1090号(2010年6月25日号)

主張

選ぶ国民も責任の自覚を


 日本の政治は、主権在民と多数決の原理に基づいた議会制民主主義体制を取っているが、実際の政治の動きや世論を見ていて疑問に思うことが多い。政権政党を選んだのは国民だが、その国民の世論が、就任一年も経たない首相を辞任に追い込んでいく。1年前には70%もの支持率を与えておいて、数ヵ月後には20%にまで支持率を下げる。このように世論が一貫しない滑稽な現象がここ数年続いているが、いったいこれは首相が悪いのか、首相を選んだ国民が悪いのだろうか。

 主権在民、国民主権の民主主義においては、国民は常に善とされる。議員を選んだり、首相を選んだりする時、その判断自体が、正しいか間違っているかは、決して議論の対象とはならず、声が大きければその声は常に善となる。しかし、数ヵ月後には同じ人間が掌を返したように逆の評価をし始める。最近辞めた首相にしても、1年前と、辞める直前とで、彼自身が大きく変わったわけではない。

 いったいこの責任は誰が取るべきなのか。勿論、首相自身にも責任はあるのだが、そういう首相を選んだ国民には全く責任はないのか。

 多くの国民が無能な首相だと言い始め、その声が大きくなっていき、結局短期間の内に辞任という事態に至ったのだが、その首相を選んだのは、国民である。自分は直接関係ない、投票していないと言う人がいるかも知れないが、主権在民という以上、権利を持っている国民は責任を持つことになる。むしろ自分は彼が選ばれるのを望んでいなかった、自分は彼を信じられなかったと言っても、一旦、首相が選ばれたら、その人を選んだ責任は、彼に投票していない輩にも生じてくることになる。主権在民と国民の権利を主張する以上、それに伴う同等な責任を国民は持つべきだというのが、民主主義の前提である。

 しかし、実際には、国民には権利はあっても責任はない。言いたい放題で言った責任を取る人はいない。

 これと同じことはマスコミにも言える。マスコミは、批判はしても責任は取らない。マスコミ自体に責任がないのは昔からたびたび批判されてきた。だからというわけではないだろうが、マスコミは、選んだ国民の責任をあまり取り上げていないように思われる。これはやはり片手落ちというものではないだろうか。

 しかし、国民にも言い分はあるだろう。そこまでの人物とは知らなかった、そんな無知で指導力のない人物とは選ぶまでは解らなかったと。しかし、権利を行使する以上、選んだ後に問題が起こったとしても、ただ単純に怒ったり不満をぶつけるのではなく、何故このような問題が起こったのかを国民は深く考えるべきであり、同じことが再現しないように、国民も政治家と同じくらいに勉強する責任があると言いたい。そのように自己責任を自覚した国民が多くなれば、マスコミも国民を軽く見なくなるし、彼らももっと勉強してレベルの高い情報を流そうと考えるであろう。

 首相を選んだ直後は高支持率だが、辞める時には支持率が最低で国民の不満の声が高まっている――この繰り返しは、ここ数年の間で、何と4回も起こっている。この国民の反応を見ながら、首相が愚かだと見る人が大半だろうし、何でこんな愚かで無責任な首相だったのかと首相への不満を感じる人が大半だろうが、見方を変えれば、国民は自分で選んで期待しておきながら、だめだったら無責任に批判していることになる。

 もちろん、個人個人を見ると、私はそういう人ではないと考えている人も多くいるだろうが、マスコミが取り上げる国民の反応と称する発言を見ると、無責任発言の連続のように思われることが多い。

 前首相が辞任に追い込まれたきっかけとなった普天間基地問題を考えると、今回の結果については、沖縄の方々の怒りはどうしようもないにしても、それ以外の国民の大半は、喜び、胸をなでおろしているのではないか。しかし、それにしても判断が遅すぎたという怒りが国中に渦巻いて退陣したとも言えるわけだが、そういう首相を選んだのはあなたでしょうと言われても否定できないはずだ。怒るのも自由、喜ぶのも自由、しかし、自分たちの判断でそういう結果になったという責任回避の国民と言われても仕方がない。こういう国民を誰が作ったのか。

 在日米軍基地問題は、このまま行けば基地がある地域の方々にとっては大変な犠牲が強いられるわけだが、もし、日本ではなく外国に持っていったとしたら、その犠牲をその国に払わせてしまうことになる。それで日本は本当に良いのか。自国中心主義は国際社会では通用しない。

 ところが、こういう現実問題に直面しながら、国際社会における日本の役割という大義でものを言い、国民の意識を高めてくれる政治家や学者はほとんど見当たらない。いるのかも知れないが、そういう人物をマスコミは上手に取り上げない。米軍は日本にとって軍事上必要なはずだが、そのことよりも犠牲になる人の意見ばかりを取り上げ、正義ぶった顔をするマスコミに、大義に立つことを果たして期待できるのか。恐らく期待できそうにない。なぜならマスコミはこれが正しいという答えを持っていないからだ。また、国民の多くが何を考えているかの真意は取り上げず、ただ被害者ばかりを強調するのも、マスコミで多く見られるやり方であり、これも憂うべき問題だ。

 こうした世の中に住んでいると、責任や大義を第一に考えるのではなく、自分の権利や利益だけを考える人になりがちである。深い考えを持っている人は、こういう世の中が馬鹿げて見える。少なくとも本学の学生は、自分のことばかり考える安きに流れる生き方ではなく、責任と大義を持った信念ある人間になって欲しいと願う。そうしないと日本には未来がないと感じる。


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