今、純潔がトレンディー
愛と性は私たちの人生にとって大きな意味を持つ。それは大きな幸福をもたらしてくれる要素でもあるが、方向性を誤れば不幸を身に招くことにもなる。 そこで、愛と性についてその現代的な意味を考え、新しい愛と性の価値観建設に向けて若者らしい提言を行いたい。
東大新報・倫理問題研究班
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連載「今、純潔がトレンディー」一覧表 (全17回)
第1回 |
1995年11月5日号 |
米国では…「性開放」は時代遅れ |
第2回 |
1995年11月15日号 |
社会再建は家庭再建から |
第3回 |
1995年11月25日号 |
「不倫」は悲劇を生む |
第4回 |
1995年12月5日号 |
結婚するまでは童貞、処女を守る |
第5回 |
1995年12月15日号 |
コンドーム教育は誤り |
第6回 |
1996年1月25日号 |
エイズ予防には「純潔」を |
第7回 |
1996年2月15日号 |
家庭崩壊がいじめの背景 |
第8回 |
1996年3月5日号 |
家庭再建は純潔から |
第9回 |
1996年4月15日号 |
”性”と”愛”の分離の行く末は… |
第10回 |
1996年4月25日号 |
キリスト教における愛と性 |
第11回 |
1996年5月5日号 |
フロイト思想の功罪 |
第12回 |
1996年5月15日号 |
「しらけ」を生んだ唯物論 |
第13回 |
1996年5月25日号 |
コンドーム配布は危険 |
第14回 |
1996年6月15日号 |
慰安婦問題の解決に向けて |
第15回 |
1996年6月25日号 |
求められる真の女性観 |
第16回 |
1996年7月15日号 |
人格の基礎は家庭愛から |
第17回 |
1996年7月25日号 |
生命より尊い愛と性 |
今、純潔がトレンディー(1) 1995年11月5日号
米国では…「性開放」は時代遅れ
日本でも今、エイズの恐怖が広がりつつある。潜在的には、何十万人という人が感染しているのではないかとさえ言われている。安易に性開放をすすめるとエイズばかりではなく、離婚率の増加やティーンエイジャーの妊娠などの深刻な問題が増加し、日本社会にとって大きなマイナス要因となるのではないかと懸念される。本紙はエイズや家庭崩壊を食い止めるためには単にコンドームなどの物質的な手段によるのではなく、これを人格における根本的な問題ととらえ、新しい純潔運動を起こすことによってのみ解決できるのではないかという観点から、数回にわたって論じてみたい。第一回目は、アメリカの現状を取り上げてみた。
アメリカといえば、性開放がもっとも進んでいる国としてみなされることが多い。しかし、今アメリカ人は純潔を見直し始めている。アメリカの若者の間では今、純潔が「トレンド」なのである。
一九六〇年代、アメリカではセックス革命が起こった。セックスに厳格だったそれまでの世代とは反対に、彼らは性の自由を謳歌した最初の世代となった。だが、当時のセックス革命の中心は大学生であり、高校生でも、まして思春期前の子どもでもなかった。今は性開放がもっと低年齢化した。そして親になった当時の「最先端」だった世代は、子どもたちに「セックスをするのは大人になるまで、待ちなさい」と教えているのである。
六〇年代、「私の体なんだから、誰と寝ようが私の勝手」というのが時代の最先端だった。だが今は、高校生の口からこんな言葉が出る。「私の体なんだから、誰と寝ないのも私の自由よ」。
今、アメリカでは性に対して保守的な風潮が全体として多くなってきているのである。それを裏付けるのが、『決定版アメリカのセックス調査』である。この調査から分かったことは、性的な情報が氾濫している割には、実際の所、アメリカ人はそれほど性的に活発でもなく、世間で考えられているほど多くとの相手との性を楽しんでいるわけではないということだ。そして、女性の八〇%近く、男性の七五%近くが、「一度も相手を裏切ったことはない」と回答している。つまり、大多数の人は浮気をしていないということになる。アメリカでは巷には性的な情報があふれかえっており、いかにもフリーセックスを謳歌しているように思われがちだが、実際の行動面では以外に「真面目」であることがあきらかになった。
では、なぜ今アメリカでは性に対する保守的な傾向が強まってきているのだろうか。
バプティスト派の牧師リチャード・ロスは純潔をスローガンに掲げた運動をスタートさせた。この夏には、二万二千人の「純潔な若者」を動員してワシントンで集会を行った。この団体は「真実の愛は待つ」という団体で、参加した若者たちは連邦議会議事堂前に純潔の誓いを書いた二十万枚のカードを立てた。
キリスト教保守派は、純潔を性教育の柱に据える運動を展開し、そのおかげで今ではアメリカの性教育コースの九〇%には純潔の勧めが含まれるまでになった。これは、禁欲一辺倒を説く五〇年代的な性教育とは違う。「本当に好きな相手にどうやって『ノー』と言うか。それを教えてやらなければ子どもたちを動かすことはできない」と、ノースカロライナ大学思春期センターのピーター・スケールズ教授は言う。禁欲教育ではなく、フリーセックスのもたらした現状への反省にたった上での「純潔」教育なのである。
六〇年代のセックス革命によって、アメリカでの離婚率は上昇し、家庭は崩壊した。その親たちの世代を見ながら育った子どもたちは、親の世代への失望もあったことだろう。また、性の解放はエイズの蔓延や、ティーンエイジャーの妊娠の増加など深刻な社会問題をもたらした。日本でも今のまま性開放が進めば、アメリカの二の轍を踏まないと言う保証はない。
日本では性開放こそトレンドと言われるが、アメリカ人からすればそれこそ時代遅れな考えである。
アメリカでは今、自分の自由意志でもって「純潔の自由を守ろう」という若者が増えてきているのである。
(参考‥ニューズウィーク=一九九四・十・二十六号)
今、純潔がトレンディー(2) 1995年11月15日号
社会再建は家庭再建から
前回、アメリカでは性に対する保守化傾向が強まり、「性開放」より「純潔」が若者にとって「トレンディー」になりつつあることをみてきた。ここではカーネギー研究所のレポートと、アメリカ政府の政策とをみながら、性倫理の問題についてより深く考察してみたい。
家庭環境の悪化を示すレポート
最近、アメリカの子供たちがどのように扱われているかを示すレポートが、ニューヨークのカーネギー研究所から発表された。レポートによると、一九九〇年の時点で全子供のうち二八%は未婚の母から生まれ、片親と生活する子供は二七%に達しているという結果が出た。この値は、「性開放」が始まる前の一九六〇年に比べ、四倍以上も増加している。片親のもとで育った子供たちは生活も貧しく、登校拒否者や性格が粗暴な者が多いという。そして、いわゆる犯罪予備軍になってしまう。また、子供の虐待も多く、親の側の無責任や子供育ての無能力さが家庭環境の悪化の原因であると指摘している。
家庭再建を目指す「米国との契約」
このようなレポートから言えることは、アメリカの子供たちにとって、家庭は必ずしも成長にとって良い環境にはないということだ。アメリカでは、一般に親の離婚率が高く、母親も仕事で家を空けることが多い。「性開放」の洗礼を受けた親たちの世代は、家庭や子育てを大切にするという伝統的な道徳観を失った。そして、自分たちの都合で離婚や結婚を繰り返すようになってしまった。多くの異性関係を結ぶと一夫一婦制の観念が薄れ、不倫や離婚への壁が低くなってしまうのは自然の道理であろう。家庭の崩壊の原因は、親たちの道徳心の欠如に原因があることは確かだ。子供たちが非行に走り、凶悪犯罪が増加することを食い止めるためには、根本的には家庭の再建が大切である。それが一番遠いようでいて、実は一番の近道と言えるだろう。
では、次にアメリカ政府は家庭の再建のためにどういう政策を行っているかみてみよう。今年初め、米下院議長ニュート・ギングリッチは、「米国との契約」十法案を下院議会に提出し、そのうち九法案が下院で可決された。これは、財政再建、家庭再建を通して強いアメリカの復活を図ろうとするものである。ギングリッチ下院議長ら共和党の保守派は、キリスト教に基づく伝統的価値観や家庭の崩壊が、米国経済、社会の衰退の元凶であるとみる。米国経済や社会の建て直しの根本に、家庭の再建が必要であるという考えが、この「米国との契約」には反映されている。
未婚の母を減らし家庭を強化する
そのひとつが「個人責任法」である。米国では、未婚の母になると最低、年間一万二千ドルの生活保護が受けられる。しかし、この福祉制度がかえって未婚の母の増加の誘因になっているとの指摘があった。また、私生児の数が多いほどより手厚い生活保護が受けられるため、生活のためにより多くの私生児をもうける女性もいるという。このように、仕事も結婚もせず、慢性的な福祉依存者となる女性が増えることは、社会にとってプラスにならない。個人責任法では、十八才以下の未婚の母に対する補助を打ち切り、社会福祉を受けた者に就労を義務付ける。これで、未婚の母になること自体の経済的恩恵をなくし、未婚の母の増加に歯止めをかけようというのだ。
また、「家庭強化法」という法案では、家庭を強化するための政策が盛り込まれている。離婚した親による子供養育料支払いの実施協力を州に義務付けたり、児童ポルノへの罰則強化、高齢の父母や祖父母を世話する家庭への減税などを行う。
家庭再建が社会再建の根本
以上が、アメリカの現状とそれに対する政府の対策である。六〇年代に始まったアメリカの「性革命」は、離婚の増加と未婚の母の増加をもたらした。そして、その世代から生まれた子供たちは、両親がそろったいわゆる“普通の”家庭で育つことができなくなった。もちろん、すべての家庭がそういう不幸な環境にあるわけではない。だが、社会全体として非行や犯罪の増加、麻薬やエイズの増加のもっとも根本的な原因が家庭にあることは確かである。そのため、今アメリカでは道徳や純潔の重視や、家庭の重視ということが、市民のレベルから政府レベルまで意識されるようになった。
アメリカで起こったことは、十年遅れて日本でも起こると言われるが、この家庭崩壊の問題については同じ経験を繰り返してはならない。だからこそ、新しい純潔運動により家庭を守っていかなければならない。
