1091号(2010年7月25日号)

主張

生きた知識の充実を


 業務的なメールでは、冒頭に「いつも大変お世話になっております」、最後に「よろしくお願いいたします」などと書かれていることが多く、それらはほぼ定型句といえる。電子メールの歴史は浅いから、手紙の「拝啓・敬具」「前略・草々」ほど定着している訳ではないだろうが、何の縁もないところから「いつもお世話に…」と書かれ違和感を覚えることも多い。

 その気になって探せば、今日必要な知識・常識はたいていマニュアル本、あるいはそれに類する情報源から見つかる。パソコンの活用術などはもちろん、面接における対応のしかた、人間関係構築に対する指南ほか、いろいろなことを教えてくれる。何かを効率的に身につけるには、これらの資料は非常に有効でもある。ただ、そこに書いてあることが正しいという保証は、誰がしてくれるのだろうか。

 大学院修士課程の入試に関連して、博士課程まで進学するつもりがあるかどうか尋ねると、判でついたように「研究をやってみて興味が湧いたら検討します」という答えが返ってくる、と聞く。これこそマニュアル通りの回答である。就職活動の面接でも、担当者に「またか」と思われているケースがあるかもしれない。

 マニュアルというものがあると、それに従っていれば無難に事が進むように思われる。機械の取り扱いなどはまさにそういう例である。ただ、人間関係までマニュアル化してしまうと、たとえ事故にまでならなくとも、良好な関係を作っていくことが難しく、ましてやそこに人間同士としての豊かさを追求することなど忘れてしまうのではないだろうか。接客業務で多用される言葉使いが「マニュアル敬語」と揶揄されたりするように、心とつながっていなければ不自然な言い回しとなってしまう。

 日常の中でも、時として想定外の事態に直面するものである。仕事によっては、想定外の事態に対する対応能力こそが実力として評価されることもある。変化し不確実性の高まる今日の社会環境の中では、従来の延長線上で物事が進むとは全く限らない。むしろ想定外のことがますます増えていく。想定していなかった状況の中で、様々なことを考え、工夫し、自分の持つ知識や能力を組み合わせたりしながら最大限の対策を出力として発揮できるようにするためには、やはり普段から自分で考えるというプロセスを重ねておくことが肝要である。条件反射的に物事に対処するのでなく、考えて最適解を探し行動を起こすことの積み重ねである。

 学校の勉強もマニュアル化の典型例に陥りやすい。試験で正確に早く正解を得るにはどうすればよいかという技術が重視されがちだ。現実は、高校までの勉強が大学入試に向かって収束してゆき、合格した暁には大学入学後一年も経てばかつて学んだことが記憶の彼方に、ということもありがちである。これではあまりにも無駄が多い。教養学部で学ぶ科目の履修も、点数を稼ぐためだけに終わらせては全くもってもったいない。知識を試験対策の技術に留めておいては十分に活かせない。英語など外国語は試験で点を稼ぐことよりもコミュニケーションに使えてこそ活きるものであるし、様々な知識はともかくどこかで役に立てていきたいものである。

 せっかく身につけた知識は、いざという時に使えるようにしておきたい。「タフな東大生」は、想定外の状況下で、生きた知識を活用して課題を解決できる人材をいうのであろう。ひたすら正解を覚えるのでなく、ただマニュアルに従うのでなく、自ら考えて歩を進めることができるように、努力していくことが必要であろう。

 六月に地球帰還を果たした日本の小惑星探査機「はやぶさ」は、相次いだ故障を様々な工夫で乗り越えたことが注目された。どんな状況でも諦めないという精神面も強調されがちだが、気持ちだけでは課題が解決しない。気持ちと結びついた、知識を活用する力が不可欠である。

 現代の私たちの生活は、過去の人々が積み上げた様々な工夫からなるシステムに支えられている。科学技術に基づく機器類はもちろん、法体系や経済システム、人間関係なども過去の人々の努力の上にこそ大いに成り立っている。一方しかし、多くのものがブラックボックスと化し、また、意味不明だが以前からの因習だからと問題にもされず、なぜそういうものが存在しているのか分からなくなってしまっていたりもする。事故があってはじめて安全装置が解除されていたことが判明したりするように、見えないところで何かが崩壊しつつあるかも知れない。

 マニュアルに従うことは重要なことである。ただ、マニュアルに盲従しているだけでは、いざという時に何もできずに終わってしまうという危険性もある。とりわけ、社会の中で優遇を受けながら知識を身につける機会を与えられている私たちである。大学生活を通じて、知識を活かす力を身につけるべく、日々、自ら考える習慣をつけたい。特に、これから迎える夏休みなどには、座学では得られない経験を通じて、生きた知識、また知識を活かす力を充実させたい。


■主 張

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