胞に過ぎなかったと主張したからです。
 こうして見ると、自然科学の発見は、「人間は神の特別な被造物である」という人間観を徹底的に相対化してきたとも言えます。「地球は、宇宙の中心どころか、無数にある宇宙の中では、平凡な、ちっぽけな、とるに足りない星の一つに過ぎない…。その星に住む私たち人類もまた、神の特別な被造物などではなく、ちっぽけな、とるに足りない、無意味な偶然の産物に過ぎない…」と。
 今回のNASAの発表が本当に事実であるとすれば、それに続いて「ETが存在するかもしれない」という説が真剣に議論されることにもなるでしょう。ダーウィンによって、人類の特殊性が時間的に平凡化、相対化されたとすれば、今回の発表は、人類の特殊性を空間的に否定することに通ずるとも考えられるのです。

人間は無意味な 偶然の産物か?

 しかし、そのように短絡的に判断することは非常に危険です。科学が、「人間はとるに足りない、ちっぽけな、平凡な存在である」「人間は無意味な偶然の産物である」というような人間観を必然的に基礎付けるのかどうか、吟味する必要があるのです。
 もう少し物事を深く考えてみましょう。人間が無意味な偶然の産物に過ぎないとするなら、突き詰めれば、たとえば戦争してはいけないという理由をどこにも見い出せません。たとえ、人類が戦争で滅亡しようとも、無限の宇宙の中においては、どんな問題があるでしょうか。いじめや麻薬、殺人なども、克服すべき課題とはなりません。そこでは、倫理・道徳的な規範というものがすべて偶然的、無意味なものとして無効になってしまう可能性があるのです。オウム教の幹部に理系出身者が多かったという事実は、科学のこういった側面の危険性を如実に物語っているとも言えます。

宇宙が人間を必 然的に産んだ?

 ここで、科学が先ほどの人間観とはまったく逆の人間観をもたらす場合があることも知る必要があるでしょう。
 一九六一年、米国の宇宙論学者ロバート・ディッケは、「宇宙の年齢が現在考えられている長さなのは偶然ではない。宇宙についてそのように観測できる知性のある観測者、つまり人間が登場するために必要な期間がそういう歳月なのであって、宇宙の年齢はそれ以外の値をとることができないのだ」というような考え方を述べ、世界中に衝撃を与えました。それは、その後“人間原理宇宙論”と命名され広く知られています。
 宇宙に関するさまざまな科学的事実が明らかになるにつれ、この宇宙は人間の発生や生存にとって奇跡的なほど都合よくできていることが分かってきました。たとえば、すべての物理定数は、そうでなければ人間は存在できないという、まさにどんぴしゃりの値だけをとっていることがよく知られています。人間という存在が宇宙の偶然的産物であるどころか、まったく逆に、「人間は宇宙が必然的に産み出した存在である」「人間は極めて特殊な存在である」というような人間観を支持せざるをえないような科学的事実が数多くあるのです。

エゴイズム打 ち砕いた科学

 困ったことに、科学という一つのものから、相異なる二つの人間観が提起されました。そして、残念ながら科学自体がこのどちらかが正しいかを判定することは原理的に不可能です。“事実”を記述するだけの科学は、誤った独善的価値観を事実に照して覆す力を持ちますが、正しい価値観を定立することはできません。そして、その役割は、実は現代においても哲学や宗教にあるのです。
 科学と宗教は対立するものであり、科学が発達すれば宗教はなくなるという考えがあります。事実、科学は中世を支配してきた宗教的人間観、世界観を覆してきました。しかし一方で、宇宙は人間を目的として創られている、と宗教的に解釈しうる事実をも明らかにしてきたのです。私たちは、その両方を知るべきであり、片手落ちになってはなりません。
 ギリシア哲学やキリスト教においても、もとより人間はこの宇宙の中でちっぽけな存在として考えられていました。科学はむしろ、動かし難い事実をもってこうした哲学、宗教的人間観を裏付けてきたのです。では、科学が否定してきたのは何なのでしょうか。それは、哲学や宗教そのものではなく、そこに執拗に入り込んでくるある発想、すなわち“自己中心主義”“エゴイズム”だと考えられるのです。高慢なる人間を、科学は事実によって打ち砕いてきたのだと捉えるべきでしょう。そして、“謙虚”という美徳を教えてくれるのです。
 ところが、哲学や宗教というと、現代においては「古い」「危ない」「不要だ」というな風潮があることも確かです。その大きな要因となっているのが、情報媒体としてのマスコミです。ここにも、私たちに、情報をしっかりと判断する能力が必要とされる重要な一例があります。

         (つづく)
         (F・Y)

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