849号(2001年12月25日号)

主張

東大の誇りを持ち行動を


 まもなく2001年が終わろうとしている。人々はこの21世紀最初の年をどのように過ごしたであろうか。国内外で起こった多くの出来事をどのように捉え、そして何を思ったであろうか。
 本紙調査による「東大生の重大ニュース」から、やはり東大生も、国内では国民の高い支持を受けた小泉政権を中心とした動向に、そして国外では米国の同時多発テロに対する関心が高かったことがわかった。
 小泉政権の誕生により、それまで低下していた政治に対する国民の関心は高まったといえるだろう。このことは日頃の新聞、メディア等の報道を通じて感じるところでもある。そしてそれは東大生も例外ではない。

東大における無気力・無関心

 学生の無気力、無関心が問題視されて久しい。それは本学においても例外ではないとされてきた。しかし、本当にそうなのだろうか。確かに学内の様子を見る限り、政治や経済、また国外での出来事が学生同士の会話で話題に上るのは、授業時間を除けば少ないと言わざるを得ない。話題の中心はバイトや旅行、異性などであるかも知れないが、自分の夢を抱いている者は多いし、将来の明確な計画を立てている者も少なくはない。では東大生のどこが無気力で、何に対して無関心なのだろうか。
 無気力の面では、東大入試の反動がその一因として考えられる。例えば、東大に合格することのみを目標として勉強をしてきた学生は、合格した途端に力が抜け、新たな目標を見出すのに時間がかかる場合が多い。あるいは、多くの時間と労力を受験勉強に費やしたことの反動として、合格後は息抜き同然の生活となり、そのスタイルを卒業時までひきずるというケースも少なくはない。しかし入試制度への批判が学生の無気力傾向の打開につながるとは思わない。なぜなら、佐々木総長が入学式の式辞の中で「東京大学を卒業しようと、もはや一生の安定が保証される時代でないことは明らか」と指摘したように、東大は目標達成のための一つの過程であって、いまや目標それ自体とはなり得ないからだ。
 目標自体ではないが、しかし本学にはその目標を達成する上で極めて有益な設備、優れた環境、人材等がそろっていることは疑いのない事実だ。問題は、我々がこれをどれだけ生かせるかであるが、それは学生が東大に何を期待してくるかによって大きく異なってくる。東大卒の肩書きを求めてきた人と、世界の諸問題の実態を把握し、これを解決するために東大を選んだ人とでは、学生生活の密度やその姿勢が自ずと違ってくるのである。
 それから「無関心」についてであるが、東大生にしばしば見受けられるのは、自分に関わること以外のことには関心を寄せない、または関わろうとしないという姿勢である。自分、またはそれと近接する世界の中でだけ通用する価値観で、全ての物事を捉らえ、計ることを「無関心」と呼ぶなら、確かにこれは学内で目につく傾向だと言わなければならない。
 しかし、そのような学生にさえ、意識の転換を促す2001年ではなかっただろうか。先に触れた総長の言葉に、それまで抱いていた「東大」のイメージが崩れたという新入生も少なくなかったかも知れない。また、父親のリストラ故に学生の学費の納入が困難になったという話から、日本経済の低迷を実感した者も多かっただろう。そして米国で起こった同時多発テロのニュースから、日本での同様の事件の発生を案じ、不安を募らせた学生も少なくなかったに違いない。確かに我々の多くは今、勉学にいそしむのに十分な環境が与えられている。しかし、平和が保たれていたはずの地で、突如、その平和が奪われるということは、世界的にみれば決して珍しいことではない。そして、我々がいま置かれている環境さえも、これが今後も変わらず続くという保証はさらにないのである。この社会の中で、また歴史の中で自分がどのような位置に置かれているかを認識するなら、変動著しい社会に対して無関心であることはできないし、無気力でいることなどできなくなるはずだ。

利己主義から利他主義へ

 大学の講義の中で、発展途上国の開発援助に携わってきた教官から、次のような話を聞いたことがある。「発展途上国の人々、中でも、その日を暮らしていくことに必死である貧しい人々は、自分、そして家族がいかに生きていくかということ以外、考えることができない。そのような人々が周りの人々に対して思いやりの心を抱くことは難しく、まして社会や国、世界といった次元の考えは生じ得ない」。
 不思議なことに、物質的には恵まれているはずの日本でも、これと似た傾向が見受けられる。思考のベクトルが常に自分に向いており、これを外の世界へ向けることのできる人が少ないのである。もちろんこれは、東大生のみにあてはまる話ではない。物質的に恵まれ、あらゆる情報に触れることもできる日本は、他人に、社会に、そして他国に対して十分に意識を向けることのできる環境であるにも関わらず、実際には「自分」という狭い視野の中で物事を捉らえる傾向が強いのである。
 学力低下が叫ばれているにせよ、東大生が知識や能力の面で日本のトップクラスにあることは間違いない。しかし、これを自らの利益のために用いようとする考えは、意外と得策ではないものである。資源も金銭も、流通してこそ価値を発揮するのであって、日本のような技術立国と産油国がともに自国に目を向けるあまり交流を持ち得ないなら、資源も技術力もその真価を発揮することができない。東大の応援歌の中に「天寵を負える子ら」という一節がある。天寵とは天より与えられた祝福である。自らの才能は決して自分固有の財産ではない。もちろん努力の結果として培われた部分もあろうが、そのような努力ができる環境まで、自ら準備したわけではないはずだ。これを公に属するものと捉らえ、生かしていった時、自分とそれ以外の世界との間で正常な交流がなされ、その真価が発揮されていくのではないだろうか。

大学も社会への貢献目指す

 今年の元旦、本郷でライトアップが行われたが、その意味するところは、知性によって社会貢献を行い、学術成果をリアルに社会に還元することの意思表示であった。新しい世紀である21世紀に向け、東大はそのような大学を目指して多くの改革を進めている。そんな中、私たち一人一人も、社会に対して何ができるのか、何が求められているのかを深く考えていく必要がある。そして日本、アジア、世界へとその思考の次元を高めていった時、私たちの持てる能力もより広範囲で、その真価を発揮する形で引き出されるに違いない。世間では「学力が低下した」とか「東大のレベルが低くなった」とか、さまざまなことが言われている。しかしそんな我々に対しても必ず何らかの期待がかけられているはずだ。私たちはそのような社会貢献の道を模索する東大の一員としての誇りを持ち、立ち上がりたい。

         (Y・E)


■主 張

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  第849号(2001年12月25日号)

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