使者を殺さなかった劉備
戦闘といえば殺戮などと安易に想像され、野蛮な行為とも連想できるが、中国の古代戦争にはそういった面だけではなく、礼儀という側面もある。戦争をしても「戦争の礼儀」を守るのが大将の義務であった。
例えば「両国交兵、不斬来使」という言葉は、国と国が戦っているとはいえ、使者としてくるものは殺してはいけないということを示している。夷陵の戦いで諸葛瑾が講和使者として劉備軍に行った時、講和の条件は荊州をすべて劉備軍に返却し、夫人(劉備の夫人は孫権の妹)を劉備のもとに返し、張飛を殺害した張本人を劉備に渡すことであった。劉備は関羽と張飛の仇で、呉のすべての民を殺すことを宣言し、条件を飲まずに諸葛瑾を追い払った。「呉のすべての人間を殺す」というのに諸葛瑾を殺さずに返したのは、この「使者を殺さず」の礼儀のためである。諸葛瑾は使者として交渉しに来たのであって、戦いに来たのでも、敗戦して捕虜になったわけでもなく、殺す理由がなかったからである。もちろん使者を殺してしまう例もあるが、そのような大将は自分の部下にまで軽蔑されるぐらいに礼儀知らずなのである。
関羽軍の七割の兵力を削ぐ
このルールは実際にうまく情報探索に使われている。使者は殺されないので、使者を使って相手の軍営に入って情報を探るのは偵察隊を派遣するより危険がずっと少ない。
荊州の攻防戦で関羽が敗退し、荊州が孫権に明け渡されたのであったが、関羽の手元にはまだ数万の兵力があり、荊州奪還の決戦を行うだけの余力が残っていた。その時、陸遜が「使者の計」を利用したのである。
陸遜は関羽を説得するために使者を出したのだが、関羽は世の中でも有名な忠義の男なので、劉備を裏切って孫権に降服することはまずない。しかし陸孫の計の本意は関羽にはなく、関羽の兵士にあった。関羽の兵士はほとんど荊州から徴兵されており、当時荊州が孫権軍に落ちていたため、みんな自分の故郷と家族を心配していると陸孫は判断したのであった。そして兵士達の家を訪ね、兵士への手紙を書かせた。その数千通の手紙を使者に持たせ、関羽の軍営に行くときに密かにばらまいたのである。関羽の兵士達は手紙を見て家を思い、戦意を失って、決戦を交える前に逃亡し始め、関羽は七割の戦闘力をこの「使者の計」で失ってしまった。普通は相手の兵士に書簡を届けることはそう簡単にはいかないが、使者であるゆえ問題なく相手の軍営に入れたのである。
使者から孔明の病弱を知る
使者が逆利用される場合はもっと多く存在する。赤壁の戦いで曹操が蒋幹を使者に立て、周瑜を説得しようとした。当時の周瑜は、曹操が水軍司令官を蔡瑁に任命したことに頭を悩ませていた。蔡瑁は水上戦の経験が豊かであったからである。
だが周瑜は蒋幹の到来を聞くと、「蔡瑁が死んだ、蔡瑁が死んだ!」と大喜びした。そして周瑜は使者を逆利用する計を練ったのであった。
彼は蒋幹に偽の軍事書簡をわざと盗ませた。その書簡は、蔡瑁が「曹操を殺し、周瑜に降参する」と書いたものであった。曹操が書簡を見ると大いに怒り蔡瑁を殺してしまった。普通に流言をしても相手に信じさせるのは難しいが、自分の使者なら曹操でさえも安易に信じてしまったのである。
また祁山の攻防戦では、司馬懿が防御一方で孔明と戦うことができなかった。第五回目(本稿では六回目)の攻防戦で孔明は十分な量の食糧を蓄え、持久戦の準備をしていた。今までの食糧攻めではうまくいかないと見え、戦いに出るべきかと悩んでいたときに、孔明の使者がやって来た。その使者は司馬懿を侮どるため、婦人服を土産に持って来た。しかし、司馬懿は国のためその侮どりに動じなかった。そして逆に、「孔明の体調はどうですか?」と聞き返した。すると使者は素直に「孔明は軍事事務が忙しく、毎日睡眠時間が四時間足らずで、最近たまに吐血する」と答えたのである。司馬懿は使者を送り出した後、徹底防御の決心をした。その半年後、孔明が軍中で病死した。使者をうまく利用し、情報を得たのが司馬懿の賢さであった。