今、純潔がトレンディー(3) 1995年11月25日号
「不倫」は悲劇を生む
前回までは、アメリカの現状を見てきた。アメリカは、一九六〇年代の性開放以後、性倫理が退廃し結果として離婚の増加や家庭環境の悪化をもたらしてしまった。だが、その反省から、今純潔を見直す運動が若者の間で「トレンディー」となってきている。また家庭再建が社会再建の根本であるとの認識がアメリカの間で広まり、「米国との契約」という法案にもその精神が反映されている。これらのことをふまえ、もっと身近な話題も織り混ぜて性倫理の問題について考えてみたい。
人間は常に愛を求める存在
今、日本の若者の間で「純潔」という言葉はほとんど使われていない。死語になったという感じすらする。学校の性教育では小学校のときから性交について教え、性の知識について教えはする。だが、一番若者が知りたいはずのことは「愛」についてだ。それについては、性教育では教えてくれない。
「愛」といってもたくさんの種類の「愛」がある。生まれてすぐに始まる愛が、「親子の愛」、やがて友達と遊ぶようになり芽生えてくる友情すなわち「友愛」、思春期を過ぎて目覚める「異性愛」、そして結婚して育む「夫婦愛」。
愛は人類の永遠のテーマであった。文学は今古東西愛について飽くことなく描き続けている。音楽にしてもしかりである。宗教も愛について扱ってきた。人間は常に愛を追い求めている存在であるといえる。
幸福な人生に不可欠な愛
愛は時に、人生に癒すことのできないほどの傷を与えることもある。愛が感じられず、嫉妬や恨みの情念を抱いたりもする。だが、いつか愛が自分を幸せにしてくれるはずだという希望を捨て切れず、それでも愛を求めていく。
なぜ人間は愛について考えるのだろう。ここでいう愛は男女愛に限らない。愛は、対象を求める。ただ、その対象が親か、友人か、恋人か、妻か、子どもかによって呼び名が違うだけである。愛を定義することは難しいが、愛は、幸福な人生を生きるのに不可欠の要素であるとはいえよう。家庭崩壊やエイズが広がる今日、誰もが愛について真剣に考えるべき時である。
不倫は子どもにとって不幸
ここで、男女の愛の理想について考えてみたい。男女の愛は、おそらくこの世の中で最も強い愛だ。そして、その素晴らしさや美しさが讃えられる。だが、それは同時にもっとも破壊的な愛にもなりえる。男女の愛を単純に讃美することはできない。
男女の愛は新しい生命を生み出す。それが時に仇となることがある。もし、不倫の子ができたとしたらその二人は不幸であろう。しかし、それ以上に不幸なのはその子どもなのだ。両親が性欲や遊びの気持ちで自分を生んだんだと自覚することほど子どもにとって酷なことはない。
三浦綾子の小説に「氷点」という本がある。自分には罪がないと思っていた陽子。だが、陽子は自分の出生の秘密を知ってしまう。自分は不倫の子であるという衝撃的な事実。そして、陽子は人間のもつ根本的な罪の問題(キリスト教でいう原罪)にぶちあたる。不倫の子という自分ではどうにもならない十字架を背負って生きなければならない陽子の運命。人間の罪の問題を見事に描き出した作品だ。
このような例からも、現代の不倫を肯定するような風潮は由々しきものであるといえる。不倫を肯定するのは、相手やその周辺にいる人、そして、生まれる子どものことを考えない「自分さえ良ければいい」という利己主義のあらわれだ。
倫理観を崩す奔放な性開放
だが、こう反論する人もいるであろう。避妊や性病の予防をしっかりやれば誰とでも性関係を結ぼうと自由ではないか。
確かに、避妊をしっかりすれば不倫の子どもが生まれる可能性はなくせるかもしれない。性病も予防できるかもしれない。しかし、もっと重大な問題を忘れている。前回までアメリカの例で見てきたように、性開放がすすんだ結果として離婚率は増大し、片親の家庭が増え、子どもの非行や凶悪犯罪の増加といった社会問題として表面化してきた。性開放により人間の心に問題が発生したからだ。多くの男女関係を結べば、当然倫理観は崩れ、好きになれば結婚し嫌いになれば離婚するという人間になってしまう。これでは、生まれてくる子どもにとってよい家庭ができるはずはない。
『反面教師アメリカ』
一時のアメリカのように性開放が極端にすすんでいけば、日本もアメリカと同じ問題を抱え込んでしまうだろう。すなわち、エイズの増加、離婚の増加、未婚の母の増加等々だ。数年前、『反面教師アメリカ』という本が話題になったが、今のアメリカの状況を直視し、いい意味で学んでいく必要が今の日本にはあるといえよう。そして、これらの問題の予防、解決を推進していく必要があるだろう。
今、純潔がトレンディー(4) 1995年12月5日号
結婚するまでは童貞、処女を守る
前回は、不倫は悲劇を生むという観点から性倫理の正常化の必要性について述べてきた。そこで今回は、ダイアナ妃がテレビで行った不倫の告白についてコメントを加えたい。その上で、「倫理」について一考し、新しい性倫理、新しい純潔についての提案をしてみたい。
衝撃的だった不倫の告白
先月二十日、ロンドンで英王室のダイアナ皇太子妃のテレビインタビューが行われた。世界百十一ヵ国に同時に報道され、計二億人が見たという。当然日本でも大きく報道されたので、知っている人は多いだろう。
インタビューの中で衝撃だったのは、元近衛兵将校ジェームズ・ヒューイット氏との関係。ダイアナ皇太子妃は彼との間に不倫関係があったことをあっさり認めた。チャールズ皇太子も昨年六月、テレビでカミラ夫人との不倫関係を告白しているが、これでお互いが不倫を告白するという異常な事態になった。ダイアナ妃は過去数年間にわたり過食症になったほか、自殺未遂もするほど悩んだらしい。離婚については子供の問題があるので、今のところ考えていないという。
離婚は子供に対して無責任
不倫がなぜいけないか、そのことを前回考えてみた。端的に言えば、不倫により夫と妻の信頼関係が壊れることはその夫婦にとって、また、それ以上に子供にとって不幸だからである。子供が成長過程において最も影響を受ける場は家庭であり、父親と母親が二人そろって仲の良い夫婦であることが、子供にとって理想であることはいうまでもない。子供は親を見て育つ。両親の仲の良い姿を通して子供は愛情への信頼感を形成していくし、親の愛情を受けることで子供の心の根底に自己の存在への安心感を形成していく。しかし、不倫の子として生まれた場合、そういった愛情への信頼感や自己の存在への安心感を充分に形成しえず、抜き差しならない悲劇を生み出すことになってしまうのだ。
そうして見ると、ダイアナ妃の今回の不倫の告白会見を通して思うことは、もうこれ以上二人の関係を損なう行動をすべきではないということだ。願わくは、過去のことは過去のこととして謙虚に反省し、もう一度仲の良い夫婦関係を取り戻す努力を続けてほしいものだ。本来、離婚をしないというのは、子供の幸福にとって最低守るべき一線であり、それは結婚に伴う責任であるからだ。元の良い夫婦関係を取り戻すことは決して容易なことではない。しかし、元の関係を取り戻そうと努力することには大きな意味がある。子供にとって、自分の本当の父親、母親と共に仲良く住みたいというのが最大の願いだからだ。
精神的価値を追求する人間
ここで今回の主題に入りたい。「倫理」について少し考えてみよう。
私達の行動の基準は何であろうか。もし本能の赴くままに行動していたらそれは動物である。こういった生き方には、倫理的な規範を必要とする積極的な理由は見い出せない。
しかし、私達は、決して食欲、眠欲、性欲などを満たすだけでは幸福にはなれない。「人はパンのみに生きるにあらず」という聖書の言葉を持出すまでもなく、真美善といった精神的価値を求めるのが人間の人間たる所以だからである。そして、精神的価値を求める心こそが、「倫理的に生きる」ということに意味を与える。
精神的価値を追求する心は、個人における自己実現への欲望のみならず、対人関係において、より円滑な関係を求め、さらにはよりよい社会、世界を希求する。それは、善や幸福、自由などを求める良心の叫びとも言えよう。従って、本来、倫理には人間関係を円滑にし、よい社会や世界を築きたいというような良心の願いが根本にあるのだ。こうした精神的価値を求める心が、倫理的な生き方を追求せずにはいられなかった。だから、本来の倫理は、人間の幸福や善なる社会の建設に寄与し、人間を自由にするものでなければならない。
新純潔運動が願われる時代
だが、こう反論する方もおられるだろう。倫理的な規範は過去、人間を拘束し、封建的な人間関係の鎖に縛りつけてきたではないかと。
性倫理についていえば、例えば「貞操」は女性だけに要求され、男性は妾を公然と持っていた時代が確かにあった。これは、倫理的な規範が人を自由にし幸福にするものではなく、人を不自由にし不幸にしてきた一例といえる。しかし、こういった誤った「貞操観」は今の時代には通用しない。人の自由を拘束し、不幸に陥れる“誤った”倫理観は消え去らなければならない。私たちが必要としているのは、今の時代にマッチした「新しい性倫理」なのだ。
そこで若い青年らしく、大胆に宣言したい。新しい性倫理とは女性だけに強要された封建的なものではなく、男女ともに守るべき夫婦愛の規範である。端的にいえば、「結婚するまでは童貞、処女を守る」ことである。それは、将来出会うであろうパートナーのために、さらには、二人の子供のために、生涯別れることなく愛情を育んでいこうという決意と責任感の表明である。
これこそ「新純潔宣言」と呼ぼう!アメリカの例でも見たが、若い人達の間で新しい純潔運動が勃興してきており、その精神は今述べたような内容なのだ。これがアメリカのみならず、日本や世界の若者の新しい運動として展開されるべき時代を迎えている。
今、純潔がトレンディー(5) 1995年12月15日号
コンドーム教育は誤り
性倫理は人間のあり方の根本に関わっている。エイズの増加、ティーンエイジャーの妊娠の増加などの深刻な問題により、性のあり方について各自が真剣に考えざるを得ない状況に追い込まれていると言えよう。今回は、アメリカにおいて、「コンドーム教育」と「純潔教育」をそれぞれ実施した後、ティーンエイジャーの性行動がどう変化したかを示し、性の問題について考えてみたい。
猛烈な勢いで増えるエイズ
今、エイズが猛烈な勢いで増加している。一九九四年六月現在HIV感染者は一千七百万人を突破しており、最悪の場合、二〇一〇年には全世界で十億人が感染するという予測もある。
