元内閣総理大臣 吉田茂 氏

戦後政治の礎を築く

実父の獄中時に生誕

 戦後すぐに内閣総理大臣となり、日本政治の再建に大きく貢献したのが吉田茂である。吉田茂は1878年(明治11年)に竹内綱の五男として誕生した。竹内は親友である吉田健三に養子縁組の約束をしており、3年後の1881年に茂は吉田家に養子として入籍した。吉田には実父と養父の二人の父がいた。
 実父竹内綱は、先見性と実行力にあふれた人だった。高知藩の家臣竹内吉管の息子として生まれた綱は22歳で藩の財政再建を任され、財政難を見事に克服した。明治に入ってからは、大阪府庁や大蔵省で活躍。上司と衝突して官界を去った後には実業界で活躍した。政治には関心を持っていたので、帝国議会創設後には衆議院議員に立候補し当選している。自信家で妥協よりはむしろ決裂を好む綱の性格は、茂にもきちんと相続されている。
 西南戦争が勃発した時、自らは参戦しなかったものの、小銃八百挺を西郷軍に便宜したことが科になり、逮捕された。茂は、綱が新潟で獄中生活をしている時に誕生したのだった。

資産家吉田健三の養子に

 養父吉田健三は、1849年に福井藩士の息子として生まれた。長崎で英学を学び、その後経済人として大活躍した。小柄ではあったが常に背筋を伸ばし、胸を張って堂々としていた。毎朝午前四時には起床し、家族と使用人を大声で指揮して邸内を隅々まで清掃させた。邸宅の門は自分の身長に合わせて造ってあったので、吉田家を訪れる者は必ず頭を下げなければならない仕組みになっていた。
 11歳まで吉田がこのように個性的な養父に鍛えられたことは、彼の「人を喰った」処世の態度に大きな影響を与えた。
 健三は、40歳の若さで死去したが、養子の茂に当時の金で50万円、現在では40億に相当する遺産を残したのである。健三の夫人・士は、茂を実子のようにかわいがった。士夫人は幕末の儒者で有名な佐藤一斉の孫であり、教養の高い賢夫人であった。茂は母親の愛情に飢えることはなかった。
 茂は、竹内綱という実父から先見性と実行力と、妥協よりはむしろ決裂を選ぶ強い性格を受け継ぎ、吉田健三という養父からは莫大な遺産と家長の権限を与えられ、養母士からの愛情に恵まれたのである。

私学で人生の基礎を学ぶ

 吉田は、養父健三の死後12歳で吉田家の家長となる。横浜の太田小学校を卒業後、耕余義塾という全寮制の私立学校に入学した。吉田はここで漢学を中心に学び、人生観の基礎を築いた。耕余義塾のカリキュラムは四書五経が中心になっており、老子・荘子・韓非子・史記のほか、日本、中国及び欧米の歴史が豊富に取り入れられていた。数学と英語もカリキュラムの中に入っていた。ここで吉田は、人間の本性、人情の機微を身につけたと言っていいだろう。
 1894年(明治27年)に耕余義塾を卒業した吉田は、上級学校進学の資格を得るために幾つかの学校を転々とした後、19歳で学習院中等学科に入学した。中高時代の吉田の成績・素行の評価は、成績が中ぐらいとなっており、生活態度では、勤勉さ・紀律については普通であるとの評価を受けている。吉田は要するに成績中位の良い生徒、学生だったのである。摘要欄には「老成の風あり。体育に注意し、活発ならんことを望む」と記されており、吉田の性格の特徴をよく表しているといえよう。11歳で養父健三を失って吉田家の家長となり、たくさんの使用人から「若様」とかしずかれたのであるから、老成の風があったのは当然といってよい。耕余義塾に在学中、吉田は正規の体育を受けていなかったから、乗馬以外に得意とするスポーツがなかったのである。
 1901年8月、吉田茂23歳の時、学習院高等学科を卒業後、9月に大学科に進学した。学習院大学科は、一度は廃止されたものの、華族の子弟を外交官に養成するため、1895年(明治28年)に復活した。だが、1904年に再び廃止となる。それで吉田はその年の9月に東京帝国大学法科学政治学科に編入したのである。吉田は東京帝大で2年間学び、1906年7月に卒業した。吉田茂28歳の時であった。

