第16代総長 矢内原忠雄氏
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新渡戸との運命的な出会い矢内原忠雄は、戦後に南原繁第15代総長に続いて、1951年から57年までの6年間、本学の総長を務めた。矢内原は、1893年1月27日愛媛県に生まれた。11歳の時から中学教員の従兄弟の家にあずけられ、神戸で教育を受けた。矢内原は新渡戸稲造、内村鑑三から思想的に深い影響を受けてきた。矢内原のキリスト教を土台とした思想基盤、学問に対する見つめ方を決定的にしたのは、彼が17歳で第一高等学校に入学したときの校長であった新渡戸稲造に出会ったことである。 一高では1年生に対して毎週倫理講話というのがあり、矢内原はそこで俗に修身といわれるものとは違う、潤いある人生観や世界観の話を聞き、大きな啓発を受けた。矢内原の新渡戸との出会いは、新渡戸が学生のために面会日を作り、学生の質問に何でも答えていたのだが、その場に臨んだのがきっかけである。新渡戸は、わざわざ学校の近くに家を一軒借り、木曜日の午後、塩せんべいや最中を出して、師と学生の全人格的交わりの持てる場を自ら設定していたのである。矢内原はその時のことを振り返りながら、「先生は自ら、人間とか、人生とか、そういうことについて、パーソナリティ人格、それから、社会的意識とでも今ならいうんですか、ソーシャルな意識について話しをされた」と語っている。矢内原はそこで、個人を単位とした社会的連帯の重要性をはじめとして多くのことを学んでいる。 信仰を持ちつつ学問の道へ一方、内村との直接の出会いは、一高2年の10月1日である。それまで矢内原は、内村が出版していた月刊誌『聖書の研究』を購読していたが、内村が日曜日に行っていた聖書講義にはその門を堅く閉ざされ、入門を許されていなかった。ところが、一高2年のときに『聖書の研究』を1年以上読んだ者を特別に面会の上、入門を許すということになり、さっそく飛びついたという訳である。矢内原は内村を通しては、宗教と科学が矛盾せず共存し得る理念であることを学ばされ、信仰を持ちながらも学者として社会科学の道を進むことを決心した。 矢内原は一高以来、内村が70歳でこの世を去る日まで約20年間、内村の話を日曜日の聖書講義で聴いていたが、個人的に接触したのは五本の指で数えられるほどに少なかった。矢内原は、内村をなぜかはわからないが大変畏れていた。内村の方も時々雑誌に「俺の家に来ると邪魔になるから、なるべく来ないように」と書いていたので、なおさら足を運ぶことをしなかった。 初めての訪問については『内村鑑三とともに 上』(東京大学出版会)に述べてあるが、最初に思い立ってから一週間もかかったという。祈りに祈りを重ね、どうしても尋ねざるを得なくなって行った。矢内原は母を18のときに、父を20で失っており、このことに関して両親は死んだ後救われるかどうかという問題にぶつかったのである。 内村は天上の一角を見ながら「僕にもわからんよ」と一言つぶやいただけだった。何かの返事を期待していた矢内原がその場を去ろうとしたとき、内村は「そういう問題は君自身が長く信仰生活を続けていけば、いつかわかるともなく、そのうちに自然にわかるものだ。君自身が信仰を続けなければならないよ」と優しく語り掛けた。矢内原の父が死んだのが1913年10月、内村が愛娘ルツ子の死を契機に復活信仰に至ったのが1912年1月12日であったから、内村はその時、既にこの時の矢内原の質問に対する解答を持っていたはずである。 しかし内村は容易には答えてくれなかった。なぜであろうか。理由の一つには、内村が学閥と争っていたからということが挙げられるだろう。帝国大学初代総理の加藤弘之は、スペンサー的唯物論をもって宗教を迷信であるとし、神を存在しないお化けのようなもの、国体に有害なものであると強く非難した。加藤は、教育勅語の奉読式で内村が最敬礼しなかったことを理由に激しい攻撃を行ったのである。 加えて、いったんは神の前に献身を決意した弟子たちが、ことごとく背教していったことに対する不信があったのかもしれない。内村が矢内原に語る「君自身が信仰を続けなければならない」という言葉の背後に、世の中の表の街道を悠々と歩き国の指導者になっていく一高生への、最後まで神への献身を忘れないでほしいという深遠なる期待があったのではないか。 矢内原は内村を畏れていたが、「もしも内村鑑三記念講演会を1年365日、毎日やるから何か話をしろと言われても、私はおことわりする理由がないくらいに先生の恩を感じております」と述べているように、内村に対する尊敬心と感謝の念があったことに変わりはない。 帝国主義下の植民地を研究矢内原の研究内容は「植民政策」であった。普通、この学問は植民地を統治するすべとして考えられ、植民地の統治機構、行政機構、統治政策といったものであった。ところが矢内原はこれを科学的に分析研究し、植民地を帝国主義の理論的研究、実証的研究の中心として見た。支那事変による傷跡を日本は経済的、文化的に癒すことができるか。