エイズの感染経路には、「感染者との性行為」「注射による麻薬使用や輸血による血液交換」「母子感染」という大きく分けて三つの毛色がある。血液製剤による不幸な感染事故が“薬害エイズ”として大きな問題となっているが、今は防止されるようになっている。現在最も多いのが「感染者との性行為」による感染だ。
では、性行為によるエイズ感染を防ぐにはどうしたらいいのだろうか。医学的な面、法律制度の面、性教育の面などいろいろなアプローチがある。その中で、性教育の面では大別して二つの流れがある。「コンドーム教育」派と「純潔教育」派だ。それぞれの性教育を実施したアメリカでの結果を踏まえ、考察してみよう。
挫折したコンドーム教育
コンドーム教育推進派はエイズ感染防止をコンドーム使用によって防ごうと考え、その教育を徹底しようとする。つまりセーフセックス、安全なセックスを推進しようとする。確かにコンドームは理論上エイズのウイルスを通さないし、百パーセント安全である。だが、アメリカの「家族計画の考え方」誌九十二年二月号の記事によるとコンドーム使用の十五パーセントが人為的なミスにより失敗するという。そこで、性教育の場で徹底的にコンドームの確実な使い方を教え、ミスをなくそうというのがコンドーム教育派の意見だ。
しかし、アメリカでのこのコンドーム教育は挫折している。数年前行われたハリス世論調査の結果を引用しよう。次のような三つの性教育モデルを実施した学校でのその後の生徒の性行動を追跡調査してみた。一番目は避妊教育を含めた性教育、二番目は避妊教育を含まない性教育、三番目は性教育を実施しない、である。結果として避妊教育を含んだ性教育を受けたティーンエイジャーが最も性行動の割合が高く、授業後では五十パーセントも性行動に走る割合が高くなった。性情報を全く与えなかったグループは二番目に高いレベルで性行動に走り、避妊教育を含まない性教育を受けたグループが最も性行動のレベルが低かったという結果が出た。
コンドーム無料配布の皮肉
このようにセーフセックス教育の結果が全く意に反するものであったことを知って、セーフセックス推進者たちは学校へのコンドーム配布を盛んに要求した。これは日本でも報道されたので知っている人も多いことだろう。しかし、結果はこれまた期待とは反対のものになった。コンドームを無料配布したにもかかわらず、性行為のときにコンドームを常用したのは男性の八パーセント、女性の二パーセントに過ぎなかった。しかも、コンドームを配布した学校では全体の妊娠率が、コンドームを配布していない学校の一・四七倍にあがった。
このように「コンドーム教育」の推進は性行動の活発化をもたらし、期待とは正反対の結果をもたらしたのである。
純潔教育で教育環境が向上
これに対し、「純潔教育」の流れに当たる注目すべき性教育プログラムがある。それは「自己抑制プログラム」だ。その中のひとつ、ジョージア州アトランタ市のグレディー病院で開発された「性行動を遅らせる(PSI)」というプログラムを中学校などで実施した結果を見てみよう。
これは、「妊娠や性病を予防するために学校に何を教えてもらいたいか」というアンケートを生徒に実施したところ、女生徒の八十六パーセントから「相手の気持ちを傷つけずにどのようにセックスに対してノーと言ったらいいか」という意見が出たことをもとに開発されたプログラムだ。これを実施したところ、プログラムを受けなかった生徒より五倍も「セックスを始めにくかった」という結果が出た。これは、男子生徒にも女子生徒にも言えることであった。
その他、「フリーティーンズ」「セックスリスペクト」「ティーンエイド」などの自己抑制プログラムがあるが、いずれも生徒の性行動の減少に効果があることが示されている。セックスをすることが当たり前という風潮の真っ只中にいる生徒に対し、これほどの効果を上げたことは驚異であると言えよう。
ここで注目すべきは、自己抑制プログラムを実施した学校では、学校からの落伍者も減少しているという事実だ。性のモラルの回復は、単に妊娠や性病の予防だけではなく、ティーンエイジャー達の教育環境の向上にも貢献しているのである。
性教育は純潔教育である
結果として言えることは、コンドームさえあれば性行動の方を変えなくても大丈夫だという教育はなされるべきではない、ということだ。性教育とは単なるハウトゥー的なセックス教育ではなく、人格を高め、規律を育成するものでなくてはならない。
性教育とは単なる性の知識の伝達の場ではない。性のあり方は人格全般に関わる問題であり、だからこそ性教育は人格教育でなければならない。そして、それは自分の性行動に伴う周囲や未来世代への影響や責任について深く考慮を促し、真実の愛を至上の価値として実現せしめる「純潔」教育でなくてはならないのである。
今、純潔がトレンディー(6) 1996年1月25日号
エイズ予防には「純潔」を
シリーズ「今、純潔がトレンディー」も六回目になる。これまで「純潔」の現代的な意義についてさまざまな観点から論じてきた。今回は、現代における難問の一つ、エイズ感染の増加の防止の観点から「純潔」の意義を論じてみたい。
「純潔」は封建的な観念か
純潔は封建的なものだろうか、そのことについて考えてみたい。
封建的な価値観が強く日本を支配していた時代、女性は差別的な扱いを受けていた。儒教的な価値観の中で、女性は貞操を守ることが要求されたが、男性にはそれほど強く貞操は要求されなかった。たとえば明治憲法では、男性は妾を持つことが許容されていた。
こういった背景を受けて、「純潔」というと、それは封建的なものだと考える人も多い。事実、女性だけに要求される明治憲法以前の時代の純潔観念は、封建的な差別的なものであった。
やがて女性は男女平等を勝ち取り、妾制度の廃止、女性の参政権獲得などの現代の憲法が生まれた。昔の封建的な女性差別は薄れ、男女平等の結婚制度が確立されてきた。こうして、女性の解放とともに性の開放、すなわち、女性だけに押しつけられた純潔観念からの開放が進んできた。これらは民主主義の輝かしい成果として評価できる。
フリーセックスは「放縦」
だが、最近の世の中を支配する性開放は「誰とでも自由にセックスをしてもよい」というものである。夫婦であろうがなかろうが、結婚を前提としていようがしていまいが、男女の性の交わりは自由ではないか、というのである。テレビのドラマや、流行している小説などでも、不倫を肯定し、フリーセックスを奨励するような内容が多い。
こういった風潮に対しては、疑問符をつけざるを得ない。確かに、女性だけに要求された封建的、差別的な純潔観念が否定されたことは素晴らしいことである。だが、それが「誰とでも自由にセックスをしてよい」という主張にまで至ってしまうと、これは封建的なものからの本当の解放になるのだろうかと、疑問を抱かざるを得ないのである。むしろ、それは「自由の獲得」ではなく、「放縦への転落」を意味するのではないだろうか。
この連載で言う「新純潔宣言」は、フリーセックスという放縦をやめようではないか、と主張するものである。だからこれは、封建的な意味での純潔の主張とは根本的に異なるのである。
人類の脅威「エイズ」
現代の人類が抱える難問の一つに、エイズ感染者の増加がある。現代医学では、発病したエイズ患者を死から救う手立てはない。せいぜい、感染した患者の発病を遅らせる程度である。このまま感染が広がれば、二十一世紀には人類の存亡を脅かすことにもなると予測されている。現段階では、感染を阻止することが最大のエイズ対策である。
ところで、エイズの感染経路は限られており、同性愛者や異性間の“性行為”、“母子感染”、“血液製剤”などがある。血液製剤による感染は、加熱製剤の普及で防止されるようになった。母子感染も、帝王切開による出産などで、出産時に赤ちゃんにエイズウイルスが侵入しないように対策が立てられている。
コンドームは完全ではない
だが、性行為による感染を防ぐためにはどうしたらいいだろうか。これについては医学的なアプローチと、教育によるアプローチがある。
医学的にエイズ感染を防ごうとすれば、コンドーム使用の徹底があげられる。理論的にはコンドームはエイズウイルスを通さない。だが統計的にはコンドームの失敗率が約一五%もあり、それによるエイズ感染の危険性があることを以前見てきた。コンドーム使用には人為的なミスが避けられないので、エイズ感染を一〇〇%防止することは難しい。
教育によるアプローチについては、以前、“コンドーム教育派”と“純潔教育派”の二つの流れを見てきた。そして、アメリカの学校教育の実践の場では、純潔教育が性病や望まざる妊娠の予防に効果のあることが示された。コンドーム教育を受けた生徒は、かえって性行動が活発になり、性病や妊娠が増えるという皮肉な結果になったのである。だから、アメリカでは純潔教育が注目され、青少年の間では「結婚までは純潔を誓おう」という運動さえ起こってきた。このことを日本で知っている人はまだ少ない。
こうして、現段階では、科学的あるいは統計的な観点からいうと、「もし守れるのなら結婚までは純潔を。それができないのならセックスをするときにはコンドーム使用を」ということになる。純潔はエイズ予防という観点で決定的な効果があるのである。
エイズ患者への差別の問題
「エイズの予防には純潔を」と主張すると、「それはエイズ患者を不純なものとして差別する事につながる」という方もおられるだろう。確かにエイズ患者に対する偏見が、学校や医療の場で彼らを差別する事になっている現状がある。
それに対しては、エイズについての医学的知識を普及させ、エイズ患者をいたずらに遠ざける事をなくさなければならない。そして、エイズ患者への人権的な配慮や不当な差別の撤廃をなくす真摯な努力が必要なことは言うまでもない。
だが、ここで見落してはならないのは、「エイズにかかった」人の人権を守らなくてはいけないのみならず、「エイズにかかりたくない」人の人権をも守らなければならないということだ。従って、「エイズの予防には純潔を」という主張は、エイズ感染をこれ以上広めないためにも、強く叫ばれなければならないのではなかろうか。ここに、現代における「新純潔宣言」の一つの意義がある。
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今回はエイズ予防の観点から、より科学的、外的な側面から「新純潔宣言」の意義を見てきた。そこで次回は、「新純潔宣言」のより精神的な意義について論じてみたい。
