規制よりも教育の重視を
臓器の移植に関する法律(臓器移植法)の一部改正がこの7月に施行され、本人の臓器提供の意思が不明な場合も、家族の承諾があれば臓器提供できるようになり、8月9日を皮切りに既に数例の提供がなされた。臓器移植という医療技術の発達によって、脳死下の臓器提供による治療の可能性が広がる一方、死生観が強く問われるようになって久しいが、この法改正をきっかけとして、改めて日本社会全体が死生観に真剣に向き合うことに迫られている。
既に1997年10月から施行されてきた臓器移植法だが、2009年12月までに行なわれた脳死下臓器提供件数は83例だった。1999年の1年間の心臓移植件数だけで比較すると、米国の2182、韓国28、台湾41、中国15に対して、日本は3だった。この日本での件数が少ない理由の一つとして、「本人の書面による臓器提供の意思表示があった場合であって、遺族がこれを拒まないとき又は遺族がないとき」という臓器摘出要件が問題とされた。そのため、「本人の臓器提供の意思が不明の場合であって、遺族がこれを書面により承諾するとき」も、臓器摘出要件に含めることで、要件の緩和による臓器提供件数の増加を企図したというのが、今回の法改正の内容である。
この法改正によって、臓器提供の可否判定に対し、家族の承諾が、本人の意思表示と同等あるいはそれ以上に重要な要因となった。すなわち、生と死の境について、また死生観について、個々人だけの問題にとどまらず、家族の考えが、本人の生死に関わる臓器提供の可否に影響するようになったのだ。
この法改正の根拠を考えてみると、家族というものはお互いが幸福であることを望む強く信頼ある人間関係であるという家族性善説ともいうべき立場に立ったものであったと言えよう。しかし、児童虐待や死亡した家族の年金不正受給など、家族における穏当でない人間関係が報道される今日の現実に直面すると、世の中は決して幸せな家族ばかりではない、むしろそういう家族は稀ではないかとさえ思えてくる。実際、法改正に当たっても、次のような附則が追加された。「政府は、虐待を受けた児童が死亡した場合に当該児童から臓器が提供されることのないよう、移植医療に従事する者が児童に対し虐待が行われた疑いがあるかどうかを確認し、及びその疑いがある場合に適切に対応するための方策に関し検討を加え、その結果に基づいて必要な措置を講ずるものとする」というものだ。
附則を含めたこのような法改正で、しばらくは正当な臓器提供が順調に増加するかもしれないが、人間がその心の闇に翻弄され、人間不信に陥れば、誰も臓器提供の意思を示すことができず、いずれ表向きの臓器移植技術は廃れて不正な闇市場が展開し、新たな規制強化とのいたちごっこに陥ることも危惧される。なぜなら、先例からいっても銃剣から原子力に至るまで、事後的な規制強化によって各種技術の不正使用を防ごうとするような事態は枚挙に暇がなく、逆に事後的な規制強化では追いつかない部分が生じ、それらが犯罪の温床となってきたからである。
それを防ぐには、事後的な規制強化以前に、やはり教育が重要な役割を果たす。元来、臓器移植技術は、生命を救うために開発されたものである。その技術を正しく活かしていくために、自分自身の死生観のみならず家族の人間関係、ひいては社会全体の在り方に至るまで、一人ひとりが真摯に向き合っていく、少なくともそれを促すような教育の強化こそが、対処療法的な規制強化以前の本質措置として元より重要だ。そのような役割を果たす教育は、道徳教育や宗教教育など、一見して科学技術とは対極にある人間の心に関する教育に始まり、心理学や社会学などにまで及ぶ。
本学医学部においても医療倫理学という必修講義が開講されるなど、既に実践されている側面もあるが、工学部などその他の実学はもちろん、全学において、その取り組みを益々深化することが求められる。そして、急速に変化する時代に対応するため、未来を担う学生への教育のみならず、現代社会を支える社会人に対しても同様の教育機会を提供し、大学として社会における積極的な役割を果たすことが期待される。
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