第826号(2001年3月25日号) | |||
ついに時代は1970年代に突入する。 50年代後半から続いていたブラジルの黄金時代は70年のメキシコW杯で最後を飾る。29歳と円熟期を迎えたペレをはじめとして、数多くの名選手を多数擁し、前回予想外の一次リーグ敗退から見事復活し、予選から本大会まで全勝で優勝を飾る。3度目の優勝に貢献したペレはこの大会で「王様」の地位を不動のものとした。 また、この時代、ふたりの天才が登場する。「皇帝」ベッケンバウアーと「スーパースター」クライフである。サッカーを少しかじったものなら、必ず知っているふたり。第二次世界大戦後に生まれた彼らが20代の円熟期に差しかかったのがこの時代であった。 74年大会で王様ペレは代表チームから引退し、新旧交代を印象付けた。 1974年、第10回西ドイツ大会でセンセーションを巻き起こしたのがクライフ擁するオランダであった。DF(ディフェンダー)が攻めあがると前の選手がカバーし、全員が中盤から激しいプレスをかける「トータルフットボール」は未来のサッカーと言われた。 決勝はオランダとベッケンバウアー率いる西ドイツ。この試合はW杯史上に残る好ゲームとなった。オランダが開始直後に先制するが、ドイツが逆転優勝をするが、この大会の主役は間違いなくオランダであった。 南米は低迷していた。ブラジルは南米に対抗するために体力的なサッカーにシフトしようとして失敗。アルゼンチンもクラブチームがヨーロッパで乱闘事件を多く起こし、ヨーロッパの代表が対戦を拒否するようになってしまう。 1978年W杯は、そのアルゼンチンでの開催。当時、アルゼンチンの軍事政権が人権抑圧で非難されていたこともあり、ヨーロッパにはボイコットの動きもあった。そういった中で、飛びぬけたスターやチームの存在しない群雄割拠の状態であった。そんな中、メノッティ監督が作りあげたアルゼンチン代表が攻撃的でクリーンな試合で悲願の優勝を遂げた。これは軍事政権が国威をかけて強化に力を入れた成果でもあった。それまであまりW杯にあまり関心のなかったアルゼンチンは、その後、W杯で何度も優勝を争うようになる。この大会でもう一つ注目すべきことはチュニジアがアフリカ勢ではじめてW杯で勝利を挙げたことである。 また、1977年10月3日、奥寺康彦の西ドイツのクラブチーム入りが発表され、日本人プロ第一号となった。奥寺はその後9年間西ドイツ(当時)でプレーし、235試合25得点を記録した。 |
826号(3月25日号)
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