今、純潔がトレンディー(7) 1996年2月15日号
家庭崩壊がいじめの背景
いじめの問題を通して、家庭の崩壊、そして子どもたちの性意識について、アンケート結果などを通して今回と次回に分けて考えていきたい。果たして、家庭環境は子どもたちにどんな影響を与えているのだろうか。
陰湿、凶悪ないじめの多発
最近、またいじめによる自殺が相次いだ。一月二十三日、福岡県で中学三年生の男子生徒が首吊り自殺をした。遺書には、いじめっ子から跳び蹴りを受けたり、金を持ってくるように要求されたことが書かれてあった。二日後の二十五日には愛媛県で中学二年生の女子生徒が首吊り自殺を図った。このケースでは、クラスの男子のほとんどがいじめに加わっていたことや、クラスの女子もいじめの事実を知っていながら、どうしてあげたらいいのか分からなかった事などが分かった。
最近のいじめは陰湿化、凶悪化していると言われる。例えば、昭和六十一年に起こった鹿川君事件では、先生を含め、クラスのみんなに「葬式ごっこ」をされるなど、徹底的にいじめられた。親も彼の苦しみを十分に理解してあげられず、最後には首吊り自殺をするところまで精神的に追い詰められてしまった。また、「マット圧死事件」では、いじめっ子達が対象の子を体育館のマットでぐるぐる巻にし、逆さのまま放置した。脱出しようともがけばもがくほど、蟻地獄のようにマットの中に入り込むことを知っていながらである。翌日彼は、“窒息死”の状態で発見された。
罪意識がないいじめっ子達
これらのいじめ事件の多くに共通しているのは、いじめにあっている子が非常な苦しみを感じているのと対照的に、いじめっ子達には罪の意識がほとんどないということだ。そして、自殺に至って初めて、「自分は悪いことをやっていたのだろうか」と感じ始めるのである。
つまり、いじめっ子達には、他人に対する思いやりや、生命の尊厳性に対する認識が欠如しているのである。これは、いじめっ子に限らず、現代の子供について多かれ少なかれ言えることではないだろうか。
非行の主原因は家庭の崩壊
ところで、なぜいじめっ子達は、相手を死に追いやるほどいじめるのであろうか。今までのいじめ事件の研究から、いじめっ子達の家庭環境には共通点があることが分かっている。それは、両親が離婚や別居しているため、子供が親の愛を十分に感じることができない家庭環境だったという点である。
父親は子供に道徳心や規範を教え、母親は無条件な愛で子供を愛する。そのような家庭で育った子供は、非行や凶悪犯罪に走ることはない。だが、親が離婚していたり、喧嘩ばかりしているとしたら、子供は十分な両親の愛を受けることができない。やがて、大人への不信感や人生への失望感が子供の心に芽生えるようになる。そして、非行や、犯罪行為に走る危険性が高くなる。例えばアメリカでは、凶悪犯罪に走る子供が増えている背景には、離婚などによる家庭崩壊が進んでいることが挙げられている。
親子関係と性意識の相関
だが、家庭の崩壊はもっと深刻な影響を子供たちに及ぼす。それは「性の乱れ」だ。性の乱れは犯罪や非行の温床となるのみならず、次世代の育成という点で大きなマイナス要因となる。なぜなら、人間の性は生命を再生産するものであり、次の社会を担う人格を産み育てるものだからである。
平成三年に、本紙を含め全国の大学の学生新聞会が協力して行った性意識調査がある。この分析によると、男子については、父親や母親との関係が良い人ほど、強姦を嫌悪する割合が高く、反対に父親や母親との関係が悪い人ほど、強姦を許容する割合が高い。また女子については、家庭が暖かいと感じる人は性関係を経験した割合が低く、家庭が暖かくないと感じる人は性関係を経験した割合が高い。このように、家庭環境は若者たちの性意識に大きな影響を与えていることが分かる。
今、純潔がトレンディー(8) 1996年3月5日号
家庭再建は純潔から
日本の性産業は年間四兆円
日本の性産業は、年間四兆円の売り上げがあると言われている。それは、日本の一年間の国家予算約七十兆円のなんと五%以上にも相当する。
テレクラはその一例だ。それは、ある特定の電話番号にかければ異性と話をすることができるというものだが、利用する男性は、相手の女性をホテルに連れ込んで性関係を結ぶことが目的であることが多い。
ある調査によれば、女子中学生の四人に一人がテレクラを利用した経験があるという。女子中学生がかける場合、初めはおもしろ半分の軽い気持ちだろう。しかし、何回もかけていれば、優しそうな男性が親身になって話を聞いてくれることもある。その時がたまたま、寂しさを感じている時であれば、相手に慰めを求めたくなることもあるかもしれない。そうしてデートをしてみようかという気持ちになる。デートを重ねるうちに、最後には「援助交際」という名の売春や、乱れた男女交際へと落込んでいってしまう。実際にこういうケースは数多く存在する。
一度そのような泥沼に落込んだら、這い上がるのは大変だ。そこには、真実の愛などあるはずもなく、満たされぬ思いを抱きつつ、次から次へと相手を変えていく、虚しい世界があるだけである。こうしたフリーセックスの世界においては、愛に対する純粋な夢や理想は完全に打ち砕かれてしまう。そして、非行や犯罪へ巻き込まれていくようになる。エイズが急激に広まりつつある現代においては、実際に感染してしまう可能性も高くなる。
フリーセックスの悪影響
フリーセックスは、肉体的な面だけ見ると大して悪いことではないようにも思える。エイズ感染や妊娠を防げば誰と性関係を結ぼうが自由ではないか、という論理である。しかし、本当にそうであろうか。実際、それは精神的な面で多大な悪影響を持っているのである。
かつてフリーセックスの“先進国”のようにいわれた北欧諸国では、性が開放された結果、家庭の崩壊が進んだ。セックスを単に快楽の手段として楽しむことで、子供を育てる努力の放棄や、不倫、離婚などが増大したのである。
性を単に快楽としてとらえることは、麻薬を使用するのと同じように危険なことだ。一度麻薬を使い、その味をしめれば、二回、三回と麻薬を使ってしまう。性についても似たような面がある。快楽としての性に一度はまりこんでしまえば、二度、三度とどんどんはまってしまう。最後に待ち構えているのは、愛に対して完全に冷めてしまった心と、それに伴う自己崩壊だけだ。
このように、フリーセックスは家庭の崩壊をもたらす大きな原因の一つだ。そして家庭の崩壊は、子供の非行や犯罪を助長しフリーセックスに拍車をかける。その結果、また家庭の崩壊が進む。まさに悪循環である。
愛や性は次世代のために
この悪循環を断ち切るためには、家庭の再建が重要である。健全な家庭から健全な社会は生まれてくる。
そして、家庭の再建は夫婦愛の再建から始めなくてはならない。そのためには、結婚する前から、愛や性に対する考え方をしっかりと持たなければならないことになる。つまり、愛や性は自分たちのためだけにあるのみならず、次世代を産み育てる家庭を築いていくために存在しているという自覚である。だから、安易な性関係に陥ることは避け、将来の結婚相手のために身を清く保つ努力をすべきだという結論になる。
中世ヨーロッパの教会では次のように言われていたという。「結婚するなら、一生その人と暮らしなさい。それができないのなら、やめてしまいなさい」。家庭崩壊やそれに伴う犯罪の増加、エイズなどの問題を前に、この言葉は現代的な意義をもって私たちに語りかけてくるのではないだろうか。
精神的な価値観の再建を
現代は、旧来の倫理や道徳が崩壊した時代といわれる。その状況が現代らしいとさえ思われている。
そういった中、学校では唯物論的な教育が横行している。子供が一番関心を持っていることは、友情や愛、性のあり方である。しかし、それらについて学校は何も教えてはくれない。あるいは、性に関する物質的、生理学的な説明を“科学的”と称して学校教育に導入しようとする動向もある。精神的な価値観を学校へ持込もうとすると、それはドグマの押し付けだ、と批判される。
だが、私たちは、精神的な価値観を失いつつあることをこそ、反省すべきではなかろうか。二十一世紀に向けて、私たちに与えられた大きな課題は、新しい精神的価値観、新しい倫理・道徳を構築していくことである。さもなければ、家庭崩壊や犯罪の増加、性の乱れはさらに進行し、社会は本当に混乱していくに違いない。
今、純潔がトレンディー(9) 1996年4月15日号
”性”と”愛”の分離の行く末は…
現代は、精神不在の時代といわれる。科学が発達し、人間社会の生活は非常に便利で豊かになったが、はたして心は本当に満足しているだろうか。そのような心の隙間に、愛を失った性、いわゆる“フリーセックス”が忍び込んでくる。その源は六十年代のアメリカでの性開放にある。今回は、その性開放にはどのような思想的背景があるのかを探ってみることにする。
性の開放とライヒの性理論
アメリカでは、六十年代の後半に性開放がおこったが、そこで大きな思想的役割を果たした人物がいた。それは、ウイルヘルム・ライヒだ。
彼はフロイトに傾倒しその弟子となったが、後にフロイトと離反。その後の彼は、独自の理論を展開していくことになる。その中に、性開放に大きな影響を与えたといわれる『オルガスム理論』(一九二三)がある。性の快楽が人間の経験の中心であり、人生の幸福を決定するという内容のものだ。
彼は、一九二七年にオーストリアの共産党に入党している。それは彼が、熱烈な共産主義者であったことを示している。それゆえに彼は、マルクス主義と精神分析学の統合をめざしていた。性というものを唯物論的に解釈し、共産主義の思想と結びつけようと力を傾けていった。
ライヒはこう考えた。性欲を全て開放したら、人間は素晴らしい存在になる、と。『若者の性的闘争』というパンフレットの中で彼は、性的満足が社会主義の第一目標だと宣言した。幸福な社会を築くためには、性の開放が絶対に必要だと主張した。
だが、彼の思想は、共産主義者の中でも理解が得られなかった。しまいには共産党を除名され、ソ連をはじめとして各国を流転するようになる。そして、一九三九年にアメリカに渡った。
唯物思想と愛なき性の台頭
六十年代までのアメリカでは、性的なモラルはむしろ日本よりも厳格なほどだった。ところが、社会を強く引き締めていたキリスト教会の力が、六十年代から段々と衰えていった。今まで罪悪視されてきた離婚や薬物の乱用、異常性愛というものが一気に出てきて、歯止めがきかなくなった。
