価値観転換提示と捉えよ
「人身事故の影響で電車が遅れています」―そんなアナウンスを耳にすることも首都圏ではすっかり珍しくなくなった。予期せぬ事故の場合が原因のこともあるが、線路内自殺のケースも多々含まれている。
日本は8年連続自殺者が年間3万人を越えている。一日当たり100人の計算となる。2009年のWHOによる自殺率の国際比較によると、日本はベラルーシ、リトアニア、ロシア、カザフスタン、ハンガリーに次ぐ世界6位の自殺率。日本より上位の諸国が旧社会主義国で体制移行に伴う諸問題が如実であることを考慮すると、またそれ以前に先進諸国の中でと考えてみると、日本の際立った自殺率が浮き彫りになる。
自殺率ということではお隣韓国が、一昨年の24位から昨年は9位とこの不本意な統計で大幅に順位を上げている。特に目立つのは、二十代から三十代の若年層の自殺者が多いということ。韓国では幼いころから競争社会にさらされ、親の期待に添うように努力していく。成功すれば問題はないが、ついていけずに「申し訳ない」と自ら死を選ぶ子供もいる。 病気、失業、失意など自殺の原因については簡単に類別できず、実際は様々な要因が絡まりあっている。
諸外国の人々の中に日本の自然、文化に虜になる人たちが次第に増える一方で、日本人であることを卑下する思想が社会に未だ根強く横たわっている。多くの日本人が都市文化に汚染され、自然を離れた快適な環境に求めるべきものがあると錯覚している。都会では開発が進んで高層ビルが立ち並び、その景観の見栄えを展望台から眺める。当たり前のように土はコンクリートで固められ、空き地は無くなり家が立ち並ぶ。草原さえない都会で子供たちは自由に遊ぶ場所も時間もなく、小さな画面にかじりついて一人でゲームに興じる子が増えている。これでもかというほどに便利な製品に囲まれながら、その物質の豊かさの影で、人は人との関わりを失いつつある。まかり通る個人主義。行方不明の高齢者、児童虐待、家族の崩壊。それらを貫く根本的な問題点を見過ごしてきた社会…。
日本人の生真面目さがこうした物質文明を追及しかつ極めてきた、その問題点を反証として象徴的に示すのが、先進国の中での自殺率の高さといえまいか?
翻って、今年は「生物多様性」について多くのメディアが取り上げている。弊紙5月25日号でも大々的に扱った。今月名古屋で開催されたCOP 国際会議のみならず、一般市民に生物多様性の喪失の危機伝達のためわかりやすく身近な例が紹介される。それらの情報は、本来「生物」が非常に多様に創造され、様々に関わり合いバランスを保ちながら存在するものなのだったということを再確認させられる。そのような自然体系に対して人の文明はいつから、どのようにしてバランスを崩してしまったのだろうか。
日本では例えば、沖縄に存在するべき木が何らの過程を経て小笠原の島に育っている。沖縄では「神木」とされ祈りの対象とさえなっている木だが、小笠原の島ではその圧倒的な生命力ゆえに他の木の生育が妨げられ、遂には同島でしか存在できない種が絶滅の危機に晒されている。それで日本はその強い木に穴を開け薬を投入し立ち枯れさせる対処を施している。こうした現状に「人間の手で狂わせたものは、人間の手で元通りにしなければならない。自然が自律的にはできない」との説明がある。
誰のものと主張することにない自然界に対して、どのくらい前から人はその欲望を満たすため、人間の都合に従って生態系のバランスを狂わしてきたのだろう。それがもたらす結果を考えぬまま森林を伐採し海を汚し…。
今日情報インフラが発達した世界となって地球全体レベルでの問題を心ある人々が共有できるようになった。地球温暖化とともにこの生物多様性の急速な劣化という世界的問題提起を通じて、人類がここ百年内に地球全体を如何に矛盾に満ち、バランスを欠いた異常な世界につくってしまったことかがわかる。人類が最近でこそ知るようになったこうした地球環境に関する問題も、人間を中心として物質的豊かさを軸にその文明の発達を追求し続けてきた結果が招いたものとして、人類はその営みのありかたと方向性に対して根本的な疑義を投げかけられているとは言えまいか?
高い自殺率という日本自体の問題、また、生物多様性の劣化を世界と共に考える場の主催国を務めた日本。それはいずれもそれほど昔でない、今日生きる最高齢の人々が生まれた頃から今日まで数十年間に日本とその国民が慣習として追いかけてきた物事のあり方、人生観や社会観に根本的な問いかけを与えている。
思い起こせば「千年の木」を持っているのは日本しかない。都会と異なり地方には豊な自然が息づき、澄んだ水がある。その自然への感性においては、日本人が格別な資質を携えながら自然と共存する悟性を備えてきた民族であることも心の奥底では分かっている。同一人物が、仏壇に手を合わせるかと思えば、クリスマスを祝い、初詣に出かける日本人は、「八百万の神」を拝むと揶揄されることも多いが、神があらゆるものを創造されたという一神教の信仰観をもつ人も、むしろ「八百万の神」の生活信仰や、これに関連して良心的な日本人があらゆるものを尊ぶ姿勢に共通のものを根底に見出すことができはしまいか。各々が自己の神に執着することで招いている世界各地での宗教的民族的衝突をみれば、日本人が「われらの神」への偏狭さをもたないことも争いごとを避ける上では一考に値する姿ではないか。そこにむしろあらゆるものを融合させることのできる寛容さを見出すことができはしまいか。
ついこの間まであったはずの家族のつながりということの意味を深く問い直し、自然に対する精細なまでの感性を日本人の誇りまた価値として再評価することから初めて、今日日本が付きつけられている根本的な問いかけに対して、正しく応えていくための準備を今始めなくてはならない。
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