Soccer新世紀 vol.12

第851号(2002年1月25日号)

 今回は、リベロの元祖、皇帝(カイザー)<xッケンバウアーを紹介する。「リベロ」とは、イタリア語で「自由」の意味をもち、ディフェンダー(DF)の最後列に位置しながらもチャンスには積極的に攻撃にも参加する。このポジションは、70年代に彼が確立させ、その後のサッカー界にも大きな影響を与えた。

 ベッケンバウアーは、1945年ドイツのミュンヘンに生まれた。幼少時は、家の近くの空き地でサッカーに明け暮れていた。9才の時、SC1906という小さなクラブに入団。そこで頭角を顕した彼は、数多くの有名クラブからオファーを受ける。当時、ミュンヘンには、1860ミュンヘンとバイエルンミュンヘンという2つのクラブがあった。今でこそバイエルンミュンヘンは世界有数の実力をもつ名門クラブであるが、当時は1860ミュンヘンの方が圧倒的な人気と実力を誇っていた。彼も幼い頃から1860ミュンヘンに憧れ、将来はその一員になることを強く望んでいた。しかし13才の時、対1860ミュンヘン戦で彼の想いは一転する。少年ベッケンバウアーは憧れのチームとの対戦に胸を躍らせていた。ところが試合は大荒れの内容で、1860の選手たちは幼い彼にまで殴りかかったのである。この試合で、彼は夢であった1860のオファーを蹴って、バイエルンに入団することを決心した。

 当時のバイエルンは若手の育成に力を入れており、ゲルト・ミューラーやゼップ・マイヤーなど、後のサッカー史に名を残す有望な若い選手を数多く入団させていた。ベッケンバウアーを中心に根本的な組織作りを進めたバイエルンミュンヘンは、その後長い黄金時代を築くことに成功する。

 彼ははじめ左サイドバックを任されていた。当時のDFは、「相手の攻撃を確実に防ぐ」ことのみが求められていた。しかしその既成観念を退屈に感じ始めたベッケンバウアーは、DFの新しい形を追求し、豊かな創造力によって「リベロ」を生み出した。

 リベロは、高度な技術と卓越した頭脳が要求され、他の誰にも真似できなかった。これ以降、バイエルンミュンヘンと西ドイツ代表は、リベロを生かした革新的な戦術で数々の栄光をつかんでいく。

 ベッケンバウアーは3度ワールドカップに出場。70年大会では準決勝のイタリア戦で右肩を脱臼しながらも最後まで戦い抜き、多くのサッカーファンがその姿を記憶にとどめた。その大会ではベスト4に終わったが、4年後の大会では西ドイツの初優勝に貢献した。

 個人としては、ワールドカップ優勝1回、欧州選手権優勝1回、チャンピオンズカップ優勝3回、また監督としても数多くのタイトルを手中にした。その圧倒的な存在感とプレースタイルが最高の権力者を想起させることから皇帝(カイザー)≠フ称号が付けられたベッケンバウアー。歴史に「もし」はないが、もしあの時、1860ミュンヘンが彼に好印象を与えていたら、サッカー史は現在とは全く違ったかもしれない。                       (つづく)

                 (Y)


Soccer新世紀

851号(1月25日号)

848号(12月15日号)

845号(11月15日号)

838号(8月25日号)

834号(6月25日号)

832号(5月25日号)

829号(4月25日号)

826号(3月25日号)

823号(2月5日号)

821号(1月15日号)

818号(12月5日号)

816号(11月15日号)


851号記事一覧へ