そのような既成価値観の崩壊を埋め合せたのは、唯物的な思想だった。性に対する価値観も崩壊する。純潔を守り、家庭を築くことは神の意思にかなっているという信念が薄れ、誰とセックスをしようと誰と結婚しようと個人の自由ではないかという利己主義的な考え方が支配的になってきた。
ライヒの思想は、そのようなアメリカの中に次第に入り込んでいき、六十年代の性開放の理論的支柱の一つとなったのである。ライヒの理論は、当時の個人主義的な風潮の中で歓迎を受けた。なぜなら、性の快楽を自由に享受することが人間の解放であり、幸福の源泉であると説いているからだ。だが、彼の性理論は愛なき性を説いており、姿を巧妙に変えた唯物思想に他ならなかった。
アメリカ社会の退廃
アメリカの性開放が、いかに現代の社会に大きな傷跡を残しているかは、多く論じてきた。フリーセックスによる性の乱れは、結婚前の男女間の出来事に留まらない。結婚後には、貞操感の喪失や夫婦間の愛情不信という問題がおこりやすくなる。そして、離婚率は増大する。
片親の家庭では、経済的にも不安定になりやすく、子供も親の愛や教育を十分に受けるのが難しくなってしまう。それは、非行に走りやすい子供を生み出す最大の原因となる。今のアメリカがまさにそれである。
第二次大戦後、戦争で疲弊した世界において、アメリカは世界の憧れの的だった。都市にそびえ立つスカイスクレーパー(摩天楼)は、アメリカの夢の成就であり、「スーパーマン」の精神は、世界の正義のために犠牲を惜しまないアメリカの象徴だった。
だが、今のアメリカはどうか。殺人、麻薬、暴動、離婚、幼児虐待、誘拐、ティーンエイジャーの妊娠等、アメリカから流れ出るニュースは、信じられないものが多くある。倫理感や道徳性の退廃や、犯罪の増加は目を覆う外ない。もし何の手立ても講じないとするならば、アメリカ文化の影響をもろに受けやすい日本の若者が、アメリカの後追いをするのは目に見えている。
人間が有する精神の尊厳性
さて、このライヒの思想の大きな間違いは、性の物質的な側面のみを説いている点にあるといわなければならない。性は、決して単なる肉体的な結びつきを意味しない。それはきわめて精神的・人格的な行為であり、人間の幸不幸に決定的影響を及ぼす。性は快楽さえ得られればそれで幸福になれるという安易なものでは決してない。人間は単に物質レベルで全て解釈できる存在ではないのだ。
人間には、否定のできない精神の尊厳性がある。それは、宗教や哲学といったものに端的にあらわれている。
たとえば世界の三大宗教といわれる仏教、キリスト教、イスラム教は、いずれも出発は一人の人間からだった。
もしこれらの宗教が、お金や権力の力で築き上げられたものだとしたら、時代や国をこえて現代まで人々の心を引きつけてくることができただろうか。人間の良心が共鳴し、感動する内容を含むものだからこそ、多くの人に今も受け継がれていると考えるべきであろう。
イエスや釈迦などの教えは、個人的な次元の救いから出発するものであり、社会変革においては極めて頼りないようにも思われる。だが、歴史を振り返ってみると、それが世界を動かす力の根底にあったという、紛れもない事実がある。
こう考えると、人間の心には良心や仏性と呼ばれる精神の尊厳性の源があると考えざるを得ない。だから私たちは、愛や善について論じることなしに、人生を送ることはできない。
人間には自由意思が存在している。そして自分の良心の声に従って、愛や善を行う力がある。そこにこそ人間の一番の貴さがあるのではなかろうか。だから私たちは、自分の良心の声に耳を傾け、それに従って生きることにこそ人生最大の価値を見出すべきだ。
ライヒの性理論は性から愛を分離させてしまった。そしてそれは、限界を迎えている。私たちは今一度、愛と性の関係について考えるべき時代に突入しているのだ。
今、純潔がトレンディー(10) 1996年4月25日号
キリスト教における愛と性
大学生にとって関心のある問題は何だろうか。学業や就職などに関心を寄せている人はもちろん多いだろう。しかし、友情や愛情といった精神的な問題に関心をもっている人も多いことと思う。この特集では、特に一番の関心事であると思われる、男女の愛の理想的な姿とは何なのか、それを探っていきたいと思う。
これまで、愛や性の現代的な在り方を見てきた。現代は愛と性が分離した時代であり、性の解放が進んでいることを見てきた。それに伴い、深刻な問題も起こってきている。たとえばアメリカでは、性体験の低年齢化が極度に進行し、十代の妊娠や未婚の母の増加が問題となっている。また、エイズなどの性病の蔓延や離婚率の増加など、社会にとって頭の痛い問題が誘発されてきた。
歴史的に見て、現代の性のあり方はどうなのか。これを考察してみるために、過去の性や愛に対する思想を見てみることにしよう。今回は、欧米の価値観の根底をなしている、キリスト教の思想をみてみたい。
聖書における愛と性
キリスト教の正典である聖書には、こう書いてある。「それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。人とその妻とは、ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった」(創世記第二章)。この言葉から、キリスト教では、結婚は神の定めた神聖な秩序であり、本来の性は神に祝福された清いものであるととらえられてきた。
だが、現実の男女の愛は清いものばかりではない。男女の愛の行為は卑しいものだという潜在的な意識が、我々には意外と根強く存在している。
この原因をキリスト教では、人間が堕落することによって、性に罪の要素が含まれたためだと解釈する。だから、性を道徳的な意志によって統御し、神のみ旨に沿うように行使すべきであると考えられてきた。
創世記には有名な失楽園の物語がある。神から取って食べてはならないと命令されていた“善悪を知る木”の実を、エバが取って食べ、アダムにも与えた。「すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた」(創世記第三章)というのである。そして二人は、神により楽園を追放されてしまった。
これが人類最初の罪であり、全ての罪の根となっている「原罪」であるとキリスト教では説く。この話には、どことなく性的な要素が含まれている。実際、四世紀の神学者アウグスティヌスは原罪と性欲を同一視する解釈を行い、性を媒介に罪が全人類に及んでいると考えた。
また、イエスはこう言っている。「だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである」(マタイによる福音書第五章)。この言葉にも、男女の愛は清くあらねばならないという純潔重視の思想が表われている。
以上のような流れを受け、カトリック教会では聖職者の独身制を確立してきた。結婚よりも、童貞という徳の優越性が認められてきたのである。
中世における愛と性の調和
だが十二世紀に入ると、より広く結婚の意義が認められるようになる。結婚がサクラメント(救いの秘蹟)として認定された。つまり、教会による結婚を通じて、信徒は救いの恩寵を受けるとされるようになった。
しかし、ここで勘違いしてはいけないのは、結婚といってもそれは一夫一婦制を厳格に守るという前提があったことだ。好きなときに結婚し、嫌いになったら離婚するということは基本的には認められなかった。
たとえば、既婚者が他の人と不倫をしようものなら、修道院に一生閉じ込められるなどの厳しい社会的制裁が加えられた。中世の騎士道では恋愛が讃美されたりもしたが、これは決して現代のような肉体関係を伴うような愛を指すものではない。今でいう、純愛に近いものであり、上流階級の夫人に捧げる精神的な愛を指すものだった。
快楽のための性ではなく、子孫を増やすための性という一点において、男女の結婚に宗教的な意義を認めていた。そのような性は、神の祝福であると考えていたのである。
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中世までのキリスト教の性に対する思想は、以上まとめると次の通りだ。つまり、肉体的な「性」よりも、精神的な「愛」がより主体であり、両者はお互いに補完的な関係にあると考えられていた。精神の優位性を認めながらも、精神の愛と肉体の愛の調和をはかろうとしていたのである。
次回は、近世に入り、キリスト教社会における性に対する価値観がどう変遷していったか、それが現代にどのような影響を及ぼしているのかを探ってみたい。
今、純潔がトレンディー(11) 1996年5月5日号
フロイト思想の功罪
前回は、中世のキリスト教の愛と性に対する思想を見てきた。そこでは、精神の愛を重要視しながらも、肉体と精神の愛の調和を重んじる結婚観が唱えられていたことを知った。現代は、愛と性が分離してとらえられがちな時代であるが、近世に入りどのように愛や性に対する考え方が変わっていったのか、それを探ることにしよう。
なぜ、現代は愛が冷めてしまったのか。その原因はいろいろあるだろう。一つには、唯物論的な思想が広く人々の心に影響を与えていることがあげられる。
唯物論的な思想が起こったのは、ヨーロッパであり、それはキリスト教的な思想に対するアンチテーゼとして起こってきたものである。ニーチェの「神は死んだ」という言葉に象徴されるように、近世のキリスト教は現実世界に山積みとなった諸問題に対し、何ら具体的な解決策を示せなくなっていた。
それは、中世のキリスト教会の堕落に端を発する。その歴史を具体的に見てみることにする。
教会権力の
拡大と腐敗
中世ヨーロッパは、現代よりも宗教的な価値観が強く生活の中に現れていた時代だった。人生の最終目標は神の掟にしたがって生きることであり、愛や性も神の意志にかなったものにするべく、一夫一婦制や貞節が厳格に守られる時代だった。
中世の社会におけるローマ教皇の権力は絶対的なものだった。それは、ドイツ皇帝ヘンリー四世を戸外に三日間も裸足で立たせ、教皇に許しを乞わさせたというカノッサの屈辱事件(一〇七七)の逸話にも表れている。
だが、教会の世俗的権力の増大は、キリスト教会内部の腐敗をもたらすようになる。司教や修道院長といった高い宗教的地位が金で売買されたり、聖職者が妾を持つことが普通のことになるなど、信仰の形骸化が進んでいった。教会はもはや、民衆の信仰の教導者としての役割を果たせなくなってしまった。