外交官として中国に勤務

 吉田は東京帝大を卒業後、外交官試験を受験して合格。外交官吉田茂として人生をスタートさせたのである。当時の日本は、満州を抑えて朝鮮半島を狙う帝政ロシアの脅威に直面しており、日英同盟によりロシアの南下に対抗するか、それとも日露協商によってロシアとの対決を避けるかの瀬戸際に立たされていた。当時外務大臣だった小村寿太郎は、膨張主義的なロシアとの協商には長期的に見て効果がないと考えて、日英同盟を主張した。
 これに反して元老の伊藤博文は、ロシア帝国との対決に慎重で日露協商説をとった。小村外相は、元老伊藤の反対を押しきり、1905年に日英同盟の締結に成功している。
 大学時代の吉田は、小村寿太郎のあざやかな外交手腕を知り深い印象を受けたに違いない。吉田は外交官になった当時を振り返って「偶然というべきで、大した動機があったわけではない」語っている。はにかみ屋だった吉田らしい答えであるが、耕余義塾時代に指導者の自信がどれほど国運を左右するかを学んでいた彼が、小村外交から感銘を受けたことは間違いないだろう。
 吉田の最初の勤務先は、奉天総領事館の領事館補であった。中国勤務である。その後約20年間における海外生活の大部分を、中国各地の領事として過ごした。
 当時の外交官の出世コースは、ロンドン・パリ・ワシントン・ニューヨークなどの欧米諸国勤務であり、中国勤務、とりわけても領事館勤務は出世とはあまり縁のないコースであった。晩年の吉田は、当時を回顧して、「私はいかにうぬぼれてみても、外務省の秀才コース、出世街道を歩いてきたとはいえない。しかし、負け惜しみではなく、今にして思うと支那(中国)大陸に早くから勤務できたことは、私をして非常に得るところがあった」と語っている。
 吉田は中国在勤の間、中国人と接する中で、中華思想・中国中心主義的な考え方や習性に触れ、中国という国を肌で学んでいる。戦後、吉田が中ソ対立の深刻化を誰よりも早く予測できたのは、長年にわたる中国勤務によるものと決して無関係ではない。

英国に大きな影響を受ける

 外務省時代の吉田にとって、国際情勢の捉え方に大きな影響を受けたもう一つの国が、英国である。吉田は1908年、30歳の時にロンドン勤務を命じられている。翌年吉田は、枢密顧問官牧野伸顕の令嬢雪子と結婚した。ロンドンに赴任する資産家の外交官と、牧野家の令嬢との結婚は、世俗的な意味でも良縁だったのだろう。吉田は雪子とともにロンドンに到着後、九カ月間勤務した。その後ロンドンには二度訪れることになるのだが、この間に吉田は、世界の政治と経済の中心としての英国の底力を目の当たりにした。19世紀末から20世紀初頭にかけて、英国は世界の工場であり銀行であった。吉田は英国の経済力と外交力に感動し、その偉大な国力を認識した。彼が生涯を通じて英国に好意を持ち、尊敬し続けたのは当然であろう。吉田は学習院在学中から、英語を第一外国語として、シェークスピア、ディケンズに代表される英文学に親しんでいた。ロンドンで吉田は彼等の作品を大いに読んで、英国的なものの考え方や人間の本性に関する彼らの考察から多くを学んでいる。
 以上のように吉田茂の最初のロンドン生活は、彼の思想と国際政治観を形成する上で重大な意味を持っていた。
 外交官時代の吉田について特筆すべきは、やはり駐英大使の時代であろう。1936年、吉田は58歳の時に、駐英大使を命じられた。当時の日本の政治情勢は、軍部が政治の統制に動き出しており、日本が軍国主義化していく頃であった。
 陸軍の青年将校による二・二六事件の勃発により、当時の岡田内閣は総辞職。次の総理に近衛文麿が推されたが、近衛がこれを辞したため、外交官で外相を務めていた広田弘毅が組閣を引き受けることになる。この時、広田は吉田に外相就任を求め、吉田はこれを受諾した。ところが軍部の圧力により、吉田は外相の任を外されることになる。吉田は、断固たる自由主義者であり、新英米派である牧野伸顕の娘婿であったため、軍部の反発を買ったのである。そのため広田は吉田を駐英大使として任命し直した。
 英国在任中に、吉田は二つの仕事に打ち込んだ。一つはヒトラー・ドイツとの防共協定に反対することであり、もう一つは日中間の紛争を解決するため、英国政府の要人と接触し、日英協商を結ぼうとしたことである。