次回は、戦争中の礼儀シンボル「免戦の札」をお送りする。 (つづく)
三人の英雄が命を落とす
三国志を愛読する読者にとって、夷陵の戦いは悲劇の始まりである。桃園の義で三国志が始まり、そこで義兄弟の契りを結んだ三人の豪傑は、この夷陵の戦いで命を落とす。
私怨で大軍を動かした劉備
関羽が呉の計によって殺され、皇帝の座についたばかりの劉備はその知らせを聞くと、呉への出兵を決意した。蜀は建国したばかりで、経済の面から見ても、軍事の面から見ても、魏や呉との格差が大きい。特に、これまで呉と連盟を結んできた政策を破るのは、自分の首を絞めるような行動だった。この時、孔明、黄権を始め、多くの大臣がその出兵を止めようとしていたが、劉備の決意は固く揺らがなかった。その結果、孔明は国内の建設を進めるため、蜀の国に残ることになった。劉備は全国の総兵力を集め、水陸両軍の指揮を自ら取って呉へ進んだ。
劉備が個人の怨念で国の大事を捨てた結果として、開戦の矢先に張飛が部下に暗殺されるはめになってしまった。張飛を失った劉備は、まさに乗りかかった船という状況で、玉砕の体勢で呉に挑戦していく。呉の孫権は劉備と戦う本心がなく、講和の使者を出し続けたが、劉備はこれをことごとくはねのけた。
孫権は悩んだ末、若き将軍陸孫を総大将に立てた。陸孫はその年42歳であったが、すでに亡くなっていた周瑜や魯粛の輝きに隠されていたため、その才能は世に知られてなかった。これが劉備が夷陵の戦いに負けた主要原因の一つでもあった。
陸孫が総大将になる直前までは、劉備の軍隊が破竹の勢いで進み、呉の軍隊は立ち向かう勇気さえ失いかけていた。その危機の中で陸孫が選ばれたのであった。
蜀軍の隙を見抜いた陸孫
兵法には「敵の長所を避け、敵の短所を突く」という言葉がある。陸孫がとった第一の行動は、呉の猛将を第一線から撤退させ、全軍守りの体勢をとるというものであった。どんなに劉備軍に罵倒されても戦う様子を見せなかった。劉備は仇討ちするために全軍を繰り出していたので、それに刃向うことは莫大な損失を招くことを陸孫は見抜いていたのである。劉備軍との正面衝突を避けるため、陸孫は辛抱して、部下に不平不満を言われても劉備と戦おうとはしなかった。こうして両軍の膠着状態は半年以上続いた。
劉備軍はもはや当時の勢いを失い、兵士たちも相手のことを腰抜けと思い込み、警戒心を解き始めていた。時は真夏の季節で、劉備は川を挟んで、軍営を敷いた。水の汲みやすさと川岸の林陰に惹かれたのであった。
その隙を陸孫は見逃さなかった。その夜に全軍を集結させ、劉備を一撃で破ることを全軍に宣言した。将校たちは半信半疑ではあったが、半年間戦わせてくれなかったことで全員勇んで戦闘に臨んだ。
深夜、陸孫の計略で川の両岸の林を燃やした。劉備軍の陣営は一瞬に火の海に飲み込まれた。陣営は川を挟んで敷かれていたため、互いに助け合うことができず、劉備軍の多くの兵士が捕虜となった。
戦いに敗れた劉備は国に戻る顔がないと自覚し、白帝城で病の床に伏し、そこで一生を終えたのだった。
劉備の敗因はむやみに戦争を仕掛けたことにある。そのため、国の利益を思って戦ってくれる兵士の意志との間に矛盾が発生したのである。陸孫の勝因は、うまく「敵の長所を避け、敵の短所を突いた」ことである。
絶対勝つ戦争は世の中にはない。うまく自己の長所を敵の短所にぶつけられる人物が常勝将軍になれるのである。
(つづく)