プロテスタン
ト運動の波及
その状況を打開しようという気運はつのり、ついには宗教改革という形で燃え上がる。ルターは、教会を通さずとも、聖書を通して各人が直接に神を求めることができると説き、プロテスタントを起こした。
各国にプロテスタント運動は波及したが、英国では清教徒という集団が形成されるようになった。彼らは、信仰と生活の清純を保とうとした熱烈な信仰者であり、性に対する考え方は非常に厳格であった。そこでは、禁欲が美徳とされた。
キリスト教の
矛盾の露呈
それが十九世紀のヴィクトリア時代に入ると、矛盾をきたしはじめる。表面上は紳士や淑女として振る舞いながらも、心の底に淫らな思いを秘めているような、偽善さが目立つようになった。その頃のキリスト教道徳は、ニーチェが奴隷道徳と批判するほど、形骸化し無力化してきていたのである。来世主義的、肉欲否定的なキリスト教思想は限界に達していたといえる。
フロイトのリ
ビドー論台頭
そして、このキリスト教思想に壊滅的な打撃を与えたのが、フロイトのリビドー論であった。
彼は、人間の精神を分析し、「無意識」の存在を明らかにした。そして、無意識の衝動の根本に、性のエネルギーがあると主張した。これがリビドー論である。彼によれば、愛は性的満足と同じものであり、それが意識に投影されたものにすぎない。
フロイトのリビドー論は、人間の精神は愛ではなく、性の衝動に突き動かされているのだという点で、キリスト教的な思想に真っ向から対立する。そして実際、ヴィクトリア時代の形骸化した、封建的な性道徳を打ち砕く上で大きな役割を果たした。その“功績”は評価されていいだろう。
いきすぎた唯
物思想の適用
だが、問題はそのあとである。キリスト教の形骸化した宗教的・精神的権威はもはやほとんど失墜してしまったこの二十世紀後半の時代にもかかわらず、一部の人々は今なおフロイトの思想をもちいて、あらゆる精神的権威への攻撃を続けているのである。
たとえば、前回取り上げたライヒは、人間の精神の尊厳性を全く否定し、肉体の快楽だけを重視する性理論を作り出した。そのため、性の解放が無制限に行われることになった。このようなフリーセックスの風潮が、現代の社会に大きな問題を生み出していることは何回も論じてきた通りである。
フロイト自身は、決して精神の尊厳性を否定してはいなかった。彼は、キリスト教の偽善的な性道徳に批判を加えたに過ぎないのであり、精神の尊厳性そのものを否定する唯物論や、フリーセックス的な放縦な性がいいとは考えていなかった。
もし、人間がありとあらゆる精神の尊厳性を、物質的なレベルで説明することで地に投げ落とすことを続けていくならば、本当に私たちの社会には希望がないであろう。このような時代だからこそ、今まで以上に愛と性についてより深い考察がなされるべきである。
次回は、唯物的な思想が、いかに現代の愛を冷めさせる原因になったか、それをみていくことにしよう。
今、純潔がトレンディー(12) 1996年5月15日号
「しらけ」を生んだ唯物論
六十年代後半、アメリカで性開放の嵐が吹き荒れたのは、唯物論的に性をとらえる思想が背後に広がっていたことが一つの原因となった。その源流は、フロイトのリビドー論にあるが、これがライヒなどに利用されフリーセックス礼賛の思想が形成された。今回は、唯物論的な性のとらえかたがなぜ人間にマイナスとなるのか、それをみていきたい。
フロイトは、人間の心に「無意識」といわれる領域があることをあきらかにした。そしてその無意識の根本には、性の衝動のエネルギーがあるとして、多くの臨床例をもとにこれを説明した。
この思想は後にライヒにより、性の衝動のエネルギーを無制限に解放することによって人間は幸せになれるのだ、という思想へと形を変えていった。それが性開放の理論的なバックボーンの一つとなった。
フロイト思想
の時代的側面
だが、フロイトの思想は、時代的な背景が色濃く反映されているということに注意しなければならない。アメリカの社会心理学者エーリッヒ・フロムはこう言っている。「フロイトの思想はある程度十九世紀の精神の影響を受けているし、またフロイトの思想が流行したのも、第一次世界大戦のおかげなのである」(『愛するということ』より)。
そしてフロムは、フロイトの思想が流行した背景をこう分析する。
第一に、フロイトの思想は形式的で厳格なヴィクトリア時代の性道徳に対する反動であった。
第二に、その当時の資本主義の構造に基づいた人間観があった。資本主義の正当性を主張するために、人間は本来競争心が強く、他の人間に対する敵意にあふれていることを示す思想が、当時、歓迎される風潮にあったのである。フロイトは、男はすべての女を性的に征服したいという欲望に衝き動かされているという仮説を立てて、理論を展開していった。
第三に、フロイトは十九世紀的な唯物論の影響を大きく受けている。フロイトは、あらゆる心理的な現象(愛・憎しみ・嫉妬など)のもとは生理現象になかにあるとし、それを性的本能で説明するリビドー論を打ち出すことになった。
唯物論による
精神への攻撃
このようなフロイトの思想は、形骸化した封建的な性道徳を打ち砕くのに大きく貢献した。だが、現代においてもなお、フロイトの思想を用いてあらゆる倫理的、道徳的価値観に対する攻撃を続けている人たちがいる。これは、大きな問題点を含んでいる。なぜならば、フロイトの理論はすべての高貴な精神性を“性”という本能のレベルに還元してしまうからである。
これは、すべてを物質的なレベルで説明しようとする唯物論と結びついて、現代人に深刻な影響を与えている。
第一に、現代人はあらゆる精神的価値観に対して冷めてしまった。それらは自分さえ良ければいいという利己主義的な風潮や、無気力、無関心、無感動という三無主義的な「しらけた」心理を生み出した。現代では、あらゆる理想主義や精神主義は否定される傾向にある。人々は、未来を目指して創造的、実践的に生活しようという意欲を失ってしまっている。
第二に、性に関する考え方が非常に変化した。昔は性を恐れ、性を秘しかくすような禁欲的な傾向があったが、現代は性を白昼でむきだしにするような快楽主義的な傾向が横行している。今日においては、人はもはや性にいかなる神秘も驚きも感じない。性教育は、科学的に性器や生殖を説明することにのみ終始し、単なる「性器教育」となってしまった。そのため、性は愛を切り離し、単なる性器的結合のみを目指すようになった。それはフリーセックスの風潮となって私たちに強い影響を与えている。
現代の「しら
け」を越えて
だが、この現代的「しらけ」の状況は、本当に私たちを幸せにしてくれるものだろうか。高い理想を失った人生は、目の前に与えられた仕事や勉強をこなすことに追われ、本当の充実感は得られない。また、性をないがしろに扱うことは、愛に対する幻滅をもたらすだろう。
現代は、精神不在の時代だ。私たちは、愛や性はどのような形であるべきか、深く考えていかなければならないだろう。そして、現代の「しらけ」を越えていく道を見いだして行くことに力を傾けなければならない。
今、純潔がトレンディー(13) 1996年5月25日号
コンドーム配布は危険
最近、渋谷でラブホテルの業者が、コンドームを広告として配るということがあった。「今、純潔がトレンディー」では、アメリカの例をあげ、性の乱れが本当に深刻な影響を青少年に与えることをみてきた。コンドーム配布は、日本の若者の性の乱れに拍車をかけ、悪影響を与えることになる。今回は、この問題を取り上げたい。
街頭でのコン
ドーム配布
四月下旬のこと、渋谷で“コンドーム”が道ゆく若者たちに配られた。ラブホテルの業者が広告として配ったものだ。ティッシュを配る代わりに、コンドームを配ることで若者たちの気を引きつけようという意図が感じられる。配られたコンドームには、“STOP THE AIDS”と書かれていた。
だが、コンドーム配布は、性交渉によるエイズ感染の防止に役立つのだろうか。答えは、“否”である。
アメリカでは
すでに失敗
ニューヨークなどのアメリカの都市では、数年前からコンドームが高校生に無料配布されているという話をきいたことがある人は多いだろう。エイズや十代の妊娠、中絶といった性にかかわる社会問題を、コンドームの普及によって防ごうというのが目的だった。
だが、結論からいうと、それは不成功だった。そろどころか、かえって若者の性に関する問題を増加させる原因にさえなったのである。
サンフランシスコの高校では一年間、コンドーム教育をし、欲しいという生徒には誰にでも渡した。だが、実際に性行為の時に常時使ったのは、男性で八%、女性で二%という結果だった。中には、コンドームをネックレス代わりに使っている生徒もいたという。彼らに取っては、コンドームは自分の命を守るもの、としてよりは単に遊び道具の一つとしてしかとらえられなかったようだ。
そして、コンドーム配布は、妊娠率の低下をほとんどもたらさなかった。ダラスではコンドームを配布した高校の方が、そうでない高校より妊娠率が五〇%高くなるという恐ろしい結果が出た。
日本では、学校でコンドームを配布する事態までは至っていない。だが、街頭でのコンドーム配布が定着すれば、学校での配布に対して抵抗感が薄れてくるおそれがある。たとえ広告の一手段であろうと、コンドームの街頭での配布は、絶対にすべきではない。
物質的手段で
は解決不能
性の問題の解決は、そんな物質的な手段でできるものではない。たとえば、いじめの多い学校があったとしよう。もし、先生がナイフを生徒に配布して、「これで身を守りなさい。そうすればいじめはなくなるだろう」といったとしたらどうなるだろうか。いじめは減るどころか、かえって凶悪化さえするようになるだろう。いじめの解決は、もっと人間性に根ざした解決を図らなければできないだろう。
性の問題も同じである。無制限な性の開放は、十代の妊娠中絶の増加、エイズ感染の増加、未婚の母の増加という大きな社会問題を生み出した。アメリカ社会は、今、その苦しみに頭を抱えているのである。そしてそれは、決してコンドーム配布といった物質的な手段では解決できない心の領域の問題である。
人類に対する
エイズの脅威
性行動の乱れは、エイズという“死に至る病”を蔓延させる最大の原因となる。
