Soccer新世紀 vol.2

第818号(2000年12月5日号)

 4年に1度開催され、オリンピック以上の国と地域が参加し、観戦者数もそのオリンピックを超えると言われているワールドカップ(以下W杯)。国を代表した選らばれし戦士たちがぶつかり合う、至高の戦場。全世界の人々を熱狂の渦に巻き込む大会。それがW杯だ。今回から数回に渡り、W杯の始まりから前回98年のフランス大会までを見ていくことにする。
 W杯がまだなかった20世紀初頭、サッカーにおける世界一を決める場はオリンピックであった。1924年のパリ、28年のアムステルダムの、2度のオリンピックでウルグアイが連続優勝を果たす。しかもアムステルダム大会の決勝は、ウルグアイvsアルゼンチンの顔合わせ。ラプラタ地域のサッカーの優位性がはっきりと示された大会だった。ヨーロッパの人たちは、初めて目の当たりにする南米のサッカーに目を見張った。そして、それがプロ選手を含めた真の世界一を決めるW杯創設の気運を高めることになり、その後、第3代FIFA会長ジュール・リメによりW杯開催が決まる。
 1930年、ウルグアイで建国100年記念行事として第1回W杯が開催され、ウルグアイは決勝でラプラタ河を挟んだ隣国、アルゼンチンを4―2で破り、前評判どおりの実力を見せ、栄えある初代王者となった。しかし、ヨーロッパ諸国は距離的な問題もあり、わずか4ヶ国しか参加せず、参加国は全部で13ヶ国。当時FIFAから脱退していたイングランド、イタリア、ドイツやスペインなどの強豪も参加せず、このW杯は本当の意味での世界一決定戦とは言えなかった。
 1934年、第2回大会の開催はイタリア。この大会は独裁者ムッソリーニの政治宣伝として使われた。ムッソリーニから地元優勝の至上命令を受けていたイタリアは、決勝でチェコスロバキアに逆転勝ちして優勝した。しかし、第1回優勝のウルグアイが、前回の自国の大会にヨーロッパ勢が参加しなかったことへの報復として大会をボイコット。またアルゼンチンは、前回大会後、主力選手をイタリアに引き抜かれたことに反発し、最強チームを送らなかった。この大会も真の世界一を決める大会とはいえなかった。
 1938年大会はフランスで開かれた。ヒトラーが当時‘中欧のサッカー大国’と言われていたオーストリアを併合したため、ドイツは優勝候補として見られていた。しかし、一回戦でスイスに破れ、また開催国フランスも敗れ去り、前回の王者イタリアが連覇を遂げる。が、この大会もまたイングランドはもちろん、アルゼンチン、ウルグアイの不参加により、真の世界一を決定する大会とは言えない状況であった。ちなみにこの大会から前回優勝国と開催国の予選免除が始まった。
 日本も、このフランスW杯予選にもエントリーしたが、当時日中戦争の激化により参加を見合わせ。日本のW杯初参加は、60年後のフランス大会、つまり我々の知るところの前回大会まで待たなければならなかった。
 そして、フランスW杯の翌1939年、世界を巻き込んだ第二次世界大戦が勃発する。
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