日独の同盟に断固反対する

 日英協力によって、中国問題を何とか解決しようとした吉田の構想は雄大であった。吉田は長年の英国とのつきあいで育成した豊富な人脈――ネヴィル・チェンバレン蔵相やウォレン・フィッシャー大蔵次官など――を活用して全力を尽くした。日英両国が中心となって、中国の秩序の回復、資源の開発、交通網の拡大を財政・金融面で援助しようという吉田の提案には、英国側も深い関心を寄せたが、日本国内の政情は右傾化するばかりであった。
 吉田は日本がドイツと防共協定を締結しようとしていたことに強く反対した。ムッソリーニのイタリアとヒトラーのドイツという二つのファシズム国家と結んだのでは、結局英米を中心とする世界の情勢に抵抗することになり、日本の滅亡につながるというのが吉田の信念であった。しかし、陸軍の主流には、ヒトラー・ドイツに心酔しているものが多く、広田内閣に働きかけてドイツとの間に防共協定を樹立する方針を決定した。日本の主要大使は、この軍部の方針に賛成の意向を示したが、一人吉田だけはあくまで反対し続けた。吉田は一人孤独な立場で軍部の暴走に粘り強く抵抗したのである。
 吉田の必死の抵抗も空しく、1936年11月25日には日独防共協定が結ばれた。その後ドイツはオーストリアを併合し、日本は中国と全面戦争に突入していく。吉田の不安は的中することになる。

終戦工作により逮捕される

 1938年9月3日、駐英大使解任の辞令を受けた吉田は、米英との全面戦争をいかに回避するかを真剣に考えていた。
 吉田は英国のクレイギー大使と米国のグルー大使と絶えず接触して米英両国との関係を好転させるよう努めた。他方、元老西園寺公望公爵、牧野伸顕伯爵や海軍の良識派である米内光政、山本五十六、井上茂美の三提督とも手を携えて、防共協定と軍事同盟化しようとする陸軍主流などのいわゆる枢軸派と粘り強く闘った。
 1945年に入ると、近衛や牧野と共に天皇陛下に戦争終結を訴える上奏文を提出した。その理由は、日本の敗戦が色濃かった上に、日本敗戦の際には国体を転覆しようとする共産主義勢力の台頭を憂慮してのことであった。
 この行動により、吉田は憲兵隊に付け狙われることになり、4月15日に逮捕、拘束された。40日の監禁後に釈放されたが、このことで吉田は日本軍国主義に抵抗したという免罪符を手に入れた。それは終戦後に絶大な威力を発揮することになる。

日本を自由主義国の一員に

 終戦後、吉田はすぐに東久邇内閣の下で外相に就任。1946年には第一次吉田内閣を成立させた。1951年にはサンフランシスコ講和条約を締結。日本は吉田茂主導の下、米国との関係を軸に自由主義国家として、新たに出発した。その後も精力的に政治に取り組み、1963年、85歳で政界を引退するまで27年間にわたり日本政治の発展に貢献した。
 晩年に吉田は、86歳で大勲位菊花大綬章を受勲。3年後の1967年に永眠した。
 吉田茂の生涯を振り返ってみると、彼の強烈な個性、とりわけても信念の強さは見事なものだった。良い方向に表れると不屈の闘魂となるが、その反面常識では理解できない頑固一徹となる。戦後の日本の独立の回復に集中できたのは、彼の激しい性格のゆえであった。人間の好き嫌いがはっきりしていたのは欠点といえるが、人を和ませる抜群のユーモア感覚も備えていた。
 そして、なんと言っても吉田は優れた外交感覚の持ち主であった。国際社会の中で、常に日本の国益を守るという点で吉田は優れた外交家であった。戦後いち早く米国と協調関係を築いたことや、中ソ紛争を世界の誰よりも早く予測できたあたりに吉田の外交感覚の鋭さが示されている。
 社会党議員に対するバカヤロー発言など、時には気性の激しさと、人を人とも思わない尊大な態度が原因となって失敗を招いたこともあるが、外交官・政治家としての信念や考え方、実績を考えれば吉田茂が日本の歴史に残る名宰相であることは間違いないといえよう。

<参考文献>
・(財)吉田茂記念事業財団『人間 吉田茂』(中央公論社、1991年)
・猪木正道『日本宰相列伝(18) 吉田茂』(時事通信社、1986年)

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