WHOのマーソン博士によれば、世界では十五秒から二十秒に一人の割合でエイズ感染者が増加しているという。毎日、四千三百二十人づつ増加し、一年間で百五十八万人のエイズウイルス感染者が出る。
九一年の段階では、WHOのエイズ増加に対する予測はまだ楽観的なものだった。今世紀末までにエイズ感染者は、四千万人くらいになるだろうと考えていた。だが、現在ではこの予測は上方修正されている。ハーバード大学・国際エイズセンターの予測では、二〇〇〇年に一億二千万人、すなわち五十人に一人が感染するという。また、同大学のダナファーバーガン研究所ヘーゼルシュタイン部長は、二〇一〇年にはエイズ感染者は十億人に達するという、恐るべき予測を出している。
エイズ時代の
性のあり方
エイズという性病は、いったいどのような時代的変化をもたらしたか。端的にいうと、特定の人間同士しか安心して性的な関係が持てない時代、それを犯すと死を背負い込むという危険性が出てくる時代を到来させたといえる。
日本のエイズ研究の第一人者である元国立予防衛生研究所の北村敬博士は、エイズの増加についてこう述べている。「これは単なるモラルの問題ではなく、人類の生存にかかわる大きな問題なのかも知れません」(『エイズからあなたを守る本』より)。
愛と性は、人間の幸福にとって大きな要素の一つであるだろう。だからこそ、大学生である今、純潔を本当に大切にし、自分と将来の配偶者のために人格の向上に努めるべきであろう。
今、純潔がトレンディー(14) 1996年6月15日号
慰安婦問題の解決に向けて
愛と性は、私たちの人生にとって非常に重要な問題である。愛や性は、幸福の最大の源泉であると同時に、方向性を誤まれば人を最も不幸にする力があるからだ。今回は、従軍慰安婦の問題を取り上げ、これについて考えてみたい。
未解決な従軍
慰安婦の問題
太平洋戦争…。それは、日本がかつて経験した最大の戦争である。だが、まだ本当の戦後が訪れていない人たちがいる。それは、かつての軍慰安所に収容されていた、元従軍慰安婦たちである。
一九九一年十二月、三人の韓国人元従軍慰安婦が、日本政府を相手取り、東京地裁に提訴した。従軍慰安婦問題について、日本政府の謝罪と補償を求めたものであった。それは、身内がすべて亡くなり、社会的に冷ややかな目で見られる存在が自分だけになるのを数十年も待っての行動だった。ただ一人本名で名乗り出た金学順(キムハクスン)女史は、「日本軍に踏みつけられ、一生を惨めに過ごしたことを訴えたかったのです。日本や韓国の若者たちに、日本が過去にやったことを知ってほしい」とその心情を吐露した。
性欲のはけ口
だった慰安所
戦争は、異常事態である。戦争が起きると、侵略された地域の女性が強姦される事件が多発する。太平洋戦争もまた例外ではなかった。だが、戦争であろうと平時であろうと、強姦という行為は犯罪である。
日本軍は、なぜ慰安所を設置したのだろうか。それは、兵士の性欲のはけ口を提供し、戦地での強姦事件を防止するためであった。だが、それは実際のところ、強姦事件の防止には役立たなかった。強姦事件を防止するどころか、日本は現在までも尾を引くもっと重大な過ちを犯してしまった。それは占領地の住民を、強制的に慰安婦にするという過ちである。
暴力的に集め
られた女性達
慰安婦たちの多くは、自由意志で来たのではなかった。しかもそのほとんどは、日本人ではなかったのである。
慰安婦たちの出身地は、朝鮮が圧倒的に多かった。その徴集にあたっては、だまされて連行された場合が多いという。一九四四年頃の朝鮮では「十四才以上の未婚の女性はすべて動員されるだけでなく、慰安婦にされる」という噂が広がっていたほどだ。実際、朝鮮の人達は男は強制労働に、女は慰安婦へとかり出されていった。他にも台湾やフィリピン、インドネシア、オランダの女性が、朝鮮女性に比べてごく少数ではあったが、ほぼ暴力的に連行され、慰安婦にされた。
彼女達に残
された苦痛
慰安婦たちの生活は、性的奴隷の一言に尽きる。性交を強要され、暴力を受けたりもした。苦痛に耐えながら、一日に何十人と相手をしなければならず、生き地獄そのものであった。自殺を図って亡くなったり、逃亡を試みて失敗し、殺されたりした人も多い。
さらに、彼女たちは悲惨な戦後生活を送っている。性病にかかり、子供を産めない体になった人は多い。だが、そのような肉体的苦痛以上に大きいのは、精神的苦痛の方である。
あるフィリピン人慰安婦は、一週間の拘禁の後、逃亡して自宅に返ったが、ショックのあまり数か月も呆然とする生活をしていたという。また、夫から「不潔な女だ」と言われ、家族からも汚ないものを見るように見下されていたという、悲痛な訴えもある。
そのような心の痛みが癒されないまま、戦後五十年たった今でも苦しみを抱えている女性たちは数多い。
若い人たちも
責任を持とう
従軍慰安婦という性的奴隷制度は、朝鮮の人をはじめ、アジアの人たちに大きな傷跡を残した。だが、日本人の海外売春ツアーや「ジャパゆき」さんなどを見ていると、現代でも本質はあまり変わっていないように思えてくる。いずれも女性の人格を無視し、女性を単にモノとしてしか扱っていないという点で同じである。
もちろん、今の若い日本人に、従軍慰安婦問題の直接的な責任を問うことはできない。しかし、心情的なレベルで未解決なままになっている過去の問題を、現在において引き継いでいる者として、その歴史的、連帯的な“罪”を未来に向けて清算してゆくべき責任を免れることもできない。
それは、ナチスの過ちに対して、ヴァイツゼッカー元大統領が演説した如くである。すなわち、“過去に目を閉ざす者は、結局のところ現在に盲目となる”からだ。
新しい日本を
作るために
私たちは、従軍慰安婦問題の賠償は既に済んだ、と言うことはできない。さらなる真相解明と、被害者への個人的な謝罪と賠償をする必要があるだろう。過去の過ちは過ちとして明確に認め、それを繰り返さないための歴史教育、人権教育なども進める必要がある。
だが、もっと根本的に大切なことがある。それは、私たち一人一人が歴史を直視し、素直に“悔い改める”ような心を持つことだ。それはすなわち、過去の過ちは過ちであったと素直に認めるのみならず、“二度とこのような過ちは繰り返さない”と、一〇〇%改心するような基準だ。
過ちを認めることは、恥ずかしいことではない。それは、真の道徳的勇気を必要とする行為だ。その行為をなすことができれば、アジアの友は必ずや私たちを温かく迎えてくれるであろう。そうすることにより、日本は真に尊敬される国としてアジアのリーダーとなることができるだろう。
二十一世紀を目前に控えた今、二十世紀の暗闇を越えて、新しい日本を作るために前進していきたい。
今、純潔がトレンディー(15) 1996年6月25日号
魔女狩りに見る女性蔑視
求められる真の女性観
一九六〇年代、アメリカで始まった性開放運動。これは、封建的な性道徳からの自由を求めて、若者たちが起こした運動だ。この運動は、フリーセックスの風潮を社会に生み出し、多くの深刻な社会問題の元凶となった。離婚や片親家庭の増加、それに伴う貧困の増加や子供の非行化。今回は、それとは逆に、中世ヨーロッパに起こった「魔女狩り」を見ながら、性の極度の禁圧がどのようなことをもたらしたか、それを考察してみよう。
性的放縦を容
認する現代
現代の性に対する風潮は、「性は、個人が自由に扱ってもいい」というものだ。だから、婚前交渉が当たり前になったり、結婚を目的としない異性関係を結ぶことがそんなに咎められないような風潮が、若者たちの間では支配的だ。
このような風潮は、戦前の封建的な“家”概念に対する反発、封建的純潔思想への反動からきているものと思われる。世界の歴史を見渡しても、性開放思想は中世のキリスト教とピューリタニズムの失敗の産物であると言えよう。
暗黒の史実
“魔女狩り”
中世キリスト教の性の歴史には、暗黒の部分がある。それは「魔女狩り」という歴史的事件だ。
中世の教会会議は、「女を人間とみなすことができるか、女は霊魂をもっているか?」という問題を真剣に論じていた。このような論議は、今からすると異常なものだ。女性が男を堕落へ誘うものとみなし、魔女という概念が生まれてきた。“悪魔と交わった女”を捜し出し、拷問し、魔女裁判の法廷にもちこんで、火あぶりの刑を宣告した。
なぜ、この“性的倒錯”ともいえるような魔女狩りが、中世ヨーロッパで行われるようになったのだろうか。それは、女性を真に愛する方法を、男性たちが見失ったからである。魔女狩りとは、女性の性的魅力を悪魔の力と捉え、女性を殺すことによって身を守ろうとした、男性たちのエゴであった。
イエスが教え
た真の異性愛
キリスト教は、最初から女性を蔑視する思想を内包していたのだろうか。イエス=キリスト自身は、女性問題に対し、こう言った。「情欲を抱いて女を見る者は既に姦淫を犯したのである」。この言葉を守れる男性は、ほとんどいない。だが、イエスは一般の男性の情欲の思いを知らなかったはずはなかろう。イエスは、「お前たちの異性愛は全て姦淫、即ち偽りの愛である」と指摘したかったのだ。
イエスの女性に対する態度は、拒絶ではなかった。当時のユダヤの律法では、姦淫は石打刑だった。だが、イエスは姦淫の女を目の前にして、「お前たちのうち、罪がないと思うものから打て」と言った。すると、老人から去って、皆いなくなってしまった。イエスは娼婦の女をこのように許したばかりか、彼女らの存在を拒まなかった。
イエスの教えたかったことは、異性からの逃避による性欲の抑圧ではなく、真の愛を知って性欲と異性を自然な形でコントロールできるようになることだった。イエスは、自分の愛が偽りであることを自覚し、イエス自身が示した愛に近づく努力をせよ、と言いたかったのだ。実際、初期のキリスト教では清い男女の兄弟愛が見られたという。
魔女狩りと
性開放は同根
では、中世の教会が犯した過ちは何であったのか。それは異性をイエスの示した愛で愛することができなかったという現実に負け、異性愛を抑圧するという安易な道へ流れたことだった。それが行き着くところまで行って、禁欲思想のなれの果てともいえる魔女狩りという問題を生んだ。
その禁欲思想に対する反動が、現代になってライヒのような逆の極の性解放思想となって現われた。両者とも真の愛で性をコントロールすることを避けている点で、本質は同じだからだ。異性の誘惑が問題なのではなく、自分がイエスの示した神の愛を知り、その真なる愛で異性を愛するように、努力することが大切だ。
