マルチメディア米国の旅(26)

麗澤大学教授 浦山重郎

(8)マルチメディアとゲーム機ソフト

'98年末、次世代ゲーム機戦国時代勃発

U、コンピュータゲームの歴史と発展

2.任天堂の経営戦略

 任天堂の山内社長は「攻め」の人だ。ファミコンの開発責任者に「少なくとも一年間は、他者が絶対に真似のできないものを出せ」といった。他者が真似できないものという内容には、二つの意味がある。一つは中身で真似のできないもの、もう一つは価格で真似のできないものという意味だ。任天堂はリコーと組んで、わざわざゲームに向く専用ICを開発した。それは今までのゲーム機が八から十六色しか画面に表示できなかったのが、最大五十二色までが可能になり、又、動画能力が数段に向上し、当時のアーケードマシンと、ほとんど遜色のないスピード、スリル、表現の細やかさ、音質を楽しめるマシンとなった。
 山内社長は又、専用のICの供給元・リコーに「二年間で三百万台を保証する」と提示して大幅なコストダウンを実現し、最終的には、機能、性能面でとても追随できない中身を備えたファミコンを一万四千八百円で売り出した。この値段は小学生がどうにか買うことのできる金額であった。任天堂は何よりもこのゲーム機を玩具として認識していた。玩具としての認識不足が他の会社にとって命取りになったのは言うまでもない。
 山内氏はこうも指示している。「ゲームソフトを作る技術者に評価してもらえるようなハードを作れ」と。任天堂のソフト屋としての視点がここにある。ソフトを売ることを主眼にハードを開発して任天堂には、「ゲームウオッチ」で蓄積してきたソフト技術があった。自社で優れたソフトを開発する強みが、導入時のファミコン普及に大きな力を発揮し、他者の製品を蹴散らして市場独占に拍車をかけるきっかけとなったのである。
 ファミコンを発売する二か月前の八三年五月、山内社長は問屋全体に「初心会」の人達を集め、次のように説明した。「ハードは一万四千八百円にします。これだけではメーカーも問屋さんも大して儲からない。しかし、ソフトのおもしろさで必ず売れます」。
 すでにファミコンの開発時から、ハードは豊富なソフトを売る道具であり、ハード儲けずソフトで儲けるという明確な戦略目標が出来上がっていたのである。この読みは的中し、おもしろいソフトがハードの普及台数を更に伸ばすという好循環をもたらしたのであった。
 その後のライバルメーカーの参入時に、山内社長は、ことあるごとに、こう言った。「現在のヒット作の単位は百万本で、十万本ぐらいはヒットとはいえない。その他大勢でしかない。十万本売れるソフトが何種類出ても、マーケットは活性化しない。市場に影響を与え、流通が動いていくためには百万本が必要だ」。
 この言葉が以下に書いたデータと比べていくと面白い。
 国内の歴代ゲームソフト販売本数のベスト10の中で、上位三位はファミコンのゲームである。一位スーパーマリオブラザーズ 六百十八万本、二位ドラゴンクエスト3 三百九十万本、三位スーパーマリオブラザーズ3 三百八十二万本。これを単純に足しあわせてみると千三百九十万本である。ちなみにファミコンの国内販売総数は千八百七十三万台と言われている。一位のスーパーマリオはファミコン三台に一台はあるということになる。これはおそるべき数である。しかも八位にも三百万本も売れたドラゴンクエスト4がある。米国や欧州も合わせると六千万台を越え、任天堂はわずか十年足らずでテレビゲーム市場を三兆円の規模にまで育て上げてしまった。この普及率により、ファミコンは完全にインフラ化され、証券会社のホームトレードや銀行業界のホームバンキングなどに利用されるという、ゲームを越えた社会全体の共有資産となりつつあった。
 さらに任天堂のソフトに関して重要な事は、「これからは量より質の時代。百人の秀才より、一人の天才が必要なのである」、という山内社長の言葉だ。これもまたソフト販売本数の売上げを見れば、任天堂・エニックス・カプコン・スクウェアの独壇場であることがわかる。

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