事変の進行とともに建設どころか収拾すらも困難な様相を呈してきていた。矢内原はこうした日本の帝国主義政策の中で学生時代を過ごし、その時神によって一つの志を立てたのである。「私は朝鮮に行って民間にあって、朝鮮の人のために働きたい」と。日清・日露戦争の足場となった朝鮮半島では、朝鮮人は日本兵によって有無を言わせず強制的重労働に駆り立てられ、許可もしないのに満州までの鉄道を敷かされた。1910年当時の日韓併合以後はこの人権無視の弾圧は一層強まり、韓国伝統の宗教である儒教・仏教を棄てさせ、日本の神道に強制的に改宗させたり、日本語以外の言語を使うことを許さなかったり、創氏改名といって韓国式の姓名を日本式に変えさせたりしたのである。日本のこの文化政策は人権破壊政策であった。 韓国が日本の属国として、韓国・朝鮮に対する蔑視感情が急速に高まるなかで、韓国に同情の意向を示し、かつ公の場で発言したことは極めて先見の明があったといわざるを得ない。 支那の問題を収拾する責任がある。内村の精神を相続し、この仕事はキリスト者でなければできないと考えていた矢内原にとって、この問題を解決することは学生時代に立てた悲願中の悲願であった。己の国を愛するごとく隣の国を愛し、神の御国が成るために自分の生涯を用いることがキリスト者に課せられた課題であると真剣に考えていたからである。 朝鮮半島の植民地化に抵抗しかし、矢内原は、家庭の事情があって結局朝鮮に行くことができなかった。そこで卒業後、愛媛県にある住友別子鉱業所に就職したわけであるが、3年後、新渡戸稲造が国際連盟へ移るというのでその後任として東大に呼ばれ、植民政策の講座を担当することになった。これを契機として矢内原は朝鮮ばかりでなく、樺太、南洋群島、満州にも直接入って内外から観察しながら植民地問題をとらえ、帝国主義の世界を見つめる研究を始めた。1926年頃から「植民及植民政策」「帝国主義下の台湾」「満州問題」「南洋群島の研究」「帝国主義下の印度」などの文献が出版されている。 矢内原は、朝鮮半島を植民地化することに最後まで抵抗の意思を表明し続けた。結局、それにより大学を追われることになった。 志の成就を天に委ねるしかし矢内原は大学を辞めても、また何かの形で初志が成し遂げられていくことを信じていた。その祈りにも似た思いが天に通じたのだろうか。神が矢内原の懐にいて働いて立たしめ給うた志は、大学の研究領域の問題として、矢内原自身、当初の考えよりはさらに大きく、さらに深く成就させることができたのである。私達の志は神が立てる。それを成し遂げる方法もまた神が定め給うところである。我々が考えたとおりの形では実現しないが、神に導かれて忠実に人生の場を走り、後になってみるならば、自分の予想しなかった形で、しかも予想以上に志の成就せしめられたことを知るであろう。 矢内原は言う、「このように考えれば、初めて人生が明るくなる。この事実がない以上、人生は希望のない砂漠であって、結局人生を否定し、社会を否定するより他ない。神を信じ、神により志を立て、その志の遂行を神によって導かれていくところにのみ、人生を肯定する生活態度が生まれる」。 信念に従い公職追放となるところで矢内原が植民政策を始め、そこから得た結論は何か。それは彼の講演、「悲哀の人」で明らかである。「悲哀の人」とは矢内原自身であった。1929年という帝国主義の最中、国家の進みゆく道を憂え、国家から大学から攻撃を受けながら、悲哀の人となり、地の塩、世の光となって神の正義を訴え続けた。矢内原は内村を通してイエスを知り、内村を敬慕した矢内原は、内村と同様の試練を目の前にして、その試練に屈することなく神の名において国家的悔い改めを唱えたのである。それが矢内原の公職追放の引き金となり、今日でも語り継がれる最終講義における歴史的な国家的悔い改めの辞へと進むのである。 「第一に学問を大切に」と望む最後に、矢内原の著書『大学について』の一節に、「学生に望むところ」というものがある。矢内原が、学生に対し大学生活で得てほしいと願うことが書かれている。それを紹介しよう。「第一に学問を学び、勉学に励むこと。大学時代に学ぶ者は社会に出てから生涯を通じて社会人としての実行力を養うことになる。 そのために、信頼する教師の門をたたき、謙虚な心で哲学や宗教の道を求めることが有意義である。 第二に、安易な現状肯定主義者となることなく、よりよき明日を望むところの進歩的思想と理想主義的熱情を持つことが望ましい。 第三には、暴力、非合法主義を否定し、秩序を重んずる遵法精神をもつことが望ましい。 第四に科学的精神と確固たる人生観を持つこと。 最後に、大学の自由と学生の自治を守るため、すなわち学内秩序の維持のために、一般学生は公共的精神と道徳的勇気を持って欲しい」。 矢内原が約50年前に学生に語ったメッセージであるが、我々がこのメッセージから学ぶことは決して少なくないだろう。
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