Soccer新世紀 vol.4

第823号(2001年2月5日号)

 今回はW杯の歴史の3回目で、1960年代に入る。
 1962年のW杯は、開催2年前に大地震に見舞われ、ようやく復興したチリで開催された。このときはラフプレーの多い、やや低調な大会となった。前回大会で鮮烈なデビューを果たしたペレも、一次リーグで負傷し、戦線離脱を余儀なくされたが、終わってみればブラジルが実力差を見せつけて、W杯2連覇で幕を閉じた。
 戦後低迷していた西欧のサッカー大国も、1960年代に入ると、ドイツのゼーラー、ベッケンバウアー、イタリアのリヴェラ、さらにイングランドのボビー・チャールトンなど戦後育ちの名選手が登場し、巻き返しを図った。
 そして1966年、第8回W杯は、FA創立100周年を記念して、母国イングランドで開かれた。三連覇のかかったブラジルはなんと一次リーグでハンガリー、ポルトガルに敗れ早々と姿を消す。それに対し、サッカー発祥の地でありながら、これまでW杯では目立った結果を残せなかったイングランドは決勝で西独に勝ち、初優勝を飾った。このほか、ベスト4をヨーロッパ勢が独占した。また、この大会の得点王にはモザンビーク出身のエウゼビオ(ポルトガル)が輝き、以後、ヨーロッパでも徐々にアフリカ系の選手が目立つようになる。
 1960年代の後半は、国際舞台でアジア勢が活躍した時期でもある。イングランドW杯では、唯一のアジア代表だった北朝鮮がイタリアを破ってベスト8に進出。準々決勝ではポルトガルを相手に一時は3-0とリードした。結局はエウゼビオ一人に4点取られ、3-5で敗れはしたものの、北朝鮮は豊富な運動量を生かしたサッカーで欧州諸国に驚きを与えた。ちなみにこのときの北朝鮮の「1勝」は'94年、アメリカ大会でサウジアラビアがモロッコを下すまで、W杯でのアジア勢唯一の勝ち星であり続けたのだ。
 1960年代の日本サッカーはデットマール・クラマーに始まるといえる。'60年10月に西独から来日したクラマー・コーチは4年後の東京五輪で強豪アルゼンチンを逆転で破るなどし、日本サッカーをベスト8に導く。そしてレベルアップにはリーグ戦形式の大会が必要という彼の提言で、'65年6月、8つの実業団チームにより、日本サッカーリーグがスタート。そして'68年メキシコ五輪。釜本邦茂、杉山隆一らを擁した日本代表は銅メダルを獲得する。

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