Soccer新世紀 vol.9

第838号(2001年8月25日号)

 鹿島アントラーズで多くの魅力的なプレーを見せてくれたことで日本でもおなじみのこのお方。本名、「アルツール・アンツネス・コインブラ」。ペレと同じく、こちらも”ジーコ”は本名ではない。南米では、名前が長かったり、同じ名前が多かったりすることから、本名ではなくニックネームで登録することが多いらしい。
 父がプロのゴールキーパー、3人の兄も皆プロサッカー選手というサッカー家族の中で育ち、幼い頃からストリートのクラブでサッカーに明け暮れる毎日。ただ、意外にも身体は弱かったらしい。
 そうした環境で技術的にも成長した10才頃、中小クラブのスカウトを受けて入団。それをきっかけに、13才で名門フラメンゴのテストに合格する。フラメンゴ入団後、ジーコは本格的に肉体改造を始める。医学的な筋トレから食事改良をし、細身の身体を強靱なものに変えていった。
 そして18才の時、対バスコ・ダ・ガマ戦で1軍でのプロデビューを、23才ではブラジル代表デビューを果たす。この頃からフリーキックの名手として定着していく。また78年のW杯で、ジーコはペレから続くブラジルのエースナンバー”10”を引き継ぐこととなった。
 日本に来たのは81年のトヨタカップの時が初めて。ジーコはリバプール戦で華麗なパフォーマンスを見せつけ、3−0と完勝。ジーコはMVPにも選ばれた。
 82年W杯のブラジル代表は、優勝の最有力候補だった。ソクラテス、ファルカン、トニーニョ・セレーゾとジーコの4人のカルテットは「黄金のカルテット」と呼ばれた。しかしブラジル代表は残念ながら、準決勝でパオロ・ロッシ率いるイタリアに敗れてしまう。
 30才の時にイタリアのウディネーゼへ移籍。得点王はプラティニに阻まれたが、リーグ最高得点率をマークし、その年の世界最優秀選手に選ばれる。しかし翌年、試合中、左膝にタックルを受けて重傷を負う。ジーコはその後もこの怪我に苦しめられ、何度も手術を繰り返すこととなる。86年、最後のW杯でも怪我のために十分な活躍ができず、ブラジルはベスト8で敗退。結局、ジーコはW杯を手にすることはできなかった。
 その怪我が完治したのは彼が35才の時。ピークを越えたと感じた彼は、その2年後に引退する。引退後は、初代のブラジルスポーツ庁大臣に就任。しかし1年後、Jリーグの開幕を控えた日本サッカー界から要請を受け、ジーコはサッカーの普及と改革のため日本にやってくる。
 Jリーグでは3年近く、鹿島アントラーズに選手として在籍。94年の引退後も、アントラーズの総監督として、日本のサッカー強化に貢献してくれている。また彼は、ブラジルにも2つのクラブを持ち、ジーコサッカースクールとして運営している。
 白いペレと称されたジーコ。日本、ブラジル、そして世界のサッカーの輝かしい未来のために尽力してきた、サッカーへ多大な愛情を捧げる偉大なプレーヤーなのである。


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