私たちが、上のような歴史の事実に立脚した時、どう捉えるべきだろうか。ニヒリズムだろうか、創造的努力だろうか。おそらく、二十世紀末というこの時代ほど、真の愛を必要としている時代はないだろう。私たちは、真の愛と性のあり方を問い尋ね、歩いていこう。
今、純潔がトレンディー(16) 1996年7月15日号
結婚
人格の基礎は家庭愛から
結婚とは何だろうか。結婚は人生の中で、最も重要な選択の時である。一生を共にする伴侶を決めることは、簡単なことではない。また結婚は家庭の出発点でもあり、子供にとっては大切な成長の場でもある。結婚と家庭について、今回はとりあげてみたい。
性モラルの低下と家庭崩壊
結婚は、男女の間の結びつきをつくるのみならず、家庭の出発点でもある。子供が生まれ、青年に育つまで家庭は重要な役割を果たす。だから、どのような相手と結婚するか、という問題は自分にとっても、また相手にとっても、また生まれてくる子供にとっても非常に重要な問題である。
最近は、お見合いよりも恋愛で結婚に至るカップルが圧倒的に多い。選択の幅が増えたことは大いに結構なことだ。だが、恋愛主義が行き過ぎると、結婚前に多くの異性と性関係を持つことが、よい配偶者を見つけるためには必要だ、という考えも生まれてくるようになる。
だが、そのような風潮は性のモラルの低下をもたらし、中絶や未婚の母、エイズなどの性病の増加を招きやすい。事実アメリカでは性のモラルの頽廃が極度に進行し、不倫や家庭崩壊が増加した。青少年の犯罪の増加は、この家庭の崩壊が大きな原因となっている。
だが、そのような恋愛主義の限界を見せつけられても、今さら昔のような封建的な結婚スタイルに戻ることはできないではないか、と反駁する方もおられよう。そこで、伝統的な結婚観はどのようなものであったかを見渡し、現代における結婚の意義を見いだしてみたい。
伝統的宗教に共通の結婚観
日本の文化は仏教から大きな影響を受けてきた。初期の仏教では性交渉は不純で、清浄を損なうものと見なされた。そして苦行が性の欲望を抑える唯一の手段であるとも教えられた。しかし、仏陀はまた、極端な禁欲や極端な快楽主義の両端を避け、中道をいきなさいとも教えている。
また、キリスト教ではどうか。イエスは「神が合わせられたものを、人は離してはならない」として、結婚の神聖性を認めている。だが、一方で情欲の思いで女を見ることも姦淫だとして、性倫理に対して厳格な教えも説いた。
イスラム教の開祖、マホメットは結婚をどう見ていたか。彼は「汝らのうち最善の者は、その妻を最も善く処遇する者である」と言った。性交渉は夫婦においてのみ認められており、婚前あるいは婚外交渉は厳しく禁止されている。
このような各宗教の結婚観は、その後の歴史において、結婚観を形成する核のような役割を果たした。上にあげた各宗教の結婚観に共通するのは、“結婚は人類に与えられた祝福であるが、結婚相手以外との性交渉は厳しく禁止している”点だ。
それは人間に対する深い宗教的洞察から得た結論であろう。その教えを守ることは私たちを幸福へと誘ってくれるが、それを守らなければ不幸になるというメッセージが込められているように思われる。このような結婚観は後世、封建的社会の維持のために利用されたが、それをもって伝統的結婚観の全てを否定するのは的外れといえる。
家庭は子供の愛の学校
では、現代における結婚の意義はどう捉えるべきだろうか。それは、“家庭は社会の基礎単位である”と位置づけることから出発しなければならないだろう。
現代は個人主義が行き過ぎて、個人の権利を主張するあまり、他人や家族のことをともすればおろそかにしがちになる。だが、人は一人で生きていくのではない。人は生まれた時にまず父親や母親から愛を受け、家庭の中で育っていく。“つ子の魂、百まで”いう言葉に象徴されるように、赤ん坊の時に両親から十分に愛されることが、その人にとって何よりも大切な人格的土台になる。
最近はいじめの事件が多発している。だがよく調べてみると、いじめる側の子供の家庭は、両親が別居とか離婚しているというケースが非常に多い。十分に親の愛を受けられず、その恨みが弱い者じめという形で噴出していると言えなくもない。子供の人格的成長にとって、家庭愛は非常に重要な役割を担っている。家庭はまさに、愛の学校なのだ。
家庭愛が人類愛のひな形
人生を愛という観点で区分けしてみるならば、まず親の愛を受ける時代、次に友愛を育む時代、そして結婚して夫婦愛を育てる時代、最後に子供や孫を親として愛する時代の四段階に分かれる。その一つ一つの根底には家庭愛がある。そしてこの家庭愛こそが人類愛のひな形であるといえよう。
二十一世紀は、個人主義から家庭主義へ大きく飛躍していく時代としなければならない。家庭がしっかり立てば、いじめや犯罪の増加といった社会の問題も自然と減ってくるに違いない。そのような家庭主義の観点に立つ時、結婚の意義が見えてくるし、人生の意義というものが見えてくるのではなかろうか。
今、純潔がトレンディー(17) 1996年7月25日号
新純潔宣言(最終回)
――生命より尊い愛と性――
今、純潔がトレンディーもいよいよ最終回を迎える。この連載の主張に対して、その通りだと納得された方も多くいらっしゃっただろうし、逆にさまざまな疑問を持ちながら反発するような思いで読まれていた方も多くいらっしゃったかもしれない。ともあれ、この連載に対して寄せられた賛否両論の意見の多さは、愛や性の問題に対する現代人の関心の高さを裏付けており、今後も継続して掘り下げ考察すべきテーマと言えるだろう。今回は、愛と性に関わる新しい価値観について考え、それをまとめることで最終回としたい。
性開放が生ん
だ数々の問題
現代は、性に対するモラル意識が非常に希薄になってきている時代と言える。フリーセックスの風潮はアメリカの性開放運動に端を発し、今や世界中に広まった。日本も例外ではなく、フリーセックスこそがトレンディーというような風潮は、特に若者の間で浸透してきている。
だが、それは結果的に未婚の母や十代の妊娠中絶の増加、エイズなどの性病の蔓延など、数多くの深刻な問題をもたらした。その最先鋒が、世界に先駆けて性開放の壮大な実験を行ったアメリカだ。その数多くの残念な例は、今まで何度も見てきた通りだ。
エイズという病気は、単なる性病という以上に、人類に対する重大なメッセージを秘めた病気だと考えられる。すなわち、自分の結婚相手以外の人と性関係をもつな、というメッセージだ。みだらな性的関係は命を落とす原因になりかねない。確実に感染を予防する唯一の方法は、不純な異性関係を持たず、純潔を守ることだけだ。エイズは、単に治療技術の進歩によって解決されえるものではなく、人類が性に対する意識を根本的に変革することによってしか解決しえない、という深刻な天からの警告なのではないのだろうか。
フリーセック
スと唯物論
フリーセックスは、結婚生活にも深刻な影響を与える。一人の人と時間をかけて夫婦愛や家庭愛を育むという発想よりは、新しい異性を求めることで幸福を得ようとする傾向が強まるからだ。現代のアメリカでは、家庭崩壊が多く起こり、それは少年非行や凶悪犯罪の増加などを引き起こす元凶となっている。
フリーセックス的発想の背後には、唯物論的な思想がある。人間の精神の尊厳性を究極において否定する唯物論は、ライヒなどの極端な性開放論者を生み出した。つまるところ人間が物質の集まりであるとするならば、肉体の快楽を追求することが人間の幸福の源泉であるとするのは極めて論理的な帰結だからだ。そして、性の倫理を打ち壊し、自由に性を謳歌することが人間を幸福にするという発想が巧妙に正当化された。
フリーセック
スと利己主義
フリーセックスは、過去の封建的な性倫理に対する反発という形で現われてきた。女性だけに純潔を要求し、極めて禁欲的だった封建的性モラルの欺瞞性や偽善性を見抜いたという点では、性開放の運動にも一定の評価を与えることができるだろう。しかし、性開放によってより多くの悲惨な問題が起こってきたことを私たちはもっと認識する必要があるだろう。その一番の原因は、自分さえ幸福であればいいという利己主義が、フリーセックスの根底にあったことではではないだろうか。
フリーセックスは、家庭を軽視する価値観を生んだ。愛や性を、結婚して子供を育み、良き家庭を築くための出発点だととらえるのではなく、単に自分の欲望を満たすための道具としてしてしまったからだ。そこには、次世代に対する配慮のかけらも見られない。現世代中心主義。これは、エゴイズムの一形態だ。フリーセックスに本質的に内在するこの問題を私たちは見抜き、克服しなければならない。
家庭が社会
の基本単位
家庭は、子供にとっては両親から愛を受けながら、社会生活を営むための人格を育てていく場だ。言い換えれば、愛の学校であり、社会生活の雛形を経験する場だ。本来、家庭での育んだ愛が、隣人への愛、人類愛へとつながってゆく。科学や社会制度がいくら充実しようとも、家庭がぼろぼろになってしまっては、良き社会は実現し得ない。家庭が社会の基本単位だからだ。
こういう家庭主義の観点に立つ時、愛と性に対する新しい価値観が生まれてくる。すなわち結婚するまでは、男性も女性も、個人の人格の向上を目指して友愛や兄弟愛を育むことに努力する。そして、自分の一生の伴侶となる異性と巡り合うまでは性関係をもたない。結婚してからは、一人の伴侶だけを愛し、子供を愛し、不純なる異性関係をもたない。これを「新純潔宣言」と呼ぼう。
愛と性こそが
生命の原因
シュバイツアーは「生命の畏敬」という自らの思想を実践を通じて人格化し、歴史にその名を残した。しかし、生命の原因は愛と性だ。生命が尊いのは、愛と性が尊いからなのだ。その順番を逆にしてはならないだろう。そして、愛と性によって家庭を生み育て、それを核として、お互いを尊重し愛を育み合える社会を築き上げること、それが人類の未来を明るいものにしてくれるであろう。
二十一世紀に向けて、全人類が、人種や言語、文化などの違いを越え、そして、心痛い過去の恨みや軋轢を越えて、一つの大家族として共生する世界を目指して歩んでいかなければならない。そこにこそ人類の希望がある。「人類みな兄弟」という古くて新しい価値観を今こそ再生し、本当に地球家族社会と言えるような未来を作っていくために進んで行こうではないか。
(おわり)
(東大新報・倫理